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沖縄で映画を撮って考えた広島の祖母のこと

F(95年生まれ 東京都出身)

 県外出身で、沖縄に何のルーツもない僕が沖縄と関わり続けたいと思うようになったのは、大学時代に主宰の西由良と映画を撮ったからだ。題材は、渡嘉敷島出身の彼女の祖母が11歳だった頃の話。集団自決(強制集団死)である。

 暗い山の中。いよいよ自決となったその時、親戚のおばさんが彼女の祖母に話しかける。「あの世に行っても、元気に学校に行くんだよ」。すると彼女の祖母は、「あの世に学校なんてあるか!」と返し、走って逃げた。少女を連れ戻そうと、大人たちが追いかけたから、家族全員が助かった、という話だ。(詳しくは「生きていてくれてありがとう」というコラムに書かれている。そちらを読んでみてほしい。)

 「この話を映画に撮りたい」。彼女からそう言われたのはいつだっただろうか。

 当時映画サークルに所属していて、授業そっちのけで活動に勤しんでいた僕たちは、部室や居酒屋でよく映画の話をしていた。この映画が面白いとか、こんな映画を撮りたいとか。そんな話の流れからだっただろうか。自分の祖母の話を映画に撮りたいから手伝って欲しいと言われたのは。別に沖縄に詳しかったわけでもないし、集団自決のことも教科書以上のことはわからない。でも、彼女の思いは絶対に形に残すべきだ。そう思ったから、すぐに手伝うことを決めた。実を言うと、いつ話したのかも、どんな会話だったのかもあまりよく覚えていないのだが、何か大事なものを聞いたという感覚だけは今も確かに残っている。

 脚本段階から協力することになり、集団自決に関する資料を読んだ。その中で僕は、幼少期に感じたむずがゆさを思い出した。
 広島出身の父方の親戚には、原爆に巻き込まれた人が何人かいる。僕の祖母もその一人だ。当時まだ赤ん坊で、幸いにも広島市外にいたため、祖母自身にはほとんど被害がなかった。だが、市内の工場で働いていた祖母の兄は、即死。真面目な人だったが、あの日だけは工場に行きたくないと言っていたらしい。祖母の母が、「行かせなければ良かった」とよく口にしていたそうだ。
 小学生のころ、夏休みに父の実家に遊びに行くと、祖母からこの話を聞かされることが何度もあった。ある時は思い出したかのように、ある時は原爆の日の黙祷の後に。でも、まだ幼かった僕は、祖母の話を真剣に受け止められなかった。戦争の話をする時だけ急にスイッチが入り、真剣な語り口調になるのがどうしても馴染めなかったのだ。気迫にたじろいでしまい、自分のルーツに関わる大切な話なのに、自分事として聞くことができなかった。


 集団自決の語りにも、祖母のあの気迫を感じた。さすがにもう分別のつく年齢になっていたから、由良のルーツに関わる大切な話として真剣に向き合うことができたが、あの当時の僕だったら……、と思わずにはいられない。きっと読み通せなかったはずだ。それは、気迫のこもった語りからこぼれ落ちるものに目を向けられなかったからだと思う。どうしても、体験の語りでは、凄惨な場面がクローズアップされ、その人個人のライフストーリーや当時の暮らしが抜け落ちてしまうことも多い。ある程度大人になれば、凄惨な体験の裏にあるその人の暮らしにも意識が向くようになるが、当時は気迫に押され、そこまで考えが及ばなかった。戦争の体験だけが浮いているように見え、遠い出来事のように感じていた。語りからこぼれ落ちる様々な要素を拾い上げ語りなおせれば、あの時の僕もちゃんと話を聞けたのかもしれない。
 そのことを彼女に伝えると、彼女も違う切り口から語り方を模索していることがわかった。戦争を体験していない自分がどう祖母の体験を語ればいいのか、悩んでいたのだ。二人で相談を重ね、集団自決の体験にだけ焦点を絞るのではなく、子どもが遊んでる姿も盛り込むことにした。自決が起こったことだけでなく、そこには普通に暮らしていた人々がいたことを伝えたかったからだ。
 今振り返ると、映画の出来は良くない。準備が足りなかったために、撮影中さまざまなトラブルにも見舞われた。でも、撮影に協力できて良かったとも思っている。沖縄について自分なりに考えるきっかけになったし、もっと沖縄について知りたくなった。

 映画を撮ってから、ずっと祖母の話を聞き直したいと思っていた。だから、大学を卒業した年に、祖母に会いに行き、話を聞いた。小さい頃に聞いた話と全く一緒だったが、貴重な話を聞けて嬉しかったのを覚えている。
 もう5年も広島に行けていない。また近いうちにお好み焼きでも食べに行こうかな。

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