「チェーホフの銃」における「普通」とは何か(性的指向・性自認と物語について-2)

前回のあらすじと今回のあらすじ

上掲の投稿(以下「前回投稿」といいます。)の続きのお話です。
前回投稿では、その冒頭で述べた構成のうち、(1)「チェーホフの銃」の妥当性と趣旨について、のみを述べました。
改めて結論を確認すると(はっきり言っていなかった気もするので)、「チェーホフの銃」とは、創作技術(作法)として十分に妥当性を有するものであり、その射程に入るかは、対象が「普通でないかどうか」です。

その上で、本投稿はその続きの話をします。すなわち、(2)性的指向や性自認の話は「チェーホフの銃」に即せば描く必要がなくなるのか(当てはめの可否、是非、結果)と、(3)描く必要がなくなるとすれば、本当にそれで良いのか(「チェーホフの銃」という創作技術にこだわって創作することの是非、そこから離れて表現する可能性)です。
その中で、前回投稿の最後でも散々言った「普通」についても、もう少し掘り下げたいと思います。

(2)-1 「チェーホフの銃」の当てはめの可否

では早速、本論に入るところで恐縮ですが、標記の「当てはめの可否」(当てはめることができるかどうか)は、検討すべきものではないと思うに至りました。
当初、私はこの「可否」を検討すべき例として、前回投稿でも述べた「人が出てくる」とか、作品の当然の前提となる部分を想定していました。
ですが、考えるうちに、これも含めて、作品の中に出てくる(描かれる)事物は全て、「普通」かどうかの検討は可能で、その次の「是非」(当てはめることが適当かどうか)、「普通かどうか」を検討すべきと思うようになりました。
そのため、この段落はこれでおしまいです。すみません。

(2)-2 「チェーホフの銃」の当てはめの是非

ということで引き続き、「是非」、「普通かどうか」の検討です。
さて、前回投稿にて「チェーホフの銃」の意味をこう言い表しました。

「敢えて物語に描かれた物事、展開、属性は、作品の中で活かさなければならない。」

ここで「敢えて物語に描かれる」と述べましたが、その行為を細かく分解すると、次のような段階を踏むと考えています。

1.作者が「それ」を出すと決める。
2.「それ」の普通を措定する。
3.普通の「それ」を、又は必要に応じて普通でない「それ」を、描く。

具体的には、次のとおりです。

1.学校を舞台にする。
2.教室がある。時間割でタイムスケジュールが決まっている。先生と生徒がいる。etc.
3.先生が存在しない学校を舞台にする。
1.主人公を女子高生にする。
2.制服を着る。クラスメイトがいる。スマホを持っている。etc.
3.スマホを持たない女子高生を主人公にする。
1.主人公の友人の父親が死んだという話を、主人公がその友人から聞く。
2.悲嘆に暮れる友人を慰める。主人公はその友人ほど悲しまない。友人の前で父親に関する話をしない。etc.
3.主人公の友人の父親が死んだという話を聞いた主人公が、めちゃくちゃ自分の父親とのエピソードを友人の前で語る。

※3の段階は、いずれも「普通でない『それ』」を導出する過程を示す意味で、「普通でない『それ』」たらしめる属性1つのみを書きましたが、実際にはほかにもそうたらしめる属性があるかもしれませんし、普通な属性も持つことになろうかと思います。

この3段階の中で、「敢えて物語に描かれる」ものとは、3で出した「普通でない『それ』」です。
※なお、1で決めた『それ』も、厳密に言えば「チェーホフの銃」の是非の段階を既に踏んでいるのだとは思いますが、若干話が入り込みすぎるので細かな検証は避けたいと思います。念のためざっくりお話しすると、1.抽象的な描きたい何かがあり、2.これを表す道具として舞台設定とか登場人物の属性とか展開とかを考え、3.普通のものも、そこから敢えて普通でないものも取りうる、ということがあろうかと考えています。

(2)-3 「普通」とは何か/「普通」の作り方

では、「普通でない『それ』」について検討する必要がありますが、その前提のものとして3段階のうちの2で措定した「普通の『それ』」、「普通」について考えなければなりません。

