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【連載】「こころの処方箋」を読む~9 灯台に近づきすぎると難破する

このエッセイでは、「理想」につぶされた男の話が出てくる。現代にもまた、このような男は少なくないだろう。そんな中で河合は、「理想」という名の「灯台」はあくまで一時的な目標であり、そこに近づいて来たら、今度は他の灯台に向けて航路を変更しなければならないと言っている。


この「灯台」を思ったときに、高校生への進路指導が重なる。

本来このような「灯台」は必ずしも必要ではない。目標は必要ではない。目標などなくとも、今を生き、毎日を生き生きと過ごすことは可能である。

しかし、ある程度目の前の目標があったほうが生きやすいということもある。何か目標があったほうが、その目標を手掛かりにして計画を立てることだってできる。


特に学校というのは、たいていがとても長期間在籍するものである。高校であれば、3年間も在籍する。

もちろん、とにかく日々を自由に、その日その時を楽しく過ごすことができれば、それでもいい。

しかし、大学に合格するとか、インターハイに出場するとか、甲子園に出場するとか、そういったものがあった方が、日々を過ごしやすいということもある。本人はともかく、教師側では指導や支援をしやすいということはあるだろう。

だから、学校というところでは、目標というものを設定しがちである。だからといって、目標を設定しないことがわるいことではないのだが、学校という場所は目標を求めてくる。目標があることを賛美する。

それは一面的な見方であるし、当人の幸福観や適性、環境によっても目標を設定することの良しあしは変わってくる。目標などない方が生きやすい人だって多いだろう。


ともかくも、学校という場所は目標を設定しがちなのだが、その代表的なものの一つが進路である。

高校の学校目標として、進路実現を掲げているところは多い。進路を実現するということが高校の目的である必要はないのだが、なかなかに重視されがちである。

特に有名大学への進学というのは、長い期間をかけた各種の教育ビジネスの戦略によって、現代では価値を持つものとされている。そして、それに高校側も乗っかるのである。

有名大学へ進学することは価値がある。だから、高校生活の目標を有名大学への進学に置くのは価値がある。そんな論理である。

そんなものは、有名大学へ進学することの価値が覆されれば簡単に破綻するのだが、まだしばらくはその神話は力を持つだろう。


そんな神話もあり、有名大学に合格すること、もしくは大学進学、進学、就職、卒業、といった何らかの目標は機能し、そこに向けた学校生活が賛美される。

だが、その目標が達成された後はどうなるのか。

進路の実現は、ある特定の段階にすぎない。人生はその先も続く。

「将来お医者さんになりたい」と願った者が医者になった。それは確かに当人にとって価値のあることであり、目標の達成によって満たされるものはあるだろう。

しかし、そこからまた人生は続いていくことには留意しなければならない。

目指していた「灯台」が近づいたら、その先にある別の「灯台」もうっすら見据えなければならない。そうしないと、「灯台」に近づきすぎて、船が座礁してしまうかもしれない。


そんなことを考えると、もちろん目標を目指して生きることはよい。だが、そればかりではないこともまた、見直されて良いのではないか。

少し前の時代には、結婚する、子どもを持つ、マイカーを持つ、マイホームを持つ、有名な学校に子どもを入れる、といった「目標」が幅を利かせていた時代もあった。

その反省もあって、現代ではそれらの神話が解体されつつある。

もちろん、それはそれらの神話が神話だとわかってしまうくらいに、生きることに余裕がないということもある。

そんな時代にあっては、「灯台」を一直線に目指す方法以外にも、あてどない船旅を楽しむ工夫をしたり、複数の「灯台」の間を周遊したりと、いろんな生き方を模索し、肯定していくこともまた良いだろう。





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