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思想と政党の歴史的生命力 - キリストとマルクス

鈴木元が日本共産党に対して「歴史的限界のあるマルクス流の共産主義」を捨てろと要求している問題について、思想史的な観点から若干の論評を加えたい。実は私自身も、20年前にブログで党名変更の提案を述べていた前歴がある。私はずっと、田口富久治・藤井一行・中野徹三らと同系列の認識と主張だったし、79年の不破・田口論争以前から民主集中制には否定的な意見の若者だった。20年前なら、JCPが党名変更して正真正銘の社会民主主義政党として出直すのはメイクセンスだったと思う。党にはその余力があり、内部で論争して合意を成立させ組織再生に踏み出す体力を残していた。党員の平均年齢も若かった。現在はとてもメイクセンスだとは思わない。そんなことをやっている場合でもない。松竹伸幸の造反劇を歓迎し喝采している左翼は、あまりに平和ボケが過ぎていると苛立つ。

鈴木元の暴論の要求を聞いて想起したのは、ドイツのキリスト教民主同盟(CDU)とイタリアのキリスト教民主党(DC)である。キリストの名前を冠した政党だ。CDUは前メルケル政権の与党で、戦後ずっと社会民主党(SPD)と二大政党を続けてきた保守政党である。DCは、現在は中道右派連合に吸収された過去の政党だが、戦後一貫してイタリアの保守政権を担い、イタリア共産党による政権交代を阻んできた与党だった。ヨーロッパには他にもキリスト教の名前が付いた政党が各国に存在する。子どもの頃、西ドイツのCDUとイタリアのDCは一体どんな政党なのだろうと不思議に思っていた。どうせ冷戦の反共保守がレゾンデートルなのだろうから、日本のように自由民主党という党名でいいじゃないか、わざわざキリスト教という名称を用いる意味があるのだろうかというような、そんな謎の感覚だった。

■ 受難と悲劇の共有、キリストの名の政党

ドイツのCDUの基本綱領にはキリスト教の教義が書かれていて、「人間、自然、環境は神の創造によるものである」と記されているらしい。まさか党員に聖書を読んで教会に通うことを義務付けているわけではないだろうが、キリスト教の伝統的な価値観や道徳観がマイルドな形で諸政策に反映されていることが想像される。ドイツ以外の国で、議会できわめて少数派のキリスト教民主政党の場合は、政府の政策への影響度が小さいこともあって、キリスト教の家族観とかを比較的色濃く押し出し、その個性を主張している傾向が見られる。宗教系の政党としては、中東のエジプトとパレスチナのムスリム同胞団がある。マレーシアには全マレーシア・イスラム党がある。インドのモディ政権の与党であるインド人民党はヒンズー至上主義の政党であり、ヒンズー教に基づいた哲学を綱領に据えている。

政党には党の理念が刻まれ、党の哲学が党名に戴かれる。そこには原点となる思想と思想家の存在があり、古典が残した教義があり、信仰があり、犠牲があり、人が継承してきた世界観と倫理観がある。キリスト教の思想的影響力がどのようなものか、欧米人の内面でイエス・キリストがどのように生きているのか、子どもの頃はよく分からなかったが、映画『パッション』のクライマックス場面を見ると多少とも本質に触れた気分になる。鞭で死ぬほど打たれ、十字架を背負わされて歩かされ、石を投げられ、ゴルゴダの丘で左右の掌を大きな楔で十字架の横棒に打ち付けられ、両足の甲を重ねて一本の楔で縦棒に打ち付けられ、惨たらしく磔の刑に処されて死ぬ。キリストの罪は反逆罪。律法学者を批判した思想犯だ。キリストはその残虐きわまる処刑を受け入れ耐え、志操を貫き通し、激痛に悶え抜いて息絶える。

■ 救世主の偶像 ー 瞬間の中に永遠が宿る歴史意識

十字架には磔刑されたキリストが彫刻されている。苦痛と残酷さは容易に想像できる。ヨーロッパ人はいつもその受難と悲劇を頭の中で再現し、キリストのその瞬間を直視し、自分自身を照らす鏡にするのだろう。人類の罪を救うために身代わりに極刑を受け入れたという教義を、いわば自らの人生の定規として当てて、神妙で謙虚な精神状態になり、自省の中で意志や使命を再確認し再発見するのだろう。妥協なき針路と選択を定め、目的達成へ直進する主体的動力を得るのだろう。丸山真男は、キリスト教の世界像について、「時間」の横軸に対して「永遠」の縦軸が介入する図式を比喩として提示している。横軸(時間)と縦軸(永遠)が交差する点がイエスだと言い、「私は『十字架』というのは非常に象徴的だと思うんです」「瞬間のなかに永遠が宿るというのが、クリスト教の歴史観です」と説いている。(第11巻 P.190-191『日本思想史における「古層」の問題』)

