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【年齢のうた】松田聖子 その2●♪トゥルリラートゥルリラー これは大人になっていく”練習曲”

ええ、ええ。業務的に年末感が吹いております。
取材だ~、ライヴイベントだ~、と。風物詩。
現状に、落ち着いて対処していかねば。

えっと。スネイル・メイルやコレクターズを観に行きました。わが道を行くアーティストたちの姿は気高いですね。


あと、スプリングスティーンのイベントにも行きました。ファンミと呼ばれるものに人生初参加でしたね(まあ似た類の会は参加経験ありますが)。
長年のファンとしては感無量の内容でした。


そんな中、コミックの『約束のネバーランド』を読みました。なんという設定、ものっすごい展開、恐るべき密度。一気読みだったのでエネルギー使った。これ、アニメやドラマはどうなってるのかな。時間できたらそれらも観てみようかな。


では松田聖子の2回目に入ります。

大人びた歌を唄うようになった20才の聖子


1980年、18才の時の3枚目のシングル「風は秋色/Eighteen」でチャート1位を獲得してからの聖子は、完全に黄金期に突入。

1981年3月に19才に。その勢いは加速するばかりだった。

なお、前回、「Eighteen」について、あまりにモロなオールディーズ・ポップス路線が今ひとつに感じたと書いたのだが。この1981年、シングル「風立ちぬ」と同名のアルバムのA面における大瀧詠一プロデュースでのオールディーズ指向のほうは、この時代に当てたモダンなスタイルで磨き上げられており、非常に優れた仕上がりになっている。

聖子は1982年に20才になっても、安定した人気をキープしていく。


このポップなアイドルソングの「渚のバルコニー」に対して、同年夏リリースの「小麦色のマーメイド」はグッとスローテンポで、メロディの展開も抑えめ。作詞は松本隆、作曲は呉田軽穂ことユーミンである。アレンジは松任谷正隆。

コーラスやストリングスも加えたしっとりした世界は、ちょっとAORな趣。近年この曲がシティ・ポップの方面から再評価されているのも納得だ。2008年に、その界隈の代表的なシンガーである土岐麻子がカバーしている。

この「小麦色のマーメイド」の大人びた雰囲気には、聖子がすでに20才という年齢を迎えたことも背景にあったのではないかと僕は考える。

そして今回の主役となる「野ばらのエチュード」は、1982年10月の発売。聖子にとって11枚目のシングルで、作詞はやはり松本隆。作曲は財津和夫。アレンジは大村雅朗である。

聖子ワールドにリアル年齢は必要ない?


「野ばらのエチュード」は明るく軽快なポップソングで、何といっても トゥルリラー トゥルリラー のくり返しがインパクトを残す。前作「小麦色のマーメイド」がしっとりめだったので、ここでポップサイドに引き戻した側面があったのではないだろうか。

主人公の気持ちは、旅をしたいとか、愛を見つめてとか、あなたしか見えない……などなど。愛をモチーフにしながら、20才という大人になる段階の心理。かたや、そこにどこか幼さとそのかわいらしさが残っているイメージがある。
大人になろうとしている思いと、少女的なかわいさ。エチュードには「習作」や「練習曲」という意味があるので、20才の女性が大人になっていくための練習をしている、というところだろうか。

聖子のチャートナンバー1奪取は、このあとも続いた。

こうして音楽シーンを駆け抜けていった聖子。思えば、松田聖子という存在の強固さは、それからあとも彼女らしさを損なうことなく続けてきたことに理由があると思う。90年代以降もヒット曲を出したりしているが、これはチャート的にどうこうという話ではない。いつ、いかなる時、いかなる場でも、聖子は聖子。そうあり続けている才能なのだと感じる。

ここで言えるのは、聖子の年齢ソングはここで取り上げた2曲以降は見られなくなったということだ。いや、断言はしにくい。というのも、自分なりに彼女の膨大なディスコグラフィを探したのだが、もしかしたらほかにも出てくるかもしれない。もしそうした楽曲の存在を知っている方は、ぜひとも教えていただきたいと思う。

