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【UR】What's Love? -Season3-「生きとし生ける男」

Season 1 『モテ期を終わらせた男』
Season 2 『白昼堂々の男』

これは私が人生の一部を共にした、或る男との物語である。


小生からの告白により付き合う事となった彼とは約四年間を共にしたが、それは私の人生の極一部とはいえ、大変に「重たい」ものであった。その「重たい」という意味は、引越の際に大好きな本を纏め『好きな本』と名付けた段ボール箱の様に、重い。『人生のお荷物』という言霊があるが、以下の物語は真にそれに近しい代物だったのかも知れない・・・
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僕は名古屋で生まれ、関西の国立大学を出、地域のインフラを支える大手企業で経理マンとして働いていた。一度親元を離れてみたかったし神戸という街を満喫した。決して整った顔立ちではなかったが、丁寧な所作からか、当時はそれなりにモテた。
就職戦線では早々に希望していた企業二社から内定を頂いた。大阪の企業と名古屋の企業。共にインフラ系であった。阪神大震災でボランティアに参加しインフラという業界に興味を持った。悩んだ末、自分が守りたい人の顔を思い浮かべたら、家族を含め東海地域に多かった。だから今の企業を選んだ。
大学から会計学を専攻し、簿記1級も在学中に取得した。その延長線上で配属された経理財務部。勿論性に合っていた。インフラ企業というのは『継続性』を重視する特性が強いし、経理財務という仕事も又『継続性』の要素が強い。業務を通じて得た知識を自身の資産運用に活用し、郊外であるが二十代の後半に差し掛かる頃には中古マンションを購入した。その“地盤の固さ”は自他共にお墨付きだ。購入当時は野暮ったかったそのマンションを、ずっと憧れていた自分仕様の家に改造した。
リフォームに際し独学で設計を学び、自ら図面を引いた。何事も制作している時が一番楽しい。床・テーブル・ウォールシェルフを同じ木材で統一し、しっかりコストも省いた。友人からはCasa BRUTUSに出てきそうな家だねと言われた。定期購読する程に好きだった雑誌。やはり影響というのは知らず知らずのうちに滲み出てくる。継続は力なり。


そんな我が家にゲストが来た。それはペットか?


いや、それは『家族』というのが相応しかった

■Rose

彼はいつも僕を困らせた。僕の困った顔が見たいと彼は言った。
3D映画としてリバイバルされたTITANICを観に行ってから暫く、僕はジャックと呼ばれた。彼はどこで買ってきたのか笛のストラップを買ってきて携帯にぶら下げていた。しかもそれは体育教師が首からぶら下げるような物ではなく、細長い、縦笛のようなシュッとした笛だった。

二人で家にいるというのに、彼はその笛を鳴らし僕を呼んだ。

うるさい、と叱りに行くと、ジャック?次の入浴剤はどこ?などと聞いてきた。溺れさせてやろうか?

その笛は防水と書いてあったから、風呂場でも機能するかどうかを試してみたかったそうだ。そして僕がちゃんと見に来るかを試したかったのだろう。

この他にも或る日の事。彼は僕をカレーパンマンに似ていると言ってきた。理由は『三枚目の鏡』だからだそうだ。

その翌日デパ地下でカレーパンを買っていってあげたら、そのカレーパンと僕をまじまじと見比べ、やっぱりそうだったのね、確信したわ、いやいや、見た目の話じゃないのよ、精神論の話、と言い、僕の頬を甘噛みした。

実が出そうになる僕を見て、彼は笑った。


■before/after

僕たちは東日本大震災以降、比較的早い段階で一緒に住むことを決めた。それまで彼は都心部のマンションに一人暮らしをしていたが、彼の広告マンという業務特性上、それは然るべき居住地の選択だった。彼は多忙を極め、業務量、そして何より其の人間関係に明らかに疲弊し切っていた。彼は時に僕に対して噛み付くような物言いをし、そしてそれを詫びた。僕には何も出来なかった。ただ、インフラという仕事を選んだときもそうだったが、全ては『継続性』であって、一つ一つの事象だけを取り上げ彼を嫌いになることは決して無かった。

それでも彼が、僕が夕飯に作った何の変哲もない鳥鍋の、その土鍋の蓋を開け、出汁の匂いが部屋に立ち籠めようとした瞬間、突然のゲリラ豪雨の様に号泣した時には正直絶句した。彼の呼吸を落ち着かせるのに小一時間はかかった。その間も繰り返される未曾有の豪雨。

