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寺山修司の短歌「父親になれざりしかな」

父親になれざりしかな遠沖とおおきを泳ぐ老犬しばらく見つむ

『月蝕機関説』231頁

この歌は、1971年刊行の『寺山修司全歌集』には載っていない。この歌はその後にできたものだからだ。


■語句

なれざりしかな――「なれなかったなあ」。「ざり」は打消の助動詞「ず」の連用形。「なれざり」は「なれず」。「し」は過去の助動詞「き」の連体形。「かな」は終助詞で、連体形に付き、詠嘆(~だなあ)を表わす。「ならざりし」なら「ならなかった」だが、「なれざりし」は「なりたかったがなれなかった」という意味。

遠沖――「とおおき」と読むのだろう。「遠つ沖」という言葉があるが、「遠沖」の方が引き締まっているか。「とおおきを」で五音になる。東北には「遠沖(とおおき)」という地名もあるようだ。

見つむ――「見つめる」の文語形。

■解釈

遠い沖を一匹の老犬が泳いでいくのが見える。死にに行こうとしているようだ。自分もやがてあの老犬のように一人で死んでいくのだろうか。

そう考えたとき、突然、ああ、自分は父親になれなかったなあ、という思いが湧き上がってきたのだ。

■改稿の跡

田中未知編の『月蝕書簡』には、「〈資料〉歌稿ノート」として、寺山のノート類の写真が掲載されている。そのうちの一枚に、「父親になれざりしかな」の歌が書きつけられたものがある(214頁)。

田中によれば、「短冊形に切られた画用紙に、一首ずつ清書されたものが束となって残されていた」ので、「分散しないようにノートに貼って保管」したとのこと。そのノートの見開きページの写真だ。

わざわざ短冊形の画用紙に書いているほどだからほぼ完成形に近いと考えていい。

写真を見ると、最初は、

父親になれざりしかな冬海に漂う老犬見て帰るなり

となっていたが、「に漂う」を二重線で消し、「を泳ぐ」に修正したことがわかる。つまり、

父親になれざりしかな冬海を泳ぐ老犬見て帰るなり

だ。

最終的に次のようになった。

父親になれざりしかな遠沖を泳ぐ老犬しばらく見つむ

「漂う」よりは「泳ぐ」の方が動き(死へと向かっていく?)があっていいし、漠然とした「冬海」よりは「遠沖」のほうがより具体的で、どこか遠くへと去っていく感じが出ている。

また、「老犬見て帰るなり」では、老犬を見た帰り道での「われ」の姿がクローズアップされるが、「老犬しばらく見つむ」では、その場で老犬を見送りながら思いに沈んでいる図となる。こちらの方がイメージが鮮明だ。

やはり最後の形がいいと思う。

■歌の成立状況

◆エッセイ「地中海放蕩」の中
この歌は、寺山修司の晩年の歌と思われているようだ。

たとえば杉山正樹は、「最後の一首(=この歌)を作ったころ、寺山は自分がもう終焉に近いことを推察していた」(杉山268頁)と書いているし、白石征も、「死の数年前、寺山修司晩年の歌である」(白石53頁)としている。

しかしこの歌が最初に発表されたのは、1975年12月刊行の旅行誌『旅』のエッセイ「地中海放蕩」の中だ。

寺山の秘書をしていた田中未知は、寺山は同年7月にフランスのコート・ダジュールにあるニースのホテルに滞在しており、この歌は「そのとき書きつけた」ものだと述べている(『月蝕書簡』202-203頁)。

