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つれづれ:世の中にたえて桜のなかりせば

世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし                                       

在原業平朝臣

知らない人がいないんじゃない?くらい有名な、平安時代の「春のうた」だ。

この和歌を知っている人は、満開の桜のみるとこの字面が頭の中にうかんでしまうのでないだろうか?

また、反対に、桜が咲いていない季節でも、満開の桜を思い浮かべてしまいそうなめでたさだ。

先日、現代アート展を見ていて、時空を超えるこの三十一文字のことを思い出し「言葉に比べるとアートって、なんて伝わりにくいんだ」と、考えてしまった。

ゆえに、アーティストトークを聞きに行ったわけなのだが、主題となっていた政治やエコロジーやジェンダーなどについての考えはその人の置かれている環境によって異なるので想像することはできるが、言葉だけでは腑に落ちることは無かった。

アーティストが考えていることは言葉だけでは伝わってこないので「作品」はそれを補完するものでもあるかもしれない。

「伝えたいこと」は、この和歌の中では「桜をみた時の心の動き」の部分だろうか?ほかのことも桜のせいとして語っているのであろうか?

どちらにせよ桜を見ていると心がざわざわするんだ…っていう、この心の動きをあらわした和歌は「桜」という共通言語が中心になっている。

日々、周りにいる人たちのとのかかわりの中でちょっとした価値観のズレや相手の態度への不快感などを許容し、衝突を交わしながら少しずつ傷ついたり、不安になりなら生きているのだが、「桜」はそれを埋めてくれる大きな環境資材だと実感する。

しかし、そのような共通言語のない世界でも私たちは生きているのだ。

わからなくとも耳を傾ける必要のある事もあるのではないだろうか?

先日「可能世界の哲学」という本を読んだ。
冒頭で、論理的思考を突き詰め、思考を記号化して整理し、完膚なきまでに腑に落としていくことの快感について書かれていたのだが、たしかに「わかる」ことは快感だ。
その脳の働きについてロジカル・ハイと書かれていた。
それゆえ、実際にわかっていないことも「わかったつもり」になってしまう危険が常にわれわれの周囲にはおっこちている。

もやもやすることばかりである。

ああ、すっきりと「桜」はきれいだ。














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