_006__経験をデザインする_ことについて

【考察】「経験をデザインする」ことについて

番外編をはさみます。
昨日の朝(デンマーク時間)Twitterのタイムラインで見かけた、須永研を卒業した先輩である清水淳子さんのツイートで紹介されていた記事に刺激を受けて、「経験をデザインする」ことに関する考察をまとめました。

記事への直のリンクはこちら。2018年3月の記事です。

このレポートでは、ゲーム「フィンチ家の奇妙な屋敷でおきたこと」(PC / PS4。原題:What Remains of Edith Finch。記事に肖って以下,Edith Finch)を開発したチームでcreative directorを務めたIan Dallas氏が登壇した、ある受賞展での講演の様子がまとめられています。

ここでは、プレイヤーの経験を創造するゲームをつくるプロセスにおけるプロトタイピングの態度と方法が示されています。

今回は、その態度についての僕自身の考察を、僕の恩師である須永剛司先生(今回の見出し画像を飾っていただきました)の言葉と、昨日たまたまnoteのタイムラインで見かけた、ミミクリデザインのメンバーインタビューで紹介されている小田裕和( @hirokazu_oda )さんのコメントを交えながら紹介したいと思います。

言葉の定義

今回は「活動」「経験」「体験」という、何となくの違いはわかるけど、はっきりとした違いが説明できないような3つの言葉が出てきます。
僕自身の頭の整理のため、一度定義を復習しておきます。

【活動】:活発に動くこと。ある動きや働きをすること。
(デジタル大辞林「活動」より一部引用)

【経験】:生物体、とくに人間が感覚や内省を通じて得るもの、およびその獲得の過程をいう。体験とほぼ同義だが、体験よりも間接的、公共的、理知的な含みをもつ。
(大日本百科全書「経験」より一部引用)

【体験】:個々人に直接的に与えられる、知的な諸操作が加えられる以前の非反省的な意識内容をさす。経験が外界の知的認識という客観的な意味をもつのに対し、体験はより主観的、個人的な色彩が濃い。
(大日本百科全書「体験」より一部引用)

今回の僕の考察に登場する「活動」という言葉には「生活の中で人が何らかの動作をすること」「人がゲームの中のプレイヤーキャラクターを動作させること」のような意味合いが含まれていると思います。

経験と体験の違いは、だいたい思っていた通りでした。簡単な認識とすると、経験は意味どおりわれわれが感覚や内省を通じて得るものであり、体験は経験の一部で‘‘その場感’’や‘‘その時感’’を共有したいときの情意的な用法という認識で進めたいと思います。

~ここでの用法~
【活動】:「生活の中で人が何らかの動作をすること」「人がゲームの中のプレイヤーキャラクターを動作させること」
【経験】:われわれが感覚や内省を通じて得るもの
【体験】:経験の中でも、‘‘その場感’’や‘‘その時感’’を共有したいときの情意的な用法

使い手の活動の中から、生まれるデザイン

‘‘そもそもゲームにおいて,プレイヤーがどんな体験をするかなど,予測はできない。ましてやEdith Finchのように,あまり類例のない作品――つまりは「いままでにない経験ができるゲーム」――の場合,制作側だって明確に「こんな体験ができます」と断言してゲームを作り始められるわけではない。’’
レポート文中「プレイヤーにストーリーを語るのは無理?」より)

- プレイヤーがどんな体験をするかなど、予測はできない
- 制作側だって明確に
「こんな体験ができます」と断言してゲームを作り始められるわけではない

これって、まさにデザイナー誰しもがユーザーに対して抱えている悩みなのでは。……そして僕はピンと真っ先に須永先生の言葉を思い出して、慌てて研究室のクラウドにある書籍データを探しました。
そして「活動の中から生まれるデザイン」という記事に、その言葉を見つけました。「美育文化」1997年9月号の特集 ものからことへのデザイン に掲載されています。

‘‘デザインは決して作り手の活動の中にのみあるのではない。作られたものごとの使い手の活動の中にもデザインがある。ものごとを、どのように理解し、いかに使うかということを使い手もデザインしているのである。’’

‘‘使い手は生活や仕事における道具利用の専門家である。使い手の活動にふれることから道具の使用を見出すことが作り手としてのデザイナーの専門的な能力だといってもいい。’’