キリストは2000年の歴史を超えて生き、ヨーロッパの政党に名前を冠されている。マルクスは175年の歴史しかない。共産党とはマルクス党の代名詞である。ブログで何度も論じてきたように、社会主義の理念や思想が簡単に地上から消えないのは、資本主義が消えないからに他ならない。資本主義が生き続ける限り、資本主義を否定し、超克し、改造しようとする営みを人類は止むことなく続けざるを得ない。資本主義(新自由主義)の矛盾を解決する方策と展望を求めて真剣に模索する。そのとき、最も核心を衝く理論と哲学を与えているのがマルクスで、今までのところマルクス以上によく資本主義のシステムを分析し批判した知識人はいない。だからマルクスが選ばれる。学ばざるを得ない。不滅なのだ。鈴木元や松竹伸幸が言うように、既成政党が生き残りのためにマルクスの共産主義を捨てるのは簡単だが、捨てればきっと拾う者が出る。

■ 資本主義が繁栄するかぎりマルクスは不滅

資本主義が地上を支配し続けるかぎり、マルクスは永久に古くならない。格差と貧困と環境破壊の矛盾が拡大し続けるかぎり、人はマルクスを手に取り、根本的な問題解決の知恵と示唆を得ようとする。資本主義批判の概念を学び、資本主義を転覆した理想の地平を夢見た19世紀ヨーロッパの革命的ロマンティシズムに接近する。近代市民革命の情熱と精神に触れて興奮する。この理論的所産と思想的挑戦をどうやって21世紀の世界で生かせるか、モディファイし工夫を凝らせるかを考える。アメリカの大学で、マルクスをプラトンの次に重要な古典に位置づけて学ばせているのは、マルクスが西洋政治思想史の準嫡流だからであり、自分たちの大事な思想資産だからである。20世紀の世界史を作った思想的主役がマルクスだからだ。マルクスを読まないと何も分からない。アーレントを読んでも意味が分からない。

鈴木元や松竹伸幸の話を聞いていると、志位和夫や執行部もそうだが、目先の選挙でどうやって票を増やすかという問題意識でしか党の課題を考えてない。商品が売れなくなり経営が苦しくなった会社が、どうやって潰れずに生き残るかに夢中になり、ああだこうだと責任転嫁しているのと同じで、近視眼的にしか問題を見ていない。右傾化し痴呆化し隷米化する大衆世論とマスコミの言説に迎合し、そこに阿諛して目先の票をもらうことしか考えてない。鈴木元と松竹伸幸は、さらにそれを私的な稼ぎと一儲けのネタにしようとしているから悪質だ。自分たちの政党の理念が、現状の社会の原理を根本から否定しているのだという基本的立場を忘れている。体制と価値観が違うということ、価値観の対立と競争で勝たないといけないということを忘れている。つまり、党員たる者の信念が失われている。キリストの弟子たちのように非転向で殉教して斃れた伊藤千代子や高橋とみ子を忘れている。

■ 米国と英国の Marxism の学生たち

ネットを検索すると、アメリカの若い社会主義者や共産主義者が集会し活動している写真が出現する。英国で Marxist Student Federation という横断幕を掲げて行進している大学生の姿がある。全英各地でイベントを開き、研究と交流を活発にやっている。アメリカの若者も同じだが、彼らの表情が明るいのが目立つ。アメリカも英国も、事情は日本と同じだろうから、社会主義・共産主義を取り巻く空気は重く厳しいだろう。アメリカは中国と戦争間際の状況にあり、尚の事、反動と監視の締めつけは強いに違いない。この思想に共鳴すると後ろ指をさされる環境にあるだろう。就職に不利になるだろう。けれども、日本と違って彼らの顔が前向きで明るい。堂々と顔を出して示威表現している。175年前の30歳のマルクスと同じ意気軒高な顔をしている。世界を根底から変革し、弱者を解放するぞという純粋な意気が漂っている。

同時に、一人一人がインテリ青年に見える。『資本論』を読んでいる学生だ。マルクスは難しい。『資本論』だけでなく『経済学哲学草稿』も『ドイツ・イデオロギー』も難しい。彼らは難解な理論体系の習得に取り組んで消化の途上にあり、その知的な自信なり満足感が顔に出ている。マルクス青年というのはこんな感じだ。昔の日本もこうだった。今の日本には、英国の Marxist Student Federation やアメリカの International Marxist Tendency のような若者の絵がない。こうした写真群を見ると、日本で共産党の周辺で野良犬のようにうろつき、毎日毎晩、誹謗中傷と罵倒と恫喝と詭弁ばかり垂れている薄汚いしばき隊と対比され、何と風景が違うのだろうと思う。日本の左翼は愚劣で野蛮な連中しかおらず、暴力しか能のないしばき隊が左翼の主役のように振る舞っている。「学者」の肩書の者もいるが、マルクスの著作など1ページも読んだことはないだろう。鈴木元や松竹伸幸の跳梁もむべなるかなだ。


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