当時、寺山は39歳。亡くなったのが1983年で、47歳のときだから、晩年の歌とは言えないだろう。

エッセイ「地中海放蕩」は日誌風に次のように始まる。

 ×日×時

 父親になれざりしかな遠沖を泳ぐ老犬しばらく見つむ

 ボールペンで、『ニース・マタン』紙の片隅にメモした一首の短歌である。
 遠沖を泳いでいる一匹の老犬を見ていると、なぜかよそ事ではないような気がしてきたのだ。
 泳ぐ老犬と、私自身の晩年とを繋ぐのは、もしかしたら旅の感傷にすぎないのかも知れない。しかし、早朝の人っ子ひとりいない海を何かが流れているのを見つけて、それが泳いでいる犬の頭だとわかったとき――(その犬が私もよく知っている牡の老犬ブランショだとわかったとき)、私はそこに一人旅をしている私自身が二重写しになってゆくのを防ぐことは出来なかった。
 「父親になれざりしかな」という上の句は、思わず口をついて出たものである。
 実際、私にも数年間の結婚生活というのがあった。父親になるチャンスというのはあったのだが、当時は自分が父親になるということなど考えてもみなかった。それが、離婚して何年も経った今、南仏の旅先で、「父親になれざりしかな」などと思い起すのは、十年前の冗談を、思い出し笑いしているような莫迦ばかげたことだと言えるだろう。

『旅』「地中海放蕩」231頁

寺山はエッセイではいろいろと潤色を加えているので、本当にこのとき作った歌なのだろうかと思わないでもない。

◆エッセイ「Dig」の中
エッセイ「地中海放蕩」は、1981年、単行本『月蝕機関説』に収められた。第5章「賭博紀行」の「地中海Ⅳ」に載っている。

寺山が亡くなったのはそれから2年後の1983年の5月4日だが、同年2月から5月まで、寺山は『週刊読売』に「ジャズが聴こえる」というシリーズ名のエッセイを連載しているようだ。そのうちの一つ「Dig」(=マイルス・デイビスの曲名)にも、この歌が掲げられているとのこと。

「Dig」ではエッセイは次のように変形されている。

  父親になれざりしかな遠沖を泳ぐ老犬しばらく見つむ

 とうとう父親になれなかった。遠沖を泳いでいる一匹の老犬を見ていると、そんな感懐が私をとらえた。
 渚では、一人の黒人がトランペットを吹く練習をしていた。
(中略)
 ジャズを聴きながら、泳ぐ老犬と、わたし自身の晩年をむすびつけるのは、ただの感傷だ、と、私は思った。まして、父親になれなかったことをくやむんて、どうかしている。
 「わたしだって、父親になるチャンスは、何度かあったのだ」
 だが、私は父親になることを望まなかったし、自らを増殖させ、拡散させることを、拒んできた。
 私は、私自身の父になることでせい一杯だったのである。
(中略)
 時がくると、私の人生にはピリオドがうたれる。
 だが、父親になれた男の死はピリオドではなく、コンマなのだ。
 コンマは、休止符であり、また次のセンテンスへとひきつがれてゆくことになる。
 沖は、しだいに暮れかかっていた。
 あの老犬は、どこまで泳いでいくのか? 夜の闇へと泳ぎ消えてゆくのか、それとも泳ぎ戻ってくるのか、私にはわからなかった。

『寺山修司著作集1』513-514頁より

1975年の「地中海放蕩」では「早朝」となっていたのが、ここでは「夕方」となっている。また、トランペットを吹く黒人が登場している。ジャズがテーマのシリーズなので、それに合わせたのだ。

「地中海放蕩」では犬の名前まで出ているし、より具体的だ。また、歌の雰囲気からは「早朝」よりは「夕方」の方がしっくりくるが、「早朝」となっている。このちぐはぐさがリアルなので、実際に「早朝」だったのだろう。

「Dig」では、夕方のもの悲しいトランペット、闇に消えていく犬、自分の死などがあまりにもっともらしく調和している。だからこちらのほうが脚色されているだろう。

杉山正樹や白石征が「父親になれざりし」の歌が晩年に詠まれたものだと思ったのは、「Dig」の印象が強かったからではないか。

■他の人のコメント

ひがし陽一:1983
映画監督の東陽一は、寺山から『月蝕機関説』の寄贈を受けた。「地中海放蕩」が載っている本だ。寺山の死後、東は追悼エッセイの冒頭に「父親になれざりしかな」の歌を掲げて、自身の複雑な思いを吐露している。

