見出し画像

私は誰かに似ている

私は誰かに似ている。
といって、文体や作風のことではない。
容姿や風貌のことである。

私は、アイコンにあるような面をしている。
自分で言うのもおかしいが、怖い顔だ。
あ、ヤバい奴が来た、と思ったら、ショーウィンドウに映っていた自分だったということが何度もある。
そんなこともあり、どこかの有名人に似ているなどとは、思ったことがなかった。いるとすれば、大部屋のVシネ男優くらいだろうから。

ただ、酒場で麿赤兒まろ あかじ氏と、何度か間違えられたことがある。

キャメルアーツより引用。問題があればご連絡を。

複雑な心境である。
坊主頭だからだろうが、だったら「ブルース・ウィリスさんですよね?」と声をかけられたいものだ。そしたら喜んで本人のフリをし、サインもするのに。「ぶるーす・うぃりす」と。

また読者の一人から、ブライアン・コックスに似てきたとの言葉を頂戴したことがある。
渋い、演技派俳優である。
タイトルに惹かれて観た、映画「チャーチル ノルマンディーの決断」では、最後まで彼だと気づかなかったほどだ。だが私は、映画「RED/レッド」1、2の、イヴァン・シモノフ役が、飄々としていて好きである。
ともかく彼の出た映画は何本も観てきたが、私と似ているとは思ってもいなかった。というか、正直ピンとこない。

※ここで氏の画像を貼りたいのだが、いろいろ権利が絡みそうなので、なし。

あと私は、昔から坊主頭ではない。
会社員をやめて専業作家となり、当然収入が激減し、節約のためバリカンで頭を整えるようになったのだ。で、アタッチメントなしのほうが楽だ、と坊主にしたのである。それまではアフロだったりパンチだったり、パーマをあてていたのだ。
その会社員当時も、誰それに似ている、と言われたことはない。

と、ここまで書いてきたが、以上はすべて前振りで、ここからがじつは本題である。
過去に、とても不思議なことがあったのだ。
どうやら「私」は、「私」に似ていたらしいのである。
ん? 違うな。これではまるで伝わらない。
整理しよう。
つまり、である。
私と瓜二つの人物がいて、その人と間違えられたことがあるのだ。

あれは私が会社員だった時代。
そう、横須賀市の隣の、三浦市の社員寮に住んでいた頃だ。
たしか、二十代だったと思う。
三浦海岸駅前で、中年女性に声をかけられたのだ。
「△△ちゃん、こんなところでなにしてるの?」と。
え? である。私の名前ではないのだから。
「あれからずいぶん心配したんだから。でも元気そうでよかったあ」
それから女性は、早口で一方的に私に喋り続けた。
私はというと思考が混乱し、それとあまりにも一方的であったため、ただ黙って聞いているだけであった。だが、人違いしているのだろうということはわかった。しかしそれを伝える前に、その女性は去ってしまったのである。

そしてその数日後、また同じ駅前で、知らぬ女性から声をかけられた。
「あら△△ちゃん、無事だったのね」と。
その時は、別人であることをきちんと説明した。
だが笑って相手にしてくれなかったのだ。冗談ばっかり、だとかなんとか言われて。
そうしてさらに数日後、走る車から見知らぬ男性が私に手を振ってきた。
「おーい、△△、生きてたのかー」と。

これはドッペルゲンガー現象か、と思った。
だが「もう一人の自分」が居たわけではないので、それではない。
ということは、である。
私とそっくりな人間が他にいると解釈するしかない。
この世には自分に似た人間が3人いる、ともいうし。
そんなそっくりさんが近所にいるとは、なんともすごい確率である。
けれど釈然としない。
数百人もいる職場で、おまえ誰それに似てるな、などと言われたことがないのだから。同僚は、ほとんど地元の人間なのに。
そしてもうひとつ。
声をかけてきた皆が、私が生きていることに驚いた様子だったのだ。

私によく似た人間は、確かに存在していたのだろう。
しかし亡くなり、それで私を借りて、その姿を見せたかったのかもしれない。
そんな解釈をしたものだった。

ともかく、とても不思議な体験であった。
そして今、書いていてもうひとつ、不思議なことに気づいた。
このような心に残る奇妙な体験をしたのにかかわらず、「△△」の名前がどうしても思い出せないのである。
まるでそこだけ消しゴムで消したように。

私は、誰かに似ていた。


よろしければ、サポートをお願いいたします。ご喜捨としていただき、創作の活動費として、ありがたく使わせていただきます。