前回投稿で私は辞書の定義を引いて、「普通」を、「ありふれている」とか「当たり前」と思うこと、かつほかの者とその思いが共通していると思うこと、と捉えました。
この「ほかの者とその思いが共通している」というのは、辞書にない内容ですが、私としてはこの部分が最も重要だと考えています

前回投稿でも述べたとおり、対象について万人が全く共通の感覚を抱いているはずはありません。そんな中でも、各人が自分の知識や経験、感覚に基づいて抱いている「自分の中の当たり前」と、他人の「自分の中の当たり前」をすり合わせ共通する部分を抽出したものが「普通」になる、と考えています。

また、そのすり合わせをする相手が多くなるほど、すなわち「普通」を形成する集団の母数が多くなるほど、その集団を構成する人たちの振れ幅に応じて、自ずと「普通」はどんどん削られて、小さくなっていく(範囲が狭まっていく)ことになります

この点、物語が、人に何かを語る、伝えるという役割を持つと考えると、物語とは、より多くの人を相手にすることが求められることになります。
その場合、物語における「普通」もまた、その相手となる多くの人たちの「普通」とのすり合わせにより、自ずと小さくなっていくというべきです。

(2)-4 「普通でない」が消極的評価となってはいけない

ここで一点確認しておきたいのは、「普通」にはいわば多数派の傾向という意味合いしかないということです。

(2)-3で述べた、「普通」を形成する「他者とのすり合わせ」は、他者から「私もそう思う」という一種の承認、正当だという積極的な評価の側面を持ち得ます。
すり合わせが進むほど、多くの相手から正当だという評価を受けたように感じ、それによって形成される「普通」が正当性を強く帯びるようになります。

そこに、「普通でない」ものが現れたとき、それは「普通」に相対するもの、「正当ではないもの」という消極的な評価が生まれ得ます
このとき、「普通」が持つ正当性が強いほど、「普通でない」ことへの消極的な評価も強まるでしょう。

ややもすると、「普通」について「皆が正当だと認めている」ものだから「良いものだ」とか「優れたものだ」とか「素晴らしいものだ」という評価が生じ得て、その正反対の評価を「普通でない」ものに与えることさえあるかもしれません。

これが、私が前回投稿でも触れた「普通」といった言葉が持ち得るプレッシャー、排他性の正体だと思います。

しかし、冒頭で述べたとおり、「普通」が(2)ー3で述べた形である限り、評価的な見方が入る余地はありません
3段階の2番目「『それ』の普通を措定する」という作業を有り体に言い換えると、「それ」を思い浮かべるときに真っ先に出てくる存在を、「それ」の代表例として置く、ということで、「普通」とは、とりあえずの「モデル」のようなものともいえます。

そもそも、自分が当たり前だと思うこと、すり合わせた相手がたまたま同様に当たり前だと思うからといって、必ず正しい訳でも、ましてや良い訳でもありません。
語弊を恐れずに言えば、たまたま数が多かったから共有されやすかっただけで、当然、そこに正不正だとか、善悪や優劣、貴賎、尊卑などといった評価を出来るはずもありません。数の多少が必ず対象の価値となる訳はありません。
(多くの人によって吟味され、検証され、取捨選択の結果のものだから「正当」なのだ、という理屈もあるのかもしれませんが、世の全てがそのような検証を経たものでもないでしょう。)

(2)-5 「普通でない」けど現実に「普通」

以上を踏まえ、「普通でない『それ』」を考えようと思います。

これに当たり、(2)-3で提示した3段階の具体例は、その考え方を分かりやすく示すために若干突飛な例にしてしまいましたが、もう少し普遍的な例(形容矛盾の感がありますが)が色々あろうかと思います。

・「とある日」に、雨が降っていること。
・「人間」が、眼鏡をかけていること。
・「コンビニ店員」が、外国人であること。
・「冷蔵庫」が、両開きであること。
・「親」が、1人しかいないこと。
・「眠る時」に、枕を使わないこと。
・「産まれた場所」が、病院でないこと。

