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薬と松葉杖のあいだ

先日、精神医療の本を多く出す金子書房の加藤浩平さんと、『アナログゲーム療育』の著者である松本太一さんとご一緒する機会があった。

加藤さんは私の『ボードゲームで社会が変わる』(共著)で、辻田真佐憲さんとのプレイングにも協力してくれた方。松本さんは、講演で伺った発達障害についての知見(ADHDとASDの異同)について、『心を病んだらいけないの?』(これも共著)で紹介させていただいたことがある。

お二人と話して驚いたのは、ボードゲームを障害や不登校の支援に活用する実践が、思った以上に近年普及していたこと。しかし逆に、広まってしまったがゆえの副作用もまた、現れ始めているということだった。

松本さんは「処方箋化」と仰っていたが、要は「この子に足りないのは○○力です。なので、○○力が高まるゲームを紹介してください」みたいな形で、ピンポイントなリクエストが寄せられることが増えているらしい。

ぼく流に言い換えると、それは「薬」を求める発想なんだと思う。たとえば、1999年にSSRIが日本でも解禁された際には「もう、うつは薬で治せる病気になった。メンタルが苦しかったら早めに医者に行って、もらって飲めばいい」とする論調が流行した。でも、その結果はどうだったか。

「薬で治る」と言われると、つい病気を他人に知らせないまま「一人で飲んで治したい」と思ってしまうのは人情だ。つまり、それは病気を徹底して個人化するという副作用をもたらす(*1)。後はお決まりのコースで、「なんで飲んでも治らないのか→ 本人に問題があるんじゃないか」的な自己責任論に行きつくだけだ。というか、現にぼく自身がそうだった。

『心を病んだらいけないの?』には、「あらゆる『能力』に松葉杖を」という節があるのだけど、ぼくはむしろ今必要なのは、支援を薬よりも補助ツールのモデルで考える発想だと思っている。

抗生物質や殺菌剤が典型だが、薬のモデルは① 問題を「消す、なくす」という発想と結びつきがちだ。それはしばしば、②「本人が飲みさえすればいい。飲まないなら(or 飲んでも効かないなら)本人が悪い」といった問題の個人化を帰結する。

逆に松葉杖のモデルには、① 問題自体はずっと残り続けるのだけど「つきあっていく」「うまくやっていけるように支える」発想が込められている。だから② ツールを渡したから「後は本人の責任でしょ」ということにはならない。むしろその人と社会との関係に、ずっと配慮してゆくことが含意される。

そして実は、これは先月の勅使川原真衣さんとのイベントでも議論した、「能力」への2つの見方と表裏一体でもある。

能力をその人個人の持ち物だと考えると、どうしても「それぞれが自己啓発して頑張れ」みたいな話に行きがちだ。一方で、むしろ人と人との噛みあわせこそが能力の主体だと捉えなおすなら、「働きやすい環境とはなにか」を再考する流れにつながる。

『ボードゲームで社会が変わる』では、やっぱり松葉杖の喩えを使って、たとえば『私の世界の見方』というゲームを採り上げたりしている。そうした発想を広めていくために、ぜひ3人でやれることをやっていきましょう……と盛り上がる会食になったのだった。

なにごともマリアージュ。

(*1)
 今年5月の日本うつ病リワーク協会大会での講演で、北中淳子さん(医療人類学)が仰っていたが、中国では逆にうつ病は「社会に問題を感じて悩む人が、煩悶してなる病気」と見なされており、本人が当局に目をつけられるリスクがあるため、医師はなるべく違う病名で診断書を出すらしい。
 ひょっとすると病気に社会性を認めている点では、いたずらに病気が個人化され、セルフケアが求められ、できない人には「自己管理力が低い」とのレッテルが貼られる状態より、そちらの方が実はマシかも? と思うことも(ぼくは)ある。

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