これはいかんと思い、彼の重い腰を持ち上げ、病院に向かった。そんな矢先。僕自身もこれまでの『継続性』を前提とした様々な物事の考え方が根底から覆され、自身が身を置く業界・業務の意義さえ問われている気分に苛まれた。

だがその震災を機に、幸か不幸か、彼はその非人道的な業務過多の状態から解放され、少しずつ彼自身を取り戻していったことは、安堵に値した。

彼はその時間を僕の為に費やしてくれた。平日でも人間的な時間に帰宅できた日には彼が夕飯を作ってくれるようになったし、僕がたまに通っていた陶芸教室の作品も、この皿はいい、あなたには才能がある、次はこんな大皿を作って欲しい、パスタとか入れられそうな、ぜひ続けて欲しい、などと言い安心させてくれた。

言葉を取り戻した彼は、心強い。


■Jetlag

彼は仕事を辞めると言い出した。

立派な会社だったけど、彼はよく頑張ったと思う。元々、彼と僕とでは就業観が全く違う。そういう決断に遅かれ早かれなるだろうなとは想定していた。

更に彼は世界一周をすると言い出した。今の僕には生きてる実感が必要だ、と。彼にはいつも、ストーリーがあってもプロセスがない。二つのことが同時に思い付いたなら、それは同時に、今、取り組むべきだ、というのが彼の感性だ。

二か月間の長旅から彼は無事に帰ってきた。ブラジルからメールが来た時は、彼がサンパウロは非常につまらない街だと感想を述べているので、きっとサンパウロという街はこの世のどこかに確実に存在するんだろうと思った。それを無条件に信じてあげるのが僕の存在意義。

出発前、彼は帰ってきたら日本で転職活動をする、それはもしかして名古屋じゃないかもしれない、東京に興味がある、と言っていた。様々な未来が懸念材料ではあったが、止めて止まる彼ではないので、早かれ遅かれ彼が此処を発つ日が来ることを前提にした。

今は唯、無事に帰ってきた彼の焼けた肌を見、ブラジルという国が本当に日本の裏側に存在することを教えてくれただけでも非常に尊いと想う。

年の瀬の出来事だった。


■EAST or WEST?

彼は日本に帰国して一週間も経たないうちに、次はドイツのベルリンに住みたいと言い出した。もう決定事項として一応その理由を聞いたら、あらゆる細かい理由は並べようと思えば並べられるけど、そうじゃない、唯、空が呼んでたんだ、と・・・!

もはや驚きというか、今度は自分がどうそれを消化するかを試されている気がしてならなかった。苦行?いや、ホルモンを食べたあの感覚に違いだろうか?顎は疲れるがあの噛み応え。食感と味。美味い。だけどそれをどう飲み込むか。試されている。

そして消化には少し時間がかかる。

TokyoがBerlinになっただけで、首都は首都である。戦争状態でもない。物資は何でもある。今の彼ならそこで逞しく生き暮すことはできるだろう。彼の目も、言葉も、既に東でなく西を向いている、いや、西へ歩み始めているのだから。

彼は半年の準備期間中、縁もゆかりもない名古屋大学ドイツ語サークルに通い、うちにもドイツ人が遊びに来るようになった。彼の周りはいつも賑やかしい。

旅立の日。共通の親友がどうしても一緒に来たいと言うので、僕たちは三人で中部国際空港に向かった。その親友があまりに大泣きするので僕は泣くタイミングを見逃した。彼はといえば既にそわそわと揺れ、ベルリンからの呼び声に共鳴していた。

太陽照り付ける屋上からルフトハンザ航空の離陸を見届けた。そして親友の号泣が落ち着いてから、今度は僕が泣いた。

陽炎が、大きく揺れた。


■Jewish

彼は毎日のように電話をくれた。声だけではわからないが、彼が良かれと思ってよくかけてきたテレビ電話越しに見える景色。そのヨーロッパ調の建物や日本にはいない人種がどうこうでなく、その街の“時間”が違うことに僕は何度も不思議な気持ちになった。頭ではわかっていても、いま電波を介して同じ時を共有している筈なのに、彼はいつも僕とは違う“時”を過ごしていた。

一年ほど経って彼は日本に短期帰国してくれたし、その三ヶ月後くらいに僕は休暇をとり人生で初めてドイツを訪れた。実はその間、彼はベルリンで扁桃腺を腫らしてしまい、入院と手術をしたそうだ。ドイツでだ。