このどれも、鉤括弧の中(3段階でいう「それ」)を想像する時に、真っ先に、述部で言ったような在りようを想定する訳ではないと思います。
(いわゆる「外科医の夫が病院に担ぎ込まれた」系のウミガメのスープ問題を思い出しました。)
この点で、いずれも「普通でない『それ』」です。
そうであるならば、これらが物語に出てくる時には物語上の格別の理由がやはり求められるはずです。

しかし、これらの例に現実で向き合ったときにどうなるかというと、「そういうこともある」とか「そういう人もいる」とか反応するのではないでしょうか
その基礎には、世の中には「普通の『それ』」しかない訳がない(「普通の『それ』」とは、単なるすり合わせで共通部分として抽出した部分、モデルでしかないから!)という理解があるのだと思います。

難しいのは、それら「そういうこともある(人もいる)」という例も含めて、一般には「普通」と言われることです。
この「そういうこともある(人もいる)」の「普通」は、いわば「現実の普通」(広義の「普通」)であり、これまで述べてきた「普通」は狭義のそれと言うべきでしょう。
そして、(狭義の)「普通」について「『それ』を思い浮かべたときに真っ先に思いつくもの」と言いましたが、広義の「普通」は、その2番目以降に思いつくものであり、さらに思いつきもしなかったものが現れたとき、広義の「普通」からも外れる、広義でも「普通でない」ものとなると整理できるでしょうか。
よって、「チェーホフの銃」で扱うべき「普通」と「現実の普通」は、異なるものといえます。

例えば、上記の「雨」の例でいえば、(地域にもよるでしょうが)1ヶ月の間に雨が降らないことはありません。また、登場人物の気分と関係しようがしまいが雨は降ります。自然現象に目的を求めるのは全くナンセンスです。
しかし、物語において、必ずしもそうではありません。物語に関わらないのであれば、天気は基本「晴れ」です。
梅雨の時期になり時が移ろったことを示すとか、主人公が普段は乗らない電車に乗らざるを得ないシチュエーションを作るとか、晴れ女を出すとか、そういった理由がなければたいてい雨は降っていません(物語において「雨」が意味するところ、その象徴性が強すぎるというのはあるかもしれませんが。)。

ほかにも、人物の属性でいうと、厚生労働省の調査(PDF)によれば、全国の児童のいる世帯のうち、ひとり親と未婚の子のみの家庭が占める割合は、約8%(後述しますが、はからずも性的マイノリティの人口規模と同じ数字)です。単純計算で12人に1人がひとり親、1クラスに3人はいることになるでしょうか。
現実にこれだけひとり親の子供はいます。そして、ひとり親である目的を子供に求めるのは、これまたナンセンスです。
しかし、物語においてはやはりそうではありません。物語の中で家庭の話をすることはあるでしょうが、物語と全く関係なくひとり親である事実だけが提示されて終わる作品は、私は寡聞にして知りません。

(2)-6 なぜ「普通」に広狭があるのか

前回投稿にて引用したツイートで、性的マイノリティは世の中に目的もなく存在しているおり、存在しないように描かれることが異常である、という趣旨の話がありましたが、前段は全く述べられているとおりだと思います。

この世界は元より目的もなく存在し、そこに広がる自然も、また、性的マイノリティの方も含め、あらゆる人間も、現実の世の中に自然に存在しており、存在することに目的を求めることは全くナンセンスです。

ですが、物語において存在することに目的を求めることとは別物だと思います。物語は元より、作者の意図と目的のもとに生まれるもので、作者がその手で、この世界の一部を真似て切り出すものであり、その手が、物語の中に広がる自然を、そこに生きる人間を、敢えて物語に載せているのです。

この点が、「現実の普通」と「普通」の間に、普通の広狭が存在する理由だろうと思います。

(2)-7 性的マイノリティの性的志向・性自認と「チェーホフの銃」

では、性的指向・性自認に係る話を実際に当てはめたいと思いますが、しかし、性的マイノリティ(その性的指向・性自認が、「心身の性が一致し、かつ異性のみを恋愛の対象とする」ものではない者のことを指します。)が出てくることが、「チェーホフの銃」の適用を受けるべきものか、(2)-2で示した3段階に準じて言えば「普通でない『それ』」かどうかは、まずどのような「それ」を想定するかに左右され、あらゆる「それ」において等しく断じることはできません。