むろん、寺山の短歌の本質は、身辺の観察に心境を託して詠嘆するような所にはないから、この説明自体が、歌と同様一つのフィクションだと考えた方がいい。そう思うにも拘わらずこの歌は、まず現実に一児の父であるぼく自身を妙に内側から刺してくるところと、話している間にもソファに横になっていなければならない寺山の肉体の現状の方から突き上げるようにして刺してくるものとが少くとも二重にかさなって、ぼくは長い間その一首の前に立ち止まらざるを得なかった。

『現代詩手帖』1983年11月臨時増刊、107頁

東は、「地中海放蕩」に挙げられた短歌も、それにまつわる説明も「フィクションだと考えた方がいい」と言いつつも、単純にそう割り切ってしまうことができないでいる。寺山の短歌には「身辺の観察に心境を託して詠嘆するところ」はないはずなのに、この歌では寺山の心情がそのまま出ているように思えたのだ。

(……)この「遠沖を泳ぐ老犬」もまた一つの壮絶なフィクションであるとして、さてそれが「父親になれざりしかな」という句と接合されれば、いやおうなくひとはそこに寺山修司の「私」を見ようとするが、と、次に会った時ぼくはほとんど言いかけていた。この幻の「私」性こそをぼくは心から愛しているのだ、と。しかし、話題はすでに変っていた。

(同上107頁)

東は、寺山に会ったとき、言ってみようとする。「遠沖を泳ぐ老犬」は「一つの壮絶なフィクション」なのでしょうが、「父親になれざりしかな」と結びつけられるとあなた自身のことを歌っていると思われてしまいますが……と。だが問いは発せられないままに終わる。

東は悩んだ末に、次のようにまとめる。

この歌を辞世のように読む感傷はないが、しかしぼくはぼくの理由で、これが寺山の遺した「私」についての最期のことばだと思わないわけにはいかないからである。

(同上107-108頁)

「寺山の遺した最期のことば」とは言わずに、「寺山の遺した『私』についての最期のことば」としているところが微妙だ。ただ、東はこの「私」が寺山自身に限りなく近い「私」だと考えているようだ。

■モチーフやテーマが近い歌

ここで扱っている歌とモチーフやテーマが近い歌がいくつかある。

遠き土地あこがれやまぬ老犬として死にたりき星寒かりき

『血と麦』

さむき川をセールスマンの父泳ぐその頭いつまでも潜ることなし

『血と麦』

父親になれざりしかば曇日の書斎に犀を幻想するなり

『月蝕書簡』

老犬が対岸へ泳ぎゆくが見ゆ家は葬儀の花ざかりにて

『月蝕書簡』

寺山は「地中海放蕩」で、「『父親になれざりしかな』という上の句は、思わず口をついて出たものである」と述べているが、これらの歌を見ると、ほんとかな、と思ってしまう。こんなふうに時間をかけてさまざまに試行したものの一つが「父親になれざりしかな」の歌ではないのか。

だが、実際に「思わず口をついて出た」ものかもしれないとも思う。こういったいろいろな歌を詠んだ末に、ニースの歌として結晶したと考えるほうが自然だろう。

それはともかく、これらの歌の「遠き土地」「セールスマンの父」「書斎に犀」「家は葬儀」などのフレーズを見ると、「父親になれざりしかな」の歌の背後に、戦争で失った父親の姿が見え隠れしていることがわかる。

■父親になりたかった?

◆「父親になるチャンス」
「地中海放蕩」でも「Dig」でも寺山は、自分にも「父親になるチャンス」はあった、と書いている。

寺山は27歳のときに、女優の九條映子と結婚した。翌年、九條が妊娠する。長尾三郎は次のように書いている。

寺山は子供を欲しがっていた。九條が一九六四年(昭和三十九年)の暮に妊娠しているとわかったとき、寺山は大喜びし、さっそく谷川俊太郎のところに報告に行き、『妊娠と出産』『子供の育て方』といった本を両手にかかえて帰って来た。/だが、翌一九六五年二月、九條は不幸にも流産してしまう。/「まだ若いんだから、子供なんていつでもできるよ」/と寺山は九條をなぐさめたが、落胆の色は隠せなかった。

