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自然栽培について感じたモヤモヤ

詳細は伏せますが、2023年に自然栽培のことをいろいろと学ぶ機会がありました。そこではいろいろな方によくしていただき、貴重な時間を過ごすことができました。関わってくださった皆様に感謝の気持ちでいっぱいです。

一方で、今の私には信じることができない話、共感できない話も多くありました。正直なところ、自然栽培を知ってからずっと自分のなかに常にモヤモヤがありました。ただ、それは最近まではずっと、単にモヤモヤに過ぎず、強く肯定できるわけでも否定できるわけでもなかったものでした。自然栽培の関係者や私と同じような立場の方々は、ほとんどの方が自然栽培に対して疑いがなく、とても肯定的な印象を抱いているようでした。そんな空気感の中、そこに一石を投じる勇気を持つことは一度もできませんでした。

その代わりに…、とはならないかもしれませんが、自分が感じたモヤモヤと、それについて考えたことをここに書いてみようと思います。自分の気持ちや考えを整理し記録するために書くことが一義的な目的ですが、同じようなモヤモヤを抱えている方に少しでも寄り添うことができれば幸いです。


既存の慣行栽培や有機栽培をあまり悪く言わないでほしい

肥料は土壌や環境を壊して虫を呼ぶ。
農薬は食の安全を脅かす。
有機栽培でも危険な農薬が使用されうる。
有機野菜は腐りやすい。
子供たちの給食を守ろう。

このような話をよく聞きました。わかります。一気に産業化が進み、あまりにも産業的になってしまったことによる陰の部分は確実にあると思います。ずっとこのままエンジンをかけ続けるのはおそらく地球によくないのでしょうし、自分が食べる作物についても、農薬ができるだけ残っていないほうがうれしいなぁという感覚はあります。

でも「危険だ」とか「子供の給食を守ろう」はおそらく言いすぎで、既存の作物との差別化を図るための一種の神格化のようなものだと感じます。日本では、有機栽培の普及率は1%未満と言われていますので、99%の人は慣行栽培による作物を食べていることになります。自然栽培だともっともっと少ないと思います。現代社会のシステムの中でしか生活ができない私たちは、直接的にも間接的にも慣行栽培の恩恵を受けているはずです。今の99%の胃袋を支える技術に私は敬意を持ちたいなと思いました。慣行栽培技術によって安定した品質・収量を出せること、それによって主要な食料供給が支えられていること、今の現実的な物価で抑えらえれていること、また農家の方の生計を守ることやプライベート時間を確保すること、それによって農家の方が持続的に農業を営めること、など多方面に大きく貢献しているように感じます。

あと「安全」「危険」というのは難しい話だと思います。確かに農薬そのものは人体にはあまりよくないものなのでしょう。それはわかるのですが、そのために基準値があり、その基準値以下であれば問題ないとされているものが販売されていると思います。これがもし明らかに危険なのだとしたらとんでもない話ではないでしょうか?世の中の99%の人々が危険にさらされていて、健康的な被害を受けているということになります。が、今のところそんな風には見えません。万一、危険だとしても、有意な差が見えるほどの大きさではないのではないでしょうか?健康にとって大事なのは野菜や果物だけではないはずで、他にもっと危険なものを受け入れているのだとしたら、これほど強く批判するのはバランスが取れていないのではないでしょうか?例えば、お酒・たばこは、農薬より害が大きいように感じます。

完全に個人的な見解ですが、科学は強い前提が置かれた個別の問いに答えを出すことは得意だと思うのですが、いろいろな前提や要素が絡み合った総合体に対しては結構無力だと思っていて、「人体に影響がないか?」みたいなことを証明することは至難を極めるのだと思います。せいぜい「何かを体に入れたときの既知の体の反応があって、それが測定できる場合に、その反応の強さが~以下であれば安全と見なす」みたいなことしか言えないんだろうと思います。あとは統計的な調査もあるでしょうが、長年の経過が必要な調査なので、因果関係を完全に示すのは難しいのでしょう。そこに、「完全に安全と保証できない隙間」があるのだと思います。

ただ、だから自然栽培のほうが安全、ということもまた同様に証明が難しいのではないでしょうか?自然界には人間にとって有毒なものは普通に存在します。人間のこれまでの努力によって食べられるようになったもの、食べるための工夫が見出されたものいろいろあると思います。無農薬セロリは危険という話もあるみたいです。

一方、私たちは体調を崩せば化学薬品の塊を身に投じることで体をより安全な状態にするということも普通にやっています。
全ては個別の話であり、シンプルで明快な線引きはできないのではないでしょうか?