かつ、私が見てきたフィクション作品に性的マイノリティが出てきたことはありますが、その属性に対して違和感を覚えたこと、「何でわざわざその設定出してきたんだろう」と思ったことがないため、実例を出しにくいところでもあります。
なお、それらの作品について、「普通でない『それ』」と認識した上で、物語上の格別の理由をもって登場したと受け止めていたということなのか、それとも「普通の『それ』」と認識したので理由を必要とも感じなかったのか、思い出す限りでは概ね前者だったと考えていますが、必ずしも定かではありません。

また、私が人に見せる目的で書いた小説や脚本に性的マイノリティを出したことはありますが、どれもその性的指向・性自認に物語上の格別の理由を持たせたものでした(一つは、同性愛が「正常」とされる世界で異性愛者を好きになった同性愛者の話、また一つは、異性愛者相手の恋が叶わないものと分かっているけど諦められずにいる同性愛者の話でした。)。

そこで、前回投稿で引用したツイートなどのまとめ(物語に目的なくLGBTが出てくるのは「チェーホフの銃」の観点からは問題なのではないか?という議論)を見てみて思ったところとして、「チェーホフの銃」の適用を受けるかどうかの一つの整理として「性的指向・性自認に係る描写において、性的マイノリティでなくても成り立つ場合に性的マイノリティを選んだ場合」というのはあろうかと思います。
具体的には、次のような例が考えられます。

・「クラスメイトたちがいる学校の教室」の「クラスメイト」
(男子校のクラスにスカートを穿いた生徒がいる、というような例)
・「満室の女子トイレから先客が出てきた」ときの「先客」
・「道端でイチャイチャしているカップル」の「カップル」
・「父親が浮気相手と夜逃げした」ときの「浮気相手」

そして、私としては、性的マイノリティに係るこうした描写が、現在の我が国の社会に生きる人たちを相手にする物語に登場する限り、やはり「チェーホフの銃」が適用されることになろうかと思います。

「性的マイノリティ」という表現自体、私としては「LGBT」といった具体的な性的志向・性自認に当てはまらない者を捨象すべきでないという気持ちがあって使った言葉ですが、「この世の中で少数派である」と主張するようで抵抗がない訳ではありません。
とは言え、参議院の法務委員会調査室が取りまとめた資料(PDF)によれば、我が国における性的マイノリティの人口規模は約8%(前段のひとり親家庭の割合と同じ数字)とされており、規模として比較少数であることは否定し得ません。

すると、以下、(2)-3と同趣旨の話をしますが、少なくとも、物語において我が事として描かれること(主人公自身の属性など)においては読者の比較多数の者の性的志向・性自認(それぞれが「当たり前」だと思っている)が「普通」となっていくと考えられます。

また、「普通」は、他者とのすり合わせで形成されると述べましたが、思うに、そうしてすり合わせた「普通」は応用され、一度もすり合わせたことがない人が出てきても、ひとまずはそれが「普通」であるという前提を置くのではないでしょうか。
性的指向・性自認においても、比較多数の者が「普通」だと思うことが、他人に対しても当然に適用されると認識されるようになるという前提が置かれ、よって、物語において描かれる、我が事を超えた範囲にも、まずはその「普通」を適用するようになろうかと思います。

そうして、物語における性的指向・性自認の「普通」は、比較多数の者が持つ「心身の性が一致し、かつ異性のみを恋愛の対象とする」という内容に収斂していくことになると考えます。

こうしたことを考えるに、やはり上記の例では、その物語においてそうした物語上の格別の理由が、やはり求められると思います。
そして、これは「当てはめの結果」の話ですが、その理由がないのであればやはり物語に入れ込むのは、創作技術の観点から適切ではないと思います(その「物語上の格別の理由」というのも、実際、かなり幅があると思いますが)。

そして、この当てはめの結果が、性的マイノリティの性的指向・性自認にのみ特異なものではないことは、前段の(2)-5で述べたとおりです。
かつ、現実に性的マイノリティが上記の例にあるような状況にある場合、それが「現実の普通」に当たるだろうと思うことも、(2)-5で述べたとおりです。