長尾三郎『虚構地獄 寺山修司』289頁

◆山田太一の証言
大学時代からの友人だった山田太一は、次のように語っている。

死ぬ少し前にぼくの家に来た時「俺は父親になりたかった」って言ったんですよ。「間もなく死ぬかもしれないけど、父親になりそこなっちゃったよなあ」って言ってましたね。

『現代詩手帖』1983年11月臨時増刊、127頁

◆谷川俊太郎の証言
寺山の死後、谷川俊太郎は次のように述べている。

自惚れるようだけれど、彼(=寺山)が家庭生活に憧れるようになったのは僕の悪影響だったんじゃないかと思います。僕が二度目の結婚をしていて、子供も生まれたりしてました。うちに来ると彼はそういうのもいいなァとふと思ったんじゃないかな。彼はほとんど、家庭の味を知らないで育ってきた人だから、そういうのにひかれるのはよく分かるんだけど、彼の生き方の基本としては、そういう家庭生活の中に安住するっていうタイプでは絶対ないと思うんです。だから僕は彼が結婚するときに、結婚しない方がいいんじゃないの、みたいなことも言った記憶があります。

風馬の会編『寺山修司の世界』15-16頁

谷川は次のようにも述べている。

(寺山は)子孫を残したいとも思ってなかったと思う。

風馬の会編『寺山修司の世界』42頁

■おわりに

寺山は虚構の「私」を持ち出し、現実とは異なる虚構世界を作りあげてきた。でも、今回の歌では自分の心情を素直に表出している。

老犬に自分の終わりを重ねると同時に、海のかなたの戦場で死んでいった父親の姿を思い出している。

父親は自分を残した、父親は父となった、だが、自分は父となることなく死んでいくのかもしれない。血縁を断ち切ることへの強い願望を歌ったことのある寺山が、39歳になって、そう思い、さびしくなったのだ。

最晩年にエッセイ「Dig」で再びこの歌を取り上げ、「地中海放蕩」と似たようなことを書いたのは、死期が本当に近づいてきてこの歌が深い実感とともに甦ってきたからではないか。

そう考えると、晩年に作られた歌ではないにしても、寺山の「最期のことば」(東108頁)、「最後の短歌」(白石23頁)と呼んでもいいのかもしれない。

と書いてこの記事を終えるつもりだった。しかし、全体をもう一度読み直してみると、次のようにも思う。

父親になりたいという願望もやはり寺山の思いの一端にすぎず、どこまで切実だったのかはわからないな、と。「職業は寺山修司です」と語っていたのが寺山修司なのだから。

■補足:歌の所在

今回の歌がどの雑誌に載っているのか、現在はどの本で読めるのかを理解するのに苦労した。以下にまとめておく。

1975年――雑誌『旅』12月号、「ニース賭博紀行〈最終回〉」の「地中海放蕩」
 → 1981年刊の単行本『月蝕機関説』「賭博紀行」の「地中海Ⅳ」
 → 1983年刊の『現代歌人文庫 寺山修司』「プライベート・ルーム」の「ある日の日誌」

1983年――雑誌『週刊読売』、「ジャズが聴こえる」の「Dig」(未読)
 → 2002年刊の『ロング・グッドバイ』第5章「散文詩」の「Dig」)
 → 2009年刊の『寺山修司著作集1』「散文詩=ジャズが聴こえる」の「Dig」

■参考文献

◆テキスト
『旅』1975年12月号、日本交通公社、188-189頁、「地中海放蕩 ニース賭博紀行〈最終回〉」

『月蝕機関説 寺山修司芸術論集』冬樹社、1981

『現代歌人文庫 寺山修司歌集』国文社、1983

『ロング・グッドバイ』講談社文芸文庫、2002

『月蝕書簡』岩波書店、2008

『寺山修司著作集1』クインテッセンス出版、2009

◆文献
白石征『望郷のソネット』深夜叢書社、2015

杉山正樹『寺山修司・遊戯の人』河出文庫、2006

長尾三郎『虚構地獄 寺山修司』講談社文庫、2002

風馬の会編『寺山修司の世界』情況出版、1993

『現代詩手帖』1983年11月臨時増刊、思潮社、117-128頁、「伊丹十三・山田太一対話『言葉使いの劇場』」

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