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リフレイン

 絵の中にいた外面のいい言葉たちを指先に送り届けた。言葉たちが去った部屋を、私はしめやかに片づける。騒々しい言葉たちが鬱陶しくはあったが、言葉のいない部屋はどこか寒々しい。また新しい言葉を迎えるために、私は部屋をしつらえ直した。まるでこれから命を育む子宮のように、柔毛で誂えた絨毯を敷き詰めた。

 言葉たちはノックもせずに入ってくる。そもそもこの部屋に扉は存在しているのだろうか。慌ただしく飛び込んでくる言葉もあれば、そっと部屋の内部を覗いてからようやく一歩を踏み入れるという慎重な言葉もある。でもおそらくほとんどが、もとは私の一部だ。だから恐ろしくはない。

 時には未知の言葉を招きいれることがある。初めて訪れた言葉に触れるとき私は震える。どんな性質を帯びているのかは触れるまでわからない。電気を帯びていたり、氷の息を持っていたり、春の柔らかい陽だまりのような眼差しを持つ言葉もある。

 どんな言葉が訪れようと、許容しなければならぬと思っていた。たとえ傷ついても。納得できなくても。

 それが「建前」だと「本音」と「本心」から言われた時、自分がいかに見せかけだけの存在だったかに合点がいった。私は私に「ゲート」を設けなかった。本来なら「ドア」より「ゲート」を設けて、「門番」を置くべきだった。

 あんたは「本心」を忘れていたから、同時に「門」のことも忘れてしまったんだよと「本音」は言った。「建前」と「本音」は一緒に「本心」の中にいなければならない、それが誠実と言うものだろう、と「本音」は言う。建前だけがひとりで離れると、にせの心が生まれる。いつわりの心は偽りの言葉を呼ぶ。

 言われて私はようやく「門」を設置し門番を配置した。門番は狼と狩人だ。狼はウルルンと吠え、狩人は狼から目を離さずにいる。 

 しばらくして私は、門番たちが言葉をまるでジャッジしないことに気づいた。言葉が来たことを狼が報せる。狩人は狼を見ている。それだけだ。何のための門番なのか。

 そうだ、言葉は元来、良くも悪くもないものなのだ。私の部屋に入ると、化学反応のように性質が変わるだけのこと。結びついたり、離れたり、配列を転写したり、転写に失敗したり。そうして私の心のキシキシという軋みに似た酸性とぬらぬらと滴り落ちる塩基性に反応しているだけなのだ。

 反応で生まれた忌々しい毒林檎はきちんと棚に入れて鍵をかけておけばいい。そうしたら言葉たちは大人しい馬のようにぶるるといななくだけで悪性には転じない。

 そういえば私はこれまで、林檎をどうしていただろうか。林檎を棚に入れながら思う。林檎など見たことがあっただろうか。何も思い出せなかった。「本心」を思い出してからは、以前のことは曖昧にぼやけていた。

 また続々と言葉がやってくるようになり、私は部屋に着床する言葉を待つことにした。

 うまく着床すれば言葉は爆発的に分裂し成長し成熟していく。言葉は数を生み、数は運動を生み、運動は美を生む。部屋の中央には、輝く池に浮かぶ花がある。言葉が花弁となり、花はほころび、開き、おしつぼむ。
 宇宙の営みに繋がった言葉は、揺らがない。
 そうした言葉は、指先からでも、発声器官を震わせてでも、瞳からでも、どこからも出ていくことができる。

 誰も傷つけぬ、誰も傷つかぬ言葉などない。
 でも真実を孕む言葉なら、私の育てた言葉も、きっと遠くで誰かが受け止めるだろう。時空を超えて。

 成長した言葉たちが整然と列をなして外に向かい始めた。おしなべて笑顔で清廉だ。それを見て「本音」は欠伸をし、猫のように伸びをすると絨毯に身を預けて眠ってしまった。「本音」は着床しないのだろうか。そんなことを思っていたら「本心」が妙に勝ち誇ったような顔つきで私を見た。

 ああその顔を見たくなかったんだ、と今さら、思い出した。
 なんだ結局、私はいつもこうして彼らに躾けられ飼い慣らされ丸め込まれるのだな。正しいものはいつもこのように苦々しい。

 門の外から狼の遠吠えが聴こえる。
 また新しい言葉たちがやってくるのだ。

 すこし、ぼんやりした。
 誰かが「おい、言葉が来たぞ。嫌な匂いのする言葉だ」と囁く。「本音」はまだ寝ている。本心の姿は見えなかった。私はそっと、林檎の棚を開けた。

 毒林檎は、固く引き締まり芳香を放っている。

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