(3)-1 物語上の理由がなくても描写をすべきかーー「普通」を変えるために

では、これまで縷縷述べてきた「チェーホフの銃」という議論から離れて、そうした物語上の格別の理由がない描写だからといって本当に描かないままで良いのか、という点です。

私は「普通」を形成する上で「当たり前」をすり合わせる相手を「ほかの者」と表現してきましたが、自然人でなくとも、物語がその相手となっても良く、むしろ、その役割をかなり大きく担っていると思います。
卵が先か鶏が先か、という話になりますが、上述のとおり、物語は、それに触れる人たちの「普通」を前提に成り立っているがゆえに、物語における「普通」が、世の中における「普通」に逆輸入されてきて、結果として「普通」を強化していく役割を果たします。

これが、世の中における「普通」を是正しようという立場から懸念があることは想像に難くありません。

そうした「普通」を変えていく試みについて否定する気はありません。
「普通」が、(2)-3で述べたように量的な関係によって作られるとしても、質的な関係において修正され得ると思っています。

質的な関係における修正とは、「普通でない」とされる少数派の者について、不当に消極的な評価を受けてきたことに対する手当として、積極的に保護してその社会的な立場や権利を回復・確認する目的で、世の中には多勢のそれとは異なる属性を持つ者が当たり前におり、多勢が思う常識とは異なった状況が当たり前にあるということを強く伝えていき、特に多勢の認識を変えていくことを指します。
そして、その修正を具体的に実行する媒体として、教育(人権教育)や政府の人権啓発活動であるとか、報道であるとか、そして何より一切の表現活動があろうかと思います。

そして、その表現活動の一環として、修正しようとする立場において、敢えて「普通でない」ことを、「普通であるように」(物語上の格別の理由なしに)描写するという発想に至るのも、考えうるところかと思います。
(念のため付言すると、意識的に、その物語の世界における「普通」を、世の中の「普通」からずらすことで、世の中の「普通」の在り方を問う手法とは別物です。というか、それはよくあるやり方のような気もしますし、私が書いたものとして紹介したストーリーもそれでした。)

しかし、個人的には、そういった物語の外の事情で、物語の中の理屈を変えてしまうことは、自分でやりたいとも、また見たいとも思いません。
いわば、打ち切りが決まったので手強かったキャラが急に倒されるとか、物語に合う役者が揃わないので役の年齢を変更するとかに類するもので、「ああ、これは裏方の都合や思惑によるものなんだな」と思わせるものです(それらも、後付けでも物語上の理由が出来れば話は別ですが。)。

あるいは、それが広告物や教科書ならば理屈も立ちましょう。それから、主義主張を伝えていきたいなら、評論でもエッセイでも、色んなやり方がありましょう。
しかし、物語が、虚構の世界を展開することで、現実からは見えなかったり感じ取れなかったりするものを浮かび上がらせる表現方法だとすれば、その表現方法を選ぶに当たり「質的な修正」もその方法に即した形となるべきです。

(3)-2 「普通」の変え方

なお、私は(2)-6で、性的マイノリティに係る性的指向・性自認の描写が「普通でない」ことがあることを述べましたが、その物語において「普通でない」ということの基礎には、そうさせる世の中の認識があります。

思うに、物語における「普通」を変えたいなら、そのような「普通」を措定した物語を批判するのではなく、世の中の認識を批判し、変えていくべきではないでしょうか。(3)-1で述べた質的な修正です。
それを物語という手法をとって行うのであれば、それも上述したように、物語のやり方に則ってなされるべきです。

ここまで、性的指向・性自認について「普通」と「普通でない」という二項対立を作って述べてきましたが、現にこれまで「心身の性が一致し、かつ異性のみを恋愛の対象とする」者のみが認識されてきたこと、現在に至ってもなお、そうである者とそうでない者が、社会的に、また制度的に別個に扱われていることは、否定し得ないと思います。
そうした、未だ社会的マイノリティの社会的な立場や権利が回復・確認(理想)が進まない現実を認識し、その現実に即して理想を実現させる方策を考える必要があるのではないでしょうか。
そのような「である」と「べき」の峻別をせずに、理想をむやみに現実とそれを映す「物語」にあてがおうとしても、むしろ理想の実現からは遠ざかるのではないでしょうか。