あと、よく引き合いに出される腐敗実験、私はこれもよくわからなかったです。腐らないのが本当だとしたらそれはすごいと思うのですが、腐る作物が悪いかというと、私は普通だと感じますし、腐る前に食べたものが危険であるという説明にはなっていないと思います。

ここまでいろいろ書きましたが、自然栽培や無農薬、無肥料と言われているもののほうが「なんだか地球によさそうだし、体にもよさそう」な気がしますし、気持ちよくいただける雰囲気があります。このように感じる方は多いのではないでしょうか?それで充分なのでは?と思います。潔く「何かよさそうじゃない?」くらいで売ってほしいなと思いますし、私はそういう気持ちでこれからも買いたいと思います。

そもそも作物は「自然」なのか?

野菜や果物って何なのでしょう?ほとんどは人間が長い歴史の中で、雑草や木の実程度のものから品種改良を重ね、人間が好きな部分を大きくしたり、多くしたり、何度でも作れるようにしたものなのだと思います。慣行栽培の基礎となる農学の本を読んでいると、よくフォアグラのことが頭をよぎります。フォアグラはガチョウに多量の餌を投じて肝臓を異常なほどに肥大させて作る食べ物。私も食べるのは好きです。ただ、人間の都合によって、生き物を本来の姿から大きく変えてしまったものであり、罪悪感を感じる対象でもあります。野菜や果実にも似たようなものを感じます。これらの作物の本来の姿とは何か?を考えてみると、それは人間に食べてもらいたくて育つものではなく、作物自身の種の繁栄を目指したものだと思います。果実を異常に大きく実らせること、葉物にできるだけ花を咲かせないようにすること、これは作物の本来の姿に反して、人間の都合で捻じ曲げたものなのだと思います。でもだからといって原始まで帰ろう、とは私は思いません。罪悪感は少しある気もするのですが、逆に言えば果物や野菜は人類が長い時間をかけて積み上げてきた集大成ということでもあると思います。これらにありがたみを感じながらいただくほかに、選択肢を私は持っていません。

ここで言いたかったのは、人間によって育種されてきた作物を使う時点で、既に「本来の自然」からはある程度遠ざかっているのではないかということです。例えば、大きな実が成るように育種されてきた作物を考えると、その作物が必要とする養分は自然から考えれば「異常」に多い、ということになるのではないでしょうか? 自然に自生している植物を今の人間が食用にしようとするとほとんどの場合で物足りず、可食部があまりにも小さく少なく感じるのではないでしょうか?そう考えると、例外はあるにしても、今作られている果物や野菜に対しては、自然にはない養分を人間が追加する必要がある、というのが基本なのだと思います。

自然や森の仕組みから何かを学ぶ試みは素敵だと思いますし、奏功するものもあるだろうと思います。ただ、自然のパワー、森のパワーをうまく使えば何もしなくても野菜がぐんぐん育つ、みたいな論調の話を聞くことがありますが、これは何かが違うのではないか、という気がしてしまいます。自然を都合よく捉えすぎているように思います。「人間の世界のことなど知ったことではない」のが自然の本来の姿だと思います。

自然栽培とは何か?

私自身、自然栽培についていろいろ見たり聞いたりしてきたつもりですが、「こういうものが自然栽培」みたいなわかりやすい線引きはわからないままでいます。ただなんとなくあるのは、豆などの緑肥や、人間が口にできるもので作った土壌改良剤や農薬的なものなら使ってよい、ということは共通しているのかな、ということです。また、自然栽培にもいろいろな流派があるようで細部はそれぞれ異なるかもしれませんが、耕起はしてよいし、F1種も使ってよい、畑の外で培養された特殊な菌を使ってもよい、というところが多いように感じます。ただ、人間が口にできないような動物性由来などの堆肥を使うと、自然栽培ではなく有機栽培と区分される雰囲気があります。この部分はわりと明確な線引きがあるように感じます。

少なくとも、自然栽培はルールが最も厳しい栽培方法であるということは言えそうです。前述の通り、作物は本来の自然の状態では育たないと思いますので、そうなると慣行栽培や有機栽培と比べると何かうまくいかない点があるのが筋だと思います。品質、収量、技術の難易度、手間、、、またはそれらの組み合わせ等、何かしらでハンデを背負っているものと考えられます。もしそうでないとしたら、慣行栽培技術など生まれなかったでしょうし、ひと時代前に自然栽培ブームが起きたときに目ざとい人間たちがビジネス化・大規模化をしない訳がありません。また、自然栽培に取り組んでいる方々は、農業一本で生計を立てるのが簡単ではなさそうに私からは見えています。例えば、農地を貸したり、イベントを企画して参加料を集めたり、他の収入源を確保する必要に迫られているように見えます。