体調が悪い悪いとは言っていたが、ドイツではいきなり病院に行かないのが普通で、かかりつけ医や薬剤師をまずは頼り、そこから紹介文をもらって大きな病院に行く体制になっているとか言うもんだから、僕はそれを信じるしかなかった。今も薬局で買ってきた“喉茶”を飲んでいるんだとか。しかし、あまりにも呼吸が苦しくなり、それは日曜に関わらず耐えきれずに病院の緊急外来に駆け込んだら、嚥下障害も併発しており、かなり危険な状態だった。ということを僕は、仮手術が終わった後に聞かされた・・・!とにかく苦しい、でも大丈夫、明朝には本手術を受ける、医師は皆信頼できる人達だから安心して、という文体だけを遠く日本で朗読させられる僕。

普段はそこまで話好きでもない僕でも、こういう時こそ電話で話したいと思ったし、テレビ電話なんてこういう時の為にあるものであって、ひと目でも彼の動く姿を見たかった。しかし彼に負担をかけてはならない。祈る気持ちでやきもきしていたら、彼は本手術の時刻だけをメールで送ってきた。それは日本で絶賛業務時間中。会社のトイレに籠り、ただひたすらに祈った・・・!

三日ほど経ちいきなり電話が鳴ったので出たら、彼だった。まだ変な感じ、お腹すいた、一緒の病室にいるドイツ人がイケメン、看護師さんにコーヒー飲みたいと言ったらコーヒーは血流をよくして術後の出血が酷くなるから駄目なんだって、怒られちゃった、などと言ってきた。あどけなすぎる。祈った甲斐があった。

僕がベルリンを滞在した時、彼は入院していた病院を案内してくれた。このカフェテリアのアイスクリームがおいしい、人気のない中庭が緑が多くてオススメ、などと口コミサイトのような軽い口調がおかしくて笑った。

確かにその大病院は歴史のある佇まいの割に、内装はリノベーションされ、とても綺麗で、読めないが各科の案内表示なども整然としており、ドイツらしさを感じられる空間であった。

彼は僕に見せたいものがあると言い、緑豊かな中庭の或る一画に連れて行ってくれた。ひっそりと佇む碑石。そこに見慣れぬ星マークと独語とが書いてあるが読めない。彼が訳してくれた。


『戦前、当病院に於いて、ユダヤ人医師達が懸命に医療に従事していたことを、此処に記す。』

・・・同じ場所でも、時代や人種が違えば、合理的な理由無く死ぬ人がいるし、助かる人もいる。それを日々日々感じられるのがベルリンの魅力。僕はここで助かった。偶然助かった。この命を大切にしないとね・・・と彼は自分の言葉を付け加えた。


正直、彼が何を言いたいのか解らなかった。しかし彼は元気にこの碑の前に立っている。異国の見知らぬ医師達が彼を助けてくれたことを心から感謝した。

彼はまるでその碑を、自分の関係者の墓石のように見つめていた。


■the life

僕の帰国後に彼はまたダークサイドに陥ってしまった。でもこれも彼のストーリーの一部なので、それを経てまた元気に笑顔になってくれたらと思い、遠くから見守ることにした。

数週間後、彼は料理人になると言い出した。

今回に関してはずっと遠距離でもあったし、どうしてそうなったのかがまったく自分の中で繋がらなかった。僕が観察しきれていない彼の状況がそうさせたのかと思って、少し放置してみた。

後日、彼は来春(その時は冬だった)から大阪に住み日本料理の勉強をすると決めた、これは絶対にいい世界だ、おいしいものを作り楽しい空間を作って感謝されることはあっても恨まれることは絶対にない、それは世界中どこでもそうだ、仮に相手がマフィアでもそうだ、大丈夫、もう数か月後には僕はOsakaにいる、と言い放った。たった二三日の間の話だ。

何かが弾けた。


僕は彼にずっと、大きな牧場で飼っている羊のような存在でいて欲しいと望んでいた。牧歌的な境地を理想として持っていた。その羊にはなるべくストレスを与えない、その為に僕が居る。その為なら何でもする。だからどうか、僕の柵の中にいてくれ、と。

それまでも何かあると要所要所でその柵を改修してきたつもりだった。羊の成長と共に。羊が暮らし易い様に。

だがその羊はやはり羊で、生きしものであった。たとえ柵の中に豊富な食料、安心できる寝床があったとしても、彼はどこか外の世界を見ていた。夜になると何処からか狼の鳴き声が聞こえ、怯え震える時があったとしてもだ。

