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【PR】『教育観を磨く 子どもが輝く学校をめぐる旅』刊行!

こんにちは。
最近ずっと「大学のソウルフード!」ばかり書いていましたが、新刊ができてきたので、そちらのPRもさせてもらえればと思います。

今回できてきたのは、
『教育観を磨く 子どもが輝く学校をめぐる旅』(井藤元・苫野一徳・小木曽由佳 著)です!

みなさん、教育って関心ありますか?

そう聞くと、多くの方は「ある」と答えるのではないでしょうか。
学校に通ったり、塾や習い事に通ったりして、何か自分なりに思うことがあったという方がほとんどだと思います。
だからではないですが、教育について語る場面では、つい自分の経験や、受けてきた教育をもとに語りがちです(私も含めて、ですが)。
そういう部分があることは、全否定されるものではないと思います。個人の経験の中にも普遍に通じるものは当然ありますし、他人と共有する中で、似ている部分もあれば違う部分もある、ということに気づくこともあるでしょう。それはそれで、とても素晴らしいことではないでしょうか。
しかし、そうした思い込みはいったん脇に置いてください。そして、考えてみてください。たとえば、こんな学校、どう思いますか?

先生のいない学校
テストや通知表のない学校
時間割のない学校
一日中、好きなことができる学校…

「そんな学校、本当にあるの?」

あるんです。
今回の本では、4つの学校にスポットを当てました。

北九州子どもの村小学校・中学校

http://www.kinokuni.ac.jp/kitakyushu/

伊那市立伊那小学校

http://www.ina-ngn.ed.jp/~inasho/

三河サドベリースクール・シードーム

https://www.mikawasudbury.com/

横浜シュタイナー学園

https://yokohama-steiner.jp/

本書では、4つの学校の先生にナビゲーター役をお願いし、まず臨床心理学を専門とする小木曽由佳先生がインタビューをしていきます。一通り質問を終えて場が温まったところで気鋭の教育学者である井藤元先生・苫野一徳先生が加わり、ディスカッションをしていきます。
それから、井藤先生と苫野先生が学校を取材して気づいたこと、疑問に思ったことを率直に投げかけ、ナビゲーターの先生に日々実感している魅力や葛藤についてたっぷりと語っていただきました。
最終章で、旅を終えた井藤先生と苫野先生が、掴み取ってきたテーマについて語り合います。
主に教師など、教育に関わっている人や、これから教育に関わろうとしている人向けに書かれていますが、お子さんをお持ちの方や、地域で社会教育に関わろうとしている人、何となく教育に興味がある人が読まれても面白い内容になっています。

北九州子どもの村は、「きのくに子どもの村学園」が運営している学校で、「プロジェクト」を中心に学校生活が回っています。子どもたちは小物を製作したり、校庭で建物を作ったり、演劇をやったりするプロジェクトに分かれ、それらの実践を通じて多くのことを学んでいきます。「先生」ではなく「大人」を呼ばれ、年齢は上だけど一緒に学ぶ仲間、という位置づけです。また、6割ぐらいの子どもが寮生活を行っており、親元を離れることでたくましく育つようです。

伊那小学校は、公立小学校ですが非常に独特なカリキュラムの学校です。40年以上前から総合学習が学びの中心に据えられ、チャイムもなければ通知表もありません。3年間基本的にクラス替えがなく、クラスで何に取り組むか考え、それを実施していきます。

石窯でパンを焼くクラスの見学をしました!

例えば、「石窯でパンを焼きたい!」と決めた場合、石窯を作る素材から探します。瀬戸市の耐火煉瓦を使うことにして取り寄せ、石窯を組み立て、パンを作るために酵母を育てたり。小学生がここまでやるとなると、相当勉強をしなければならないのは、想像に難くありませんね。

三河サドベリースクール・シードームでは、全ての事柄を生徒とスタッフ(「先生」とは呼ばない)の話し合いで決めていきます。学校のルールも大人が押し付けるものではなく、話し合いで決めて、不都合があれば変えていくというもの。
何かを「しなければならない」というのはなく、ゲームをやっている子もいれば、本を読んでいる子もいます。それであっても、人が集まる場所では色々な調整が必要になるため、自分の主張をするだけではなく、相手の話を聞く姿勢も身に付いてきます。私も見学をして子どもたちの話を聞きましたが、自分の意見を言うことも、相手の話を聞くことも、随分長けているなあという印象を持ちました。