ただ、いずれにしても聖子が、自分のリアルな年齢や、そこから喚起されるリアルな生活感のようなところと、自身が唄う歌の世界とが、別のものになっていったところはあると思う。いや……最初のほうからそうだったという気もする。なにしろ、こうして当時のリアルな年齢と重ねて彼女の歌を聴くことは、ちょっとした違和感も覚えるからだ。それもこの80年代半ばまではまだありだったのかもしれないが、やがて聖子はリアルとか実年齢とかいう次元を超えたところに達したと思うからだ。

聖子は、前時代のCBS・ソニーが促進させた南沙織「17歳」から山口百恵という、実年齢を表明することでリアルさを呼び込むアイドルの路線は歩まなかった。それだけ傑出したシンガーであり、存在なのだ。

そう思ってみると、今回紹介した2曲は、違う意味で、ちょっと愛おしい。
「Eighteen」と「野ばらのエチュード」からは、むしろ今、松田聖子という存在の特殊さ、特別さを感じさせてくれる。

最後に、備忘録的に、今回ふと思ったことを書き留めておきたい。結論はないので、読み流してもらうほうがいいと思う。

聖子が唄った「Eighteen」の18才にしても、「野ばらのエチュード」の20才にしても、その年齢は十分若いと思う。今でも昔でも、だ。
しかし、とくに80年代の歌謡曲、アイドル、芸能界は、デビューさせるタレントを、とにかく若い子のほうへと触手を伸ばしていた。ちょっとでも若いアイドルや年齢の低いタレントをデビューさせて、なんとかものにする。言わば青田買いもいいところで、とにかく、若ければ若いほど良い。当時の芸能界にはそんな空気を感じたものだ。そのピークは、おそらく90年代のチャイドルブームだったと思う。
そういえば先日、その時代の人のニュースを目にしたばかりだった。

そうして大量の若い……時に、幼いアイドルたちがデビューし、もちろんほとんどの人たちは脱落していった。しかし結果として、その中の限られた人たちは今でも歌手活動を続けていたり、タレントとして活躍していたりする。そこまで考えると、青田買いや若年指向がすべて無意味だったというわけではないのだろう。

一方で、現在。今のアイドルやタレントたちで、とにかく若さを売りにしているような人は、本当に少ない。
当然ローティーンでデビューする子もいるだろうし、もしかしたらSNSや動画投稿の世界に低年齢をアピールしているタレントはいるかもしれない(よく知らないのでこれ以上は触れないが)。ただ、時代の趨勢としては、明らかに若さにばかりは向いていない。逆に、上のほうの年齢に向かってる気配がある。タレントも、それに見る側も、高齢化が進んでいるのだ。

それと、世の中の価値観の変化や人々の動向を見ていて、さらにこの【年齢のうた】で年齢についての歌を調べても、全体に若くなっている感がある。もっと言えば、大人の年齢の人々が子供化、場合によっては幼児化している傾向さえ感じるからだ。
たとえば昔は、大人が空想や想像の、何かの物語の世界ではしゃぐことなんて、許されなかった。しかし今では大人だけでテーマパークに行って楽しんでも、誰もおかしいとは思わない。

タレントの実年齢は低年齢化していなくても、人々のマインドは低年齢化しているように感じる。
その反面、若い子たちに対して「老成している」「なんだか冷めてる」なんて声も聞く。しかし今の若者たちは、昔の僕たちほど若々しく、無邪気でいられなくなっていると思う。ネット社会やコンプライアンス重視の世の中は、いろんな方面から監視されている。

これらの事柄がどう関係し、どう結びついているのか、自分でも整理できていない。また、整理する必要があるかどうかもわからない。

以上の蛇足も、2023年12月半ばの今、感じたことである。


おいしいので、好きですよ。
そういえば一昨年の4月、
サトテルの鳩サブレ―弾を
ハマスタの現地で目撃したやんか!
おーん

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