もちろん、自然栽培だからこその魅力もあると思います。慣行栽培や有機栽培と同じものができるとは思いませんし、自然栽培ならではのおいしさや、良いものを食べている心地よさみたいなものはあると思いますし、少なくとも私はそう信じます。数少ない経験、かつ完全に主観的な感想ですが、自然栽培ではやさしい味がする作物が多いように感じています。

オカルトな話がよく紛れ込んでいる

前述のように、自然栽培は固有の魅力もありつつ、一方で何かハンデを背負っているものだと私は思っています。

こういった自然栽培の作物をより魅力的に見せるためなのか、都合の悪さを隠すためなのかわからないのですが、その周辺にオカルトな話がかなり多く転がっているように感じました。具体的な言及は避けますが、一般科学の前提や用語は使いつつも一般科学を否定し独自の理論を展開する、いわゆる似非科学だと私には見受けられる話を幾度となく目にしてきました。それを語る方からは悪意や意図を感じない場合もあれば、少なくとも間接的には悪意を持つ人がいるんだろうと感じる場合もありました。

私も農学に関する知識が乏しいですし、断言はできません。ただ、素直に信じてはいけない話が多くあるように私は感じました。より良いもの・より純粋なものを探し求めて「自然栽培」というキーワードにたどり着いた方を弄ぶ悪意が、この世のどこかにあるように感じてしまいます。

それでも私が興味をもったこと

ここまでで自然栽培に関して感じていたモヤモヤを書いてみました。ここでは逆に、自然栽培に関連する話の中で魅力的に映ったことについて書いてみます。

1つ目は固定種についてです。固定種やF1種のことについては主に野口種苗さんのブログで学ばせていただきました。内容は興味深いだけでなく、くすりと笑えるポイントもあり、とても楽しみながら読ませていただきました。個人的に納得させられたのは、F1種はビジネス的な側面が強いという話でした。雑種強勢、収量が多い、成長が揃う、見た目が揃う、種採りができない、などの側面は全部ビジネス的に有利です。また、収量や見た目が揃うことを重視するので、おいしさについては二の次になっていて、固定種のほうがずっとおいしいという話もありました。他に目を引いたのは、F1種は、雑種強勢を生かすために遺伝子が遠い品種を掛け合わせて作るとのことで、例えば出回っている小松菜は、小松菜とチンゲン菜を掛け合わせたものであるとのこと。野口さんはこれを純粋な(昔の)小松菜ではないとおっしゃっていますが、確かにそうかもしれないと感じますし、純粋な小松菜を食べてみたいという気持ちにもなります。ブログはかなり前に書かれたものなので、もしかしたら今の時代では何か状況が変わっているかもしません。また、固定種には、種採りを続けていくことで自分の土地で淘汰システムが働き、その土地に合った作物に育てていけるというのも何かロマンを感じます。安定するまでに10年くらいかかるようなので、気が遠くなる話ではありますが、細々とやってみたいと感じました。

2つ目は、身近にあるもののみで作物を作れたらそれは素敵だな、ということです。循環型農業やリジェネラティブ農業と呼ばれる取り組みにも通ずるところがあるものと思いますが、タネやクスリを他に依存せず、自らの身の回りの物によって生産し、それを使って栽培ができるのだとしたら、とても魅力的に感じます。これについては、「予め用意された解決策に頼るのではなく、身の回りのモノを使って解決できるスキル」に私が憧れている、という趣味に近い話だと思います。生業とするのは厳しいという話もあるだろうと思います。ただ、肥料や農薬などのクスリ系は輸入に頼っているという話もありますし、最近は戦争などの影響で価格が高騰しているという話もあるので、そのあたりの代替として役立つこともあるかもしれないと思い、興味を持ちました。

おわりに

あとで見返したら恥ずかしいことを書いているんだろうなぁと思いつつ、「今の時点での理解を」ということで書いてみました。
また、この記事の草稿を書いた後にも、書籍やpodcastで新しい情報に触れたことで、「ここはちょっと違ったかも…」「ちょっと考え方変わったかも」という箇所が既にいくつかあるように感じますが、とりあえずは投稿してみることにしました。また考えを改めた内容については、また別の投稿で書いてみたいと思います。

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