まだ見ぬ星や、飲んだことのない水があるなら、彼はそれを求めた。だったら生きしものは、生きしものらしく、生きればいい。


僕は彼を放した。

そして彼は北極星を目指すように歩いていった。野へと還っていった。


■MOTHER

行き場のない怒りと、憐れみと、悲しみと、苦しみと。様々な気持ちを僕は罪のない茶色い箱にぶつけた。彼の遺品を雑に纏めた数個の段ボール。

自分で荒いとわかっていても汚い言動は出てくる。極力人間らしくいたくても、僕だって動物なんだ。どうか赦しておくれ。


彼は段ボールを取りに現れた。

荷物をどうするもこうするも言ってなかったけど、彼はクロネコヤマトで実家に送る、今までごめん、と心許なく謝罪した。僕はそのごめんが聞きたかった。謝ってもらえば気がすむなんて、なんとも人間らしく傲慢なもんだ。僕は彼の実家まで自分の車で段ボールを運んでやろうかと提案した。彼は四年前と変わらず、出逢った頃のようなあのしたたかな甘えん坊の猫のように、ニャアと寄ってきた。

実家に着いたらすぐ帰るからと念を押した上で、僕は彼との最後のドライブを楽しんだ。



いろんな話をした。他愛もない話。出会いから別れまで、人と人との会話なんて、他愛がなければないほど、楽しい。楽しかった。全てが楽しかった。

想えば彼はよく家族の話をしてくれた。そんな彼が好きだった。地元は保守の極みで大嫌いだとか言いながら、それでも家族と繋がりを持とうとしている彼はとても素敵だと思う。僕自身だって、自分の父母のことは面倒くさいけど、きっと自分もいつかこうなるわけで、どこかでその覚悟を持とうと日々努めていた。


彼の実家に着くとお母さんが出てきてくれた。初めまして、今までどうもありがとう、どうぞあがっていって、とすぐには帰られない雰囲気を作ってくれ、お茶を一杯およばれした。

お母さんはいそいそとどこからか分厚いアルバムを何冊か持ってきて、彼の写真を見せてくれた。


・・・ほらほら、この子、こんな顔して、兄弟三人いても全然違うのよ、同じように育てたのに、このおもちゃが大好きでね、ずっと持ってたのに、花火の時に燃やしちゃったのよね、一番大声で泣くのよこの子、だから一番最初に疲れて寝ちゃうの、ある意味で楽だったわ(笑)、いつもひとりでちょろちょろと動き回っちゃうんだけど、デパートとかで迷子になるとね、いつもじっと動かずに、どこかで泣いてるの、だから見つけるのは結構簡単なのよ?あー、ここにいた!ってね、他の子は親を探し回っちゃうんだけど、この子はなんていうか、自分がなぜ迷ったのかをじっと考える子なのよ・・・


僕たち二人の関係性は表面的には“友達”だった。付き合っていたなんて言っていない。それでもきっと、それは確信に近く、お母さんは僕たちの関係を見透かしたうえで、ありがとう、とか、うちの子をわかってあげて、とか、そんな風に僕に語り掛けていた。


アルバムが近代になりページが終わってしまった。そして彼が料理人になる話に振れた。

僕に語りかけていたお母さんが、今度は彼の方を向き呟いた。「あなた、帰ってきたと思ったら、またどこかに行っちゃうのね。」

それまで、うんうん、そうですか、と、聞き上手に徹していた僕だったが、その言葉を聞いた瞬間すかさず「そうです!それなんです!僕もそう思います!」と前のめりで自分の言葉を発してしまった。

お母さんと僕。同じ境遇。変なの。

そして僕はお母さんに別れを告げ、席を立った。


少し離れた駐車場までは彼だけが見送ってくれた。

再び訪れた二人だけの時間。


「あなた、帰ってきたと思ったら、またどこかに行っちゃうのね。 だってさ。」

皮肉っぽく僕が数分前の言葉をリピートすると、さっきはだんまり決め込んでいた彼が、今度はスッと通る声でこう言い放った。

「行きたい場所があるなんて、最高の人生じゃない?」


僕は車のドアを閉め、走り出した。

保っていた冷静は高速に乗りアクセルを踏み込むと同時に、崩れていった。ハンドルに拳を強く叩きつけ、腹の底から唸る。

ごぅというエンジン音と共に車内に響く、俺の雄叫び。


「それを言っちゃあ、おしまいよ」


‐the end‐



※これはフィクションでありノンフィクションでありコラムニスト本人の心の底から滲み出る物語であり、全ての恋に愛に生きとし生ける者に捧げるおたけびであります。こんな僕を見つけてくれた彼、URBAN RESEARCHの編集部さん、そしてご一読頂いだ皆様、全てに感謝します。


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※この内容は『URBAN RESEARCH Media』にて2020年9月25日に掲載されたコラムで、現在は削除されたものを個人的に残したものです。毎年6月のPride monthに敬意を表し、再掲致します。🌈

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