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フェミニズム展の論評合戦に見た研究とアートの関係

(本記事は,2022年4月2日に Facebook に投稿した内容の再掲です)

研究とアート

研究とアートはやっぱり似ている.研究成果の発表は,口頭であれ論文であれ,表現活動の一つに他ならないし,研究もアートも,「表現」されることがらは,多かれ少なかれ世界の「真理」らしきものにどうにかして触れようともがいた軌跡であり痕跡だ.

ただとある議論,というか言論の応酬を見て,一つ,決定的に異なる部分があることに気が付いた.正確に言えば,その点で両者が性質を異にするということは「知っていた」のだが,「分かっていなかった」ということかもしれない.

アートと文脈

アートは常に時代,社会との関係値で評価される.普遍・不変の価値を持つアートはそうそう存在しえない.学術的に,ヒトが感じる「美」のパラメータを総ざらいし,それらを最大化することで「究極の美」を表現したところで,恐らくそれはほとんど評価されないか,一部の知性派に「そういうグロテスクな試み」としてメタに評価されるくらいだろう.アートが与えるインパクトや感動は,常に価値観や感覚の更新を与えるものであり,固定観念を破壊するものだ.芸術は爆発なのだ.

研究も同じではないか? それまで誰も知らなかった事実を詳らかにし,それまで動かないと信じられていたものが本当は動いていることを証明し,矛盾を孕んだ理屈を別の明快な理屈で塗り替えるのが科学の進歩ではないか? それはそうかもしれないが,研究活動が目指すのは受け手に与えるインパクトや感動の最大化ではなく,あくまでも「世界をよりよく分かりたい」という人類の飽くなき欲求の充足だ.その軸は常に揺るがない.いつ,どこで,どのような社会にあっても,同じだ.

だから,アートは常に現実社会の文脈に埋め込まれたものとして鑑賞され,解釈され,評価される一方で,研究活動はまだ見ぬ未来や異なる世界線を走ることが許容される.未来や別世界を描いた芸術作品は五万とある,という反論があるかもしれないが,それは表現の「内容」として提示しているだけであって,評価の文脈を転送しているわけではないという点で研究活動とは大きく異なる.100年後の未来では,もし人類が存在していなかったら,もし男性と女性が逆転していたら,このアート作品はどう評価されるか? という論評は荒唐無稽ではないか.

研究活動では,現実の世界で今実際に「そうなっている」ことがらは,あくまでもパラメータのありうる設定の一つとして相対化され,その相対的な関係の中で結論が提示される.大胆に単純化すれば,あらゆる研究発表は,うまくコントロールされた空想のお披露目なのだ

上野 vs 成田

私はこの応酬 (https://artnewsjapan.com/news_criticism/article/39) に,そういう対立を見た.

フェミニズムも人種差別も,差異を昇華して「人類みな同じ」という視点で語ることは問題の「超克」には決してならず,差異を差異として真正面から見つめ,その当事者として「他者」との終わらない対話を繰り返すことでしか「解決」されないと私は信じているから,上野氏の成田批判には賛同できる.一方で,成田氏の議論は確かにフェミニズム批評としてはクリシェ的で辟易するものなのかもしれないが,彼の他の言動を見ていると,単に「差異を昇華せよ」というありきたりな,そして多分にマジョリティ側にいるからこそ言える強者の論理的な発想ではなくて,本当に差異が消失した可能世界を念頭において,その世界線で,あるいは未来の地球で,フェミニズムがどのような意味を,価値を持ちうるか,という視点に立っているようにも見える.

そうして,上の対立にたどり着く.

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