’’使い手側のものごとを使う活動に対して、多様な可能性をもたらすことこそ、優れたデザインなのだと私は思う。デザイナーがものごとに付与している形は、その意味で使用者の「活動の可能性」である。’’

‘‘デザインの問題の核心、つまり、ものごとの形を決定する要因は、その使い手の活動の中にある。ものごとがどのように使われているのかを知ることは、デザインの作り手にとっての最も重要な関心事なのである。ものごとの使い方、壊れ方、直し方、捨て方、そして再利用の仕方などの課題をもってデザインを学ぶ場が必要なのだ。’’
(須永剛司, 「美育文化 1997年9月号 No.9 特集 ものからことへのデザイン」より)

- ものごとの使い手は、その活動の中でものごとをどのように理解し、いかに使うかということをデザインしている

- 活動の中でものごとがどのように使われているのかが、そのものごとの形を決定する要因=デザインの問題の核心

- 使い手側のものごとを使う活動に対して、多様な可能性をもたらすことこそ、優れたデザイン
(……この記述は僕は100%理解できていません。「でなければ優れたデザインではない」とは言い切れないからです

しかしこの使い手の活動に対して可能性をもたらすということに、似たような言及をされていたのが、ミミクリデザインの小田裕和さんがこちらの記事で述べている「意味のデザイン」のスタンスでした。

‘‘例えば、倉庫に使い道のない「レンガ」を大量に眠らせている人がいるとします。その人にとってレンガは、持ってはいるけど「意味のない」ものです。だけど、状況が変わって、レンガを譲ってほしいという人が現れたり、冷蔵庫の高さの調節などの使い道が見つかったりすれば、そのレンガは「意味がある」ものとして認識されます。’’

‘‘「意味のデザイン」による商品開発では、そのような物体がユーザーに届けられる「意味」に着目して、新たな製品を考案していきます。’’

“意味のデザイン”は、そうした隠された意味にあえて目を向けて、それらの意味が最大限発揮されるように製品を洗練させるアプローチです。

ここで紹介されている「意味のデザイン」のスタンスは、僕の中のデザインへの理解を深める上でいつか力になる気がします)

いままでにない経験をデザインする方法

そして、Edith Finchのレポートは以下のように続きます。

‘‘つまり「経験をデザインする」と言えば格好はいいが,これは「作る側ですら知らないことを,形にしようとする」という試みなのだとDallas氏は指摘する。’’
レポート文中「プレイヤーにストーリーを語るのは無理?」より)

- いままでにない経験をデザインすること=作る側ですら知らないことを、形にしようとする試み

これは、先日の【エッセイ】 藝大デザイン科とわたし(後編)の中にある以下の記述と大きく関係しています。

‘‘デザイン科の学生は藝術バックグラウンドのデザインプロセスにおいて、自分でさえ認知していない価値を、天性の勘でつくり上げている’’

‘‘藤崎先生はこのことをよく「創造的な飛躍」という言葉で表されます。須永先生流に言えば「超能力」です。笑’’
(平山義活, 「【エッセイ】 藝大デザイン科とわたし(後編)」文中より)

学生は「自分でさえ認知していない価値」つまり「作る側である学生自身が知らないこと」を、形にしようとしている。これが藝大生の通常のスタンスです。
つまり、藝大生のデザインプロセスは「いままでにない経験をデザインすること」と、相性が良いのではないでしょうか……。

デザイナーは、ユーザー/プレイヤーが彼らの活動の中で創造する意味を予測する

そして、経験をデザインすることの難しさについてこう述べられています。

‘‘「ゲームにおける体験」が予測し難いのには,理由がある。
 例えばこれが映画や演劇であれば,受け取った側がどこに注目するかを,作り手側がコントロールできる。しかしゲームでは,それなりに誘導可能ではあっても(あるいは強制してしまうことも不可能ではなくても),プレイヤーがどこに注目するかをコントロールするのは難しい。
 しかもゲームの場合,プレイヤーは「鉄砲を与えられたばかりの幼児」に等しい。
 なるほど,筆者もゲーム内のキャラクターが「Aボタンでキックする」ことを知り,そして画面に壺が置いてあれば,とりあえずは蹴ってみようとするだろう。’’

レポート文中「プレイヤーにストーリーを語るのは無理?」より)

ゲームでは、プレイヤーがどこに注目するかをコントロールするのは難しい
- プレイヤーは、ゲーム内のキャラクターが「Aボタンでキックする」ことを知り、そして画面に壺が置いてあれば,とりあえずは蹴ってみようとする

