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内海信彦新作展

恩師の内海信彦先生の新作展へ。


 作品がまた新境地を迎えていた。展覧会の度にいつも新たなアプローチを見せる、若手作家以上に現役作家たるエネルギーに圧倒される。しかし一方できちんと過去を踏まえて丁寧に変化している、根っこの部分の不変で頑強な精神性もまた感じられる。作品が自身の暗黒に落ち込んだり閉じこもることなく、フィードバックを踏まえた葛藤ありきの前進を体現している。先生のやってこられたこと、芸術や社会の歴史総体を踏まえたような、様々な繋がりを想起させる力のある作品群だった。今回はご病気をも乗り越え、このような素晴らしい形に着地させているのもさすがである。


 先生が影響を受けたポロックや、影響を与えた(私含め)弟子作家の作品がいくつも浮かぶような、先生の芯たるところがよく表れた展示だった。今回の絵画のパノラマな見せ方は、欧米で観てきたホロコースト関連の博物館展示の影響もあるという(画廊オーナーのお話より)。


 今回の新作について。それは爆心地であり、戦車の通った跡であり、兵士の斃れた大地のように見える。種がぎっしりと詰まった枯れた向日葵は、無限の生命の可能性を持ちながら大地に斃れた母親や、多くの若い命を一気に犠牲にする国家の象徴のようだ。


 作品からは、耳を澄ませば聴こえる"呼吸音"のような音があり、近付けば虫も見つけることができた。自然のからっとした、エモーショナルな意味を持たない、物質としての大地はいつも無言の受け皿だ。人間の愚行も喜びも物言わず見続けてきた大地は、記憶される媒体でありながら、記憶そのもののようでもある。作品の支持体とメディウム、そして介在する作家の手は、先生の制作においてはそのまま自然現象にも置き換えられる。"絵の呼吸"を聞いてより一層、物言わぬ大地の見てきたものと、永久に変わらぬ自然の営みに思いを馳せた。この作品が丹沢のアトリエで作られていることで、作品・作家・自然の一体化が生まれ、そこに「気」が生じるであろうことも、想像できる。


 自然光のような美しい照明の当たる作品を見ていて、どの地にも等しく朝と夜が来ることを再現しているように思った。この世界は、言ってみれば変わらず繰り返されてきたことばかりだ。しかしそれは螺旋状で(先生に教わったものの一つ)、似て非なる円環である…その悲哀もあれば、だからこそ希望もあるのであって…先生のよくおっしゃる「希望の虹」は、この大地に架かる日がいつかきっと来るはずだ。しかしその日をただ待つだけでは、遠いどころか人の一生のうちには来ない。絶望から足掻いて状況を良くしようとする人の元に、一人ひとりが日々考えアクションを起こす社会の元に訪れる、晴れた日の温もりのような日差しは、この大地…こうした作品を見つめる力のある者に、きっと降り注がれる。


 「見る」ということの幅広い意味を問う芸術の底力を久々に体感し、身が引き締まった。「ここがグラウンド・ゼロだ」「ここが被爆地なのだ」と叫び続けてきた先生の言葉を、先生不在の画廊では作品が「ここがウクライナだ」と叫んでいた。




 個展は今週土曜日まで、京橋のギャラリイKにて

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