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02 西加奈子『きりこについて』を読んで

 野暮な質問ですが、本を読んで声を上げて泣いたことはありますか、私はあります。はい、と答えた方なら、それは頁をめくる手が止まったときでしょうか、最後の一文を読み終えたときでしょうか、それが私の場合、どうしたことか、すべて読み終えて、裏表紙にもそっと目をやって、いちばん初めに見たはずの表紙にもういちど寄り添って、そうして小さなこの文庫本を木目調の机に置いたときでした。表紙の猫の目がこちらをみていました。それだけで、不意に心を包んだこのうすい膜のようなきもちを受け止めて泣く理由に、十分なり得たのです。

 きりこは、読者に対して人という姿で立ち現れない。彼女をくっきりと(たとえそれが各々異なる像だとしても)頭に思い浮かべることができる人間はどのくらいいるのだろう。こんなにも細やかな描写、色彩をもつ台詞を放つにもかかわらず、彼女はぼんやりとした存在として私たちの前に現れる。この場合のぼんやり、とは、曖昧という意味ではない。纏うものの大きさに目が眩むが故に実体が掴めないという意味だ。西加奈子の文章にでてくる人間は、こうした"ぼんやり"をもつ者が多いが、きりこの場合、それをもっていることを他の登場人物たちにも頷かせる。

 私は、きりこがもつそれを、光と呼びたい。そしてその光を目にしたとき、自分がなんなのか、否、自分というものさえも知らずに、ニコラス2世に言わせたらそれこそ1桁程度のIQしかもたない状態で、胎内から登場したあのときの感覚に似たものを覚えた。愛おしかった。わからないなりにこの世界を受け止めることをすんなりとさせてくれたあの光と同じものだった。そうして私は、あのときと同じように涙した。

 美しいという言葉も、その対義語も、形容詞でしかない。それを用いることは、「容れ物」を異なる表現であらわすことにしかならない。だからここで、彼女を美しいと評すことはしない。

きりこ、「きりこについて」、その先を知っているのは、あなただけしかいないってこと、知ってた?


西加奈子『きりこについて』

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