一方で須永先生は、使い手(=受け取った側)の活動について以下のように記述しています。

‘‘形の中に与えられたメッセージを使い手は読みとっている。形を見い出し、そこにある働きを解釈している。ものごとを利用するとき、使い手は自分の活動の目的に合わせて、読みとり方を変化させている。読みとりの形、解釈の形、活動の形、そして、ライフスタイルといわれるように生き方の形を自らデザインしているのである。’’
(須永剛司, 「美育文化 1997年9月号 No.9 特集 ものからことへのデザイン」より)

- 使い手は形からメッセージを読みとり、意味や働きを解釈している
- 使い手がものごとを利用すること=自らの活動の形をデザインする営み

ミミクリデザインの小田裕和さんもインタビュー中でこう述べています。

‘‘デザイナーをデザイナーたらしめている、果たすべき本質的な役割は、ユーザーの中で生まれる意味の捉え方・考え方について思いを巡らせる点にあるのではないか’’
(ミミクリデザイン「意味のデザイン」を通じて、新たな気づきを生み出す商品開発の場をファシリテートする(メンバーインタビュー・小田裕和)より)


考察とまとめ

- デザインは作り手の活動の中にのみにあるではなく、使い手の活動の中にもあるという側面を持つ。
- 作り手はプレイヤーの体験を明確に断言して作り始められるわけではない。これは使い手の活動にも言えるのではないか。
- 作り手は「使い手がものごとから読みとったメッセージを解釈し、自らの活動の形をデザインすること = eg.『Aボタンでキックする活動』を選択すること」を尊重し、多様な「活動の可能性」を示すことでそれらを促す。

- いままでにない経験のデザインにおいて、受け取る側に多様な「活動の可能性」をもたらすために「自分自身すら知らないことを形にしよう」という試みは有効なデザインメソットとなり得る。またそれは藝大生が無意識に行っている「創造的な飛躍」や「超能力」と性質が親しい。

……どれも答えではなく、ヒントです。また、僕のいまの固定的な偏見が混ざっていることは、重々承知しているつもりです。
作り手と使い手が協同して行う活動のデザイン、経験のデザインへの、ヒントになればと思います。


そしてまた、Edith Finchのレポートの続きで紹介されている「『感覚』を精密化し,共有する」方法には、まさに僕が今から取り組もうとしている‘‘プレイヤー’’の体験のなかにある「活動の可能性」をデザインすることに力を発揮するヒントが盛りだくさんでした。また何処かで引用したいと思います。ご興味ある方は是非全文をお読みください。

※ちなみに

僕の記事の書き方も「自分自身すら知らないことを形にしよう」という試みなんです。また、僕はデッサンにも同じ意味を見出しています。
とりあえず描いてみて、声に出して読むことで読み手になりきる。そしてどんな続きが読みたいかと、記事がどんな方向に進みたいかと、僕がどんなことを書きたいかの大まかな方向を知って、記事を成長させていく。
はじめから目次を考えられないタイプで、言ってしまえば「読み手の体験」を明確に断言して記事を書けないタイプの人間です……。いつも「終わりはどこかな〜〜…」って、不安になりながら描いています笑
なので、タイトルもサブタイトルもコロコロ変わるんですよね……。

今後共どうぞお付き合いください。。


いま、日本からの友人がデンマークに訪問してくれていて一緒にコペンハーゲンにいまして、明日明後日はお休みする予定です。
次回
ⅳ) 様々な分野をまたがってデザインが必要とされる時代
ⅴ) 環境や倫理的な問題と隣り合うデザインのしごと
は、明々後日に公開予定です。(もしできたら明後日に公開します!)
その後の更新も今のところ未定ですが、次回お知らせします。


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最後までお読みいただきありがとうございます! 7月からは、徐々にINTRODUCTIONから研究内容にシフトしていく予定です! Twitter:https://twitter.com/44_ktz Facebook:https://www.facebook.com/44ktz

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Yoshikatsu Hirayama

東京藝大 デザイン科 修士2年。デンマーク留学中🇩🇰 進行中の修了制作テーマ→「東京藝術大学の学生や職員を巻き込みながら、この大学での彼らの学び方・働き方・暮らし方のco-creationをどうデザインするか?」 noteにて、その探求のプロセスを順次公開していく予定です。
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