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それでもやっぱり比べてしまう

SNSは幸福度を上げてくれなかった。可視化された「他人の生活」は日常を豊かにするどころか、無意味な対抗意識や自分との無意味な比較を生んでしまうことになった。SNSを純粋に楽しんでいる人もいるのだろうけど、そうは見えない人が大半で、かくいう僕も楽しめているとは言えない。

「SNS疲れ」なんて言葉も生まれて、”他人との無意味な比較をやめよう。自分の生活に集中しよう”というのが最近の風潮だ。マウンティング合戦、キラキラした生活への嫉妬心、空虚な優越感。これら全てを捨て去って、自分の価値観で、自分の人生を生きようという流れ。

これはもっともらしく聞こえるのだけれど、僕は問いたい。本当に他人との比較をやめることなんてできるのか?と。

石田純一は言った。「不倫は文化だ」(注:本当は言っていないらしい)。この文脈を「比較」に使うならどうなるだろう。

比較は文化?

比較は本能?

比較は無意識?

おそらく、これら全てだ。比較は、本能的に仕込まれた無意識な脳の働きで、その営みは文化レベルで根付いていると言ってもいいだろう。

比較からは逃れられない。と僕は思う。


同じ属性を持つものが2つ以上、同時に存在すると、そこには相対的な関係が生まれる。例えば男という属性を持つ人間が2人いれば、「男らしい方と女々しい方」「背の高い方と低い方」など、いろんな相対的な関係が生じる。否が応でも○○な方と○○ではない方という比較が生まれてしまうのだ。

そのうえ人間は社会的な生き物だから、他人との関わりを断ち切って一人で生きていくことは簡単ではない。つまり、僕たちはどう頑張っても何かと何かを比べずにはいられない環境にあるということだ。


他人と自分を比較するのをやめれば、人の価値観に左右されることはなくなるし、結果として自分の人生に集中できる。これは圧倒的な正論だ。その通りだと僕も思う。けれど、「比較するのをやめれば」という過程は、比較をやめられない僕たちにとって何のアドバイスにもなりはしないのだ。

もっというと、「比較するのをやめる」というアドバイスは既に世界にあふれている。にもかかわらず僕たちは性懲りもなく比べ続けている。ということはつまり「比較をやめよう」とどれだけ声高に言ったところで改善は見込めないということ。比較によって失われた自分の人生を取り戻すためには他のアプローチが必要なのかもしれない。


たとえば、比べる相手を変えてしまうこと。比較をやめられなくとも、比較対象を変えることはできる。比べる対象を他人ではなく、過去の自分や未来の自分(理想像)にしてしまえば、少なくとも他人の価値観に人生を左右されることはない。

他には、比較の重みづけをすること。比較すること自体はやめられないので、どの比較が自分にとって大切な比較なのかを逐一自問するのだ。僕は全く泳げないので、泳げる人を見るとうらやましく思うことがあるけれど、そもそも海やプールの足のつかないほど深い場所で遊ばないのを思えば、泳げるかどうかは自分にとって全く重要でないことに気付ける。当然、不必要に劣等感をおぼえることもなくなるのだ。


なんにせよ、「比較」は人生の幸福感とかなり密接にかかわっている。えらそうに「こうすればいいのでは」なんて書いた僕だが、僕自身がめちゃくちゃ苦労しているし、「比較」とはまだうまく付き合えるようになっていない。

なんとかならんもんですかね。まったく。

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