「チェーホフの銃」に係る議論が「普通」と「普通でない」を議論する限り、両者の間に不合理な差別をもたらす可能性を孕んでいることは否定しませんが、「普通」かどうかに係る世の中の認識と、それを物語にどう持ち込むか、という点を整理することが、当然にそうした差別をもたらすとは考えていません(そもそも、「普通」かどうかは、質的に評価する議論でないことは再三言っているとおりです。)。
むしろ、その「普通」と「普通でない」という垣根を解消しようとするのであれば、そうした検討の段階を飛び越えてしまうことは、いまだその垣根を持つ者の理解を遠ざけることにはなると、危惧しているところです。

補論1:「普通」だからと言って描写される訳でもない

補足的に、別の論点です。
一般に「普通」のものが、そうであるからといって必ず物語に描写されるかといえば、そうではありません。

その最たる例が、2つ前の段落で簡単に触れた、まあ手垢のついた例ですが、深夜アニメの学園ものに親が出てこない現象です。
詳しくは、ラノベに親が描かれていないのは「チェーホフの銃」と呼ばれる作劇法の応用( Togetter)のとおりかと思いますので、そちらを御覧いただければとも思いますが、生徒同士のやり取りを描くことを主眼としているため、家に同級生が訪れるシーンがあったとしてもそこに親が描かれることがないというもので、存在するかどうかも含め無視されます。
この場合、生徒同士のやり取りには親は関わらないという「普通」が措定されることになろうかと思います。

親が、その存在も含めて言及されないというのが当たり前かどうかは若干悩ましいところですが、殊に学園ものというジャンルであれば、一つは、学校という、家庭とは別の、かなり独立性や閉鎖性の高い環境での人々の営みを描こうとしているものであること、また一つは、親など大人の理屈が通用しない、子供の論理の世界を描きたいと思うこと、などを考えると、その世界に親が出てこないのは、「普通」だというのも頷けます。

かと言って、そうした物語を作る上での理屈のために、親が出てこないことを殊更に示すのも野暮ったい気もするので、その場合、親について触れることがない(もっと言えば、触れていないことにすら触れず、気づかせない)こととなるのでしょう。
(ただ、それでもどうしても触れざるを得ないことがあるので、その場合に海外出張させることで何とか物語の外にいていただく、ということになる訳で。) 
しかし、それでもやはりその世界に親はいるでしょう。けれど、描写されることはない。

繰り返しになりますが、物語は元より作者の意図と目的をもって生まれるもので、物語に登場するものは、敢えてその手で物語に載せているのです。

「普通」だからといって、必ず物語で描かれるとは限らないのです。

補論2:性的志向・性自認は「表出」を要する

また、こんな指摘もありました。
性的指向・性自認は、そもそも意識して表出させないと分からないという特性があることを検討する必要がある、というものです。
確かに、そうした表出を敢えて作者がさせている時点で、そこに作者の、あるいは物語としての意図、目的意識が介在するはずだと、私も思います。

ただ、駅に行けば白杖を持って歩く人をそれなりの頻度で見かけるのに、物語の日常風景で、物語上格別の理由なく白杖を持つ人が出てくるシーンがあっただろうかと考えを巡らせると、属性とそれを表出することの関係の整理がなかなかつかなくなったので、前回投稿・本投稿の一連では、その点を抜きにして検討することとしました。

結びに代えて

前回投稿の3倍の分量を、前回投稿から2週間弱も空けてから投稿することになりましたが、今書けることは書けたと思います。

思うところがあるならば書かなければならない、ということに、書いてみて改めて気づかされました。

しかし、こうした理屈に関することを理屈のままひたすら書いていて、本当は物語を書いていたい、物語のことを考えていたいと思っていることに気づかされました。こうした理屈を綴っていくにしても(「普通」を相対化して「普通でない」ことをもっと意識し続けろ、という主張を込めた上述の脚本を書いていたように)です。

何と言いますか、前向きな気づきはこれくらいです。

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