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たった3日の乳がん入院記③

Day3

眠っているのか、それとも朦朧としているだけなのか……。その区別がつなかいまま、夜じゅう過ごしていた。それでもなぜか6時前にバシッと目が覚めた。

頭はシャキッとしているものの、顔はベトベトしているし、両手はひどくむくんでいる。指なんて特大サイズのウインナーみたいだ。手術をした胸は、コルセットのようなもので圧迫されている。よかった。傷(というか手術した左胸)が丸見えだったら、怖くて仕方なかったところだ。

トイレに行くために起き上がろうとして、一瞬戸惑う。左手をベッドに突けば、手術をした左胸と左脇が痛む。点滴用のルートが刺さった右手を突けば、針の部分に痛みが走る。どうしよう……としばらく悩んだあと、右手を選んで起き上がった。

……痛い。右手に刺さった針が痛いのはもちろん、手術したての部分も痛い。傷口は左胸(がんの摘出部分)と左脇の下(センチネルリンパ節生検の部分)なのだが、痛いのはそこじゃない。左の胸元と左脇の背中に近い部分だ。表面の傷口ではなく、中の「何か」が痛い。

痛みが響かないようにおそるおそる体を動かしてトイレで用を済ませ、ベッドに戻ってミネラルウォーターをガブ飲みした。眠くない。水も飲める。歩ける。そんな当たり前の状況にほっとして、財布を持ってデイルームに向かった。

デイルームの奥にあるカップ自販機で、ブラックコーヒーを買って戻る。ベッドに腰掛けて一口啜った。あまり美味しくないが、「コーヒーを飲めている」という状況がうれしかった。

時間をかけてコーヒーを飲み干し、またトイレに行く。手を洗ったあとに両手を見たら、むくみはすでに引いていた。……うん、これなら退院できそうだ。

スマホで友人や仕事関係の人に手術が終わった報告をしながら、朝食を待つ。8時を過ぎて、待ちに待った朝食が来た。

38時間ぶりの食事をガツガツと味わったあとに、H先生がやってきた。傷を見せるために前をはだけたものの、私自身は傷(というか左胸そのもの)を見たくなくて視線を背ける。

「傷口はきれいですよ」

H先生は傷口の保護テープを張り直すと、胸を覆っていたコルセットを外してにっこりと笑った。

「本日分の抗生剤の点滴が終われば、退院しても大丈夫ですから」
「はい!」

入学したての小学1年生のような返事をして、H先生に「ありがとうございました」と頭を下げた。入れ替わりに看護師さんがやってきて、清拭用のタオルを貸してくれた。

「体を拭いたら、パジャマに着替えてくださいね」

……ああ、そうか。私はまだ手術衣のままだったんだ。じゃあ着替えるか、と思ったものの、着替えるってことはあれだ! 左胸を見るハメになるってことじゃない? 怖くない? 怖いよね???

だってさー、いろいろと取り除いた胸だよ? ボリュームが少なくなっている胸だよ? そんなのを見なきゃないなんてさー――そんなヘタレ気分をなだめるために、ありったけの勇気の言葉を脳内に響かせた。

「ちょっとボリュームが少なくなったぐらい、いいじゃないの!」
「そのおかげで、命が救われたんだよ?」
「もともと左胸のほうがちょっと大きかったじゃないか。右胸とバランスが取れてる可能性もあるよ?」

……うーん。どれもこれも、いまいち説得力に欠ける。それに、そんな言葉に説得されるほど、私のヘタレ度は甘くないのだ。

清拭用のタオルが冷めていくのを横目で見ながら、ベッド横の物入れにしまっておいた下着入れを取り出した。そこからシャツやショーツと一緒に、医療用のブラジャーを抜き取る。フロント部分のスナップで開け閉めできる、やわらかいカップの付いたものだ。

とにかく、体をきれいにしよう。話はそれからだ。それでうっかり左胸を見てしまっても、恨みっこなしだ!(誰に?)

ちょっとだけ目を細めながら手術衣を脱ぎ、清拭用のタオルで顔から首、体、脚を拭いていく。手術した部分はそっと撫でるくらいにする。そしてショーツを穿き替え、ベッドの上に置いておいたブラジャーに手を出したときだった。左胸が、うっかり目に入ってしまったのだ。

「……あれ? 思ったほどじゃないな……」

それが正直な感想だった。手術の影響か、ぶん殴られたあとのような色になっている(どうやら内出血らしい)けど、胸の形は普通だ。確かに手術前よりはボリュームに欠けるものの、きちんとしたバストラインを保っている。

正直なところ、左胸はシオシオでベコベコの状態になってしまうと思っていたのだ。だって、どんなに小さめのしこりとはいえ、マージンを含めたら5センチ角ぐらいのものを取り出したんだよ? それなのに、きちんと「胸!」って形がキープされている。

う、うれしい……。素直にそう思った。やっぱりH先生は名医なのだ。すごい。頭の中でH先生に向かって合掌しながら、医療用ブラジャーで胸を包んだ。上下のパジャマをすばやく着込むと、看護師さんを呼んで抗生剤の点滴を準備してもらった。

点滴終了後に昼ごはんを済ませ、迎えに来た夫とともに帰宅することになった。たった3日間の入院生活が終了。あっという間だった。

思えば、これだけ早く退院できるのも、手術が簡単なもので済んだのも、バストラインをそこそこ保てたのも、すべてが早期発見のおかげなのだ。

「早期発見に勝る治療法はありません」

ふと、初診のときにH先生が言ってくれた言葉を思い出す。さすがイケメンは言うことが違うぜ、と思いながら、夫の運転する車の助手席で左胸をそっと撫でた。 

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