横浜シュタイナー学園は、今から100年以上前に生まれたシュタイナー教育を行っている学校です。美しい黒板絵や幻想的なオイリュトミーに象徴されるように、全てが芸術的で、神秘的な色彩を帯びています。非常に難解な体系の教育実践ですが、教育の哲学、倫理、宗教観などを極限まで突き詰めたものだと思いました。
私見ですが、「なぜ生きているのか。この使命を果たすために、今何を学ぶべきか」ということを考えさせられる気がします。それが真の自由にも繋がっていく感覚とでも言うべきでしょうか。もっと知りたい方は本書を読んでいただければと思います。

私も取材に同行して、色々とお話を伺いながら、考えさせられました。
これらの学校での実践は、私たちが「当たり前」だと思っている教育の形について、根本から疑問を投げかけます。
とりわけ都会に住んでいると、「教育」というと、いかに学力を身につけさせて競争に勝たせるか、ということにばかり目が向きがちです。
私は今42歳ですが、学生時代の友人たちと話をすると、大体すぐに子どもの話になり、「○○の初等部に入れた」とか、「○○中学に受かった」という話になるわけで…。
もちろん、能力を身につけさせることは非常に大事で、それを手にすることで自由に動けるようになることは否定できません。
が、それだけに教育の目的を収斂させてしまうことは、一面的な見方なのかもしれません。

子どもの頃を思い出してみてください。
勉強をした記憶の他に、友達とケンカしたことや、委員会で何かを実施したこと、クラスで話し合いをしたことなどがあったのではないでしょうか。
そうした取り組みで得られる経験って、もしかしたら教科の学習よりも大事かもしれない。あるいは、教科の学びにも還元されるものだとしたら…。
そんなことを考えていくと、今まで自分の受けてきた教育や、子どもに受けさせようと思っている教育が、自明のものではないことに気づくのではないでしょうか。

今回取り上げた学校について、本が出る前から知っている人も実は結構いて、こうした教育に憧れ、子どもをその学校に通わせるために住まいを移す人もいるようです。
それは凄いことだと思いますが、果たしてそれだけが答えなのでしょうか?
もしかしたら、本書で取り上げた学校の実践の中で、「いいな」と思ったものを自分の子どもが通っている学校でできるように働きかけることもできるかもしれないですし、学校の先生や教職志望の学生さんであれば、「よし、これを応用してできることをやってみよう!」と考えてみることも非常に価値のあることだと思うのです。

苫野先生も、本書の中でこうおっしゃっています。

ただ、一つ注意が要ると思うのは、…「完璧なユートピアは存在しない」ということです。…親御さんが、「ここが理想の学校に違いない」と我が子を通わせても、何か不満が出てくると、「失敗した」などと思ってしまう話も聞きます。でもそれは、ありもしないユートピアを追い求めていただけのことなのかもしれません。
本当に大事なのは、むしろ足下をどうすればよりよい学校にしていけるか、一緒に作り合っていくという発想です。
(中略)
本書に通底するマインドセットをしっかりと押さえておけば、どんな現場でもある程度は実現できる。学校でも、児童館や図書館で子どもたちと関わるのでも、子育てでも、そういう自分の現場に引き寄せて、必ず立ち返るべき本質部分を、本書からは見つけ出せるはずだと思います。

『教育観を磨く』206,207頁より

どこかに理想を求めるのではなく、目の前のコミュニティをよりよくしていくという発想が、大事なのかもしれませんね。
その気持ちがあれば、学校でも、家でも、公民館でも、学習塾やオフィスや工場でも、新しい取り組みができるかもしれませんし、それが巡り巡って地元や近隣地域、日本、そして世界を良くしていくことにもつながるのかもしれません(大げさか?)。

そういう可能性を信じてみると、ワクワクしてきませんか?
できないことを嘆くより、できることをやってみて、そこで生まれた何かに目をつけて、それを育んでいく。それを続けていくことで、もしかしたらあなたの学校が、次の取材先になるかもしれませんね。

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