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フィッツジェラルド探訪

 きまって入浴時、とりわけ頭にシャンプーの泡をもこもことたっぷり乗せて頭髪内に指を深く差し入れ、頭皮をたんねんに揉むように洗っているとき。自分の脳内では作文が始まっている。これは不思議に真実で、文字を打ち込んでいく感覚で文章を降ろしている。しかも、脳内で推敲が同時進行で起きていて逐次もっとも適切な表現に修正を施しながらそれは起きている。
 推敲までしてその作文を、記録したいと思うのだが風呂から上がるとそれらはきれいさっぱりと霧散しているのだった。
 そんなわけでいま、髪も乾かさず頬に滂沱の汗を滴らせたまま、あまつさえ化粧水も塗らず(かろうじてTシャツとゆるいスウェットは装着している)にPCを拡げている。

 とはいえ、ついさっき脳内で作文したことを書きたいがためではなく、むしろ湯舟につかりながら毎度読んでいるフィッツジェラルドの短篇の、これまたあとがき解説文を読み、おそらくはそのあとがきを読むたび数回は「あ、これは書いておきたいな」と思ったことを、忘れぬうちに書いておきたいと思っているのだ。

 フィッツジェラルドと言えば「華麗なるギャツビー」、または「偉大なギャツビー」、時代の翻訳者によって邦題こそ異なるが。10代のころ盛んなアメリカ文学かぶれであった私も、ご多分に漏れずかの作品を読んだのだが、非常に驚いた。のち、落胆もした。米文学史に欠かさず語られるほどの作品に、自分はなんの感想も見出さないばかりかなにひとつ面白味を感じることができなかった。それが自分に、文学への才の欠如を知らせるように思えたのだった。少し前に古本屋でフィッツジェラルドの短篇を買い求めたのには、「短篇であれば何か違う感想があるかもしれぬ」と淡い期待込め、チャレンジのつもりもあったと思う。

 これがまた、そのとおりで短篇は良かった。最高にエキサイティングな読書体験とは至らぬまでも、味わいがあり新鮮であった。自分はあとがきや解説文を大変愛しており、時折日本人で解説でもなんでもなく、その作品とまったく関係のない自分の話や自分と作家に絡めた思い出話だけ書いているものには閉口するが、文学者や翻訳のプロによる解説は作品をよりよく理解し味わうために欠かすことができないため、あとがきから読むことも多い。

 今回、常盤新平氏があとがきを書いておられ、そこにはフィッツジェラルド「偉大なギャツビー」に対して、氏も同様の読書体験を送っていたことがわかりとても驚いた。常盤氏のようなアメリカ文学のプロであっても、初回読んだギャツビーにハマりこめず落胆をし、後年読み返して感銘を受けたと書いてあった。もしかしたら、フィッツジェラルドの作風にはそうしたなにか、仕掛け爆弾のようなものがセットされているのではないか。

 さらに、フィッツジェラルドは経済的理由からも短篇をとにかく量産した作家らしく、『フィッツジェラルドの文体の真髄というのは、つまるところ作者がつねに何か気の利いたことを言いたいと逸っていて、それに合わせて小説を書いたことに尽きる。彼が若くして、長篇よりも制御しやすい短篇において秀れていた、というのはそのためだ(リチャード・フォード言)』という記述を読み、自分はこれに非常に膝を打った。わからなくもないのだ。

 昔、初めて作品という意味合いで文章を書いたのは以前父親に無理やりすすめられたとき、と書いたことがあるが、その頃すでにコンピュータで書くこともできたが、万年筆で原稿用紙に書いていた。理由は、手書きで書く文章とコンピューターを介して綴られる文章とでは、自分の手に拠ってもまったく異なる性格のものとなることに気がついていた。実に不思議なことで、コンピュータを介すると途端に通俗的で浅い、ぺらぺらの文章となってしまい、万年筆でインクの染みる実感を持ちながら原稿用紙に文字を書いていく文章でしか生まれ得ない何かがあったのだ。

 当時大学のコンクールで2年連続入賞をしたことで担当教授がついて、なんだか指導してくれるということになっていたが、自分はまったく書かなかった。理由のひとつに、教授が私が広告代理店に就職が決まったと伝えた際に「断言しよう。君は書かなくなる。というか、書けなくなる」と言ったためだ。大いに反発を覚えたが、残念ながら?呪いのとおり果たしてそのとおりになるのだが。

 今でも、大事なことはノートに手書きで書きなぐると忘れない。自分の場合、メモは後から読み直すためでなく、そのとき脳に強く記憶するために書く。取材時もPCに書きなぐるとまったく覚えていられないが、ノートに走り書きでもいいからしておくと録音を聞くことなしに原稿が書ける。
 あるときから、ノートに書くことのスピードと、頭にある内容を転記するスピードがまったく合わないことに気がついた。とにかく頭にある内容が洪水のようにあふれるのに手書きが追い付かず、大抵においてミミズが走るような悪筆の象形文字のようになっている。たぶん、そうしたノートを垣間見られたら、あの人は悪筆だと言われることは間違いないのだが、毎度そのたびに心中で言い訳をしている。

 だって、追いつかないのだもの。頭に浮かんだことを言葉にしていくのが。

 かつて短期間であったが一日にとにかく膨大な原稿量を書く仕事をしていた際、毎週そこではタイピングスピードのテストが実施され、ランクを上げるとギャランティが上がる仕組みだった。もともと遅い方ではなかったのだが、そのテストが面白くて仕事が終わった夜などにもテストのためのブラインドタッチを練習しまくっていたら、いつか最高スピードランクになっていた。つまり、脳内に浮かんだ言葉を取りにがすことなく捕まえるには、今は悲しい哉、PCでしかあり合えないのだ。

 けれどいつも思う。手書きのあの不思議な魔法にかかったような文章の生まれ方、もう一度もし自分がその時間を楽しめるような性質に戻れたら、きっと今の年齢なりの面白いものが書けるかもしれないのに。そう思わないこともない。フィッツジェラルドの話から、望郷のようにそんなことを思った。


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