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蜘蛛の糸の経済学

誰かを優先することと、自分を大事にすること。

この二つが同時に叶えばいいと思う。


「遠慮するな、自分を出せ」

「自分に自信をもって、意見を通せ」

 そんな言葉ばかり聞いていると、ふと世の中には「自分を優先するか」「他人を優先するか」の、二種類の人間しかいないような気がしてくる。

 さらには、他人を優先する人間は損をする一方で、自分を優先させる人たちは限られたパイを取り合い、勝者がたった一人のレースに勝たねばならないのだというような、そんな脅迫めいたメッセージまで、受け取らねばならないような気さえしてくる。

 もちろん、親切心から心配をして、一つの勇気づけをしてくれている言葉だろうとは思う。ただ、私が本当のところ何を感じて黙っているのか、何を考えて、ふみとどまっているのか、励ましの言葉をもらえば、変わるような事情であるのかということについて、その場で説明しづらいのが正直なところである。

 それは、「誰かを優先することが、必ず自分を大事にしないということではないのと同じように、自分を優先することが、誰かを大事にしない、ということではない」という当たり前のことを、本当に行動と言葉で実現できるか、という問いに直面しているためである。

 例えば、疲労困憊で、凄まじい(すさまじい)眠気に襲われているときに、目の前に一人分だけ空いた、電車の優先座席があったときに、座ってしまうかどうかという問題。座っても立っていても自分は爆睡必至で、立っていれば多少の危険が伴う。しかし席を譲れば、優先対象の方が座れるかもしれない。これは身近な例だが、文学作品でも有名な「蜘蛛の糸」という話があった。

↓青空文庫↓

 

 面白いことに、この話から読めるのは、我が身を思って他人より自分を優先し、結果、自身を損なうことになるという、通り一辺倒の教訓だけではない。もし、一心不乱に自分を助けることだけに集中し、他者を蹴落とそうなどと思う余裕さえ無かったならば、当初の願いは叶っただろう、という検討すべき可能性なのである。

 釈迦如来の救いが、現世の救いより、大きな掌(たなごころ)であることは気に留めておくべき点ではあるが、自分を助ける為に切り拓いた道が、いずれ誰かを救う道になるという考え方は、現実のものとして、多くの "開拓者" たちの実感の中にあるだろう。

 ただやはり日常の光景、生活の中で、開拓者精神を掲げるには自身の欲が足らず、ともすれば、蜘蛛の糸の主人公のような例ばかり目にしてしまうと、迷いや悩みは大きくなっていく。

 実際、様々な人が暮らす社会で、皆が同じ一つのものを追いかけているわけではない。だからこそ、はじまるのがサービスや物の交換、すなわち経済であり、「"私のため" は、"あなたのため"」の実現なのだ。この経済感覚を、普段の生活、人間関係にも取り入れることで、悩みは無くなる・・・と信じてみたいが、いかんせん、自分ではない誰かの利益ばかりを先に見つけてしまうし、気にしてしまう。

 空いた席に疲れた自分が座れば、まわりまわって、誰かが救われるかもしれないと考えるには、かなりの想像力も必要で、唯一出来るとしたら、優先座席の優先対象に、「とってもお疲れの人」を追加してもらえたら、という提案くらいだろうか。

 だからこそ、自分の願いは冒頭に戻り、「誰かを優先すること」と「自分を大事にすること」の、あいだを埋めることになるのである。これには、周囲の人のやきもきをよそ目に、ちまちまと、日々の積み重ねでやっていくしかないと考えている。心地よい正解は、なかなか見つからないものである。

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