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舞台 「オデッサ」 観劇レビュー 2024/01/13


写真引用元:ホリプロステージ 公式X(旧Twitter)


公演タイトル:「オデッサ」
劇場:東京芸術劇場 プレイハウス
劇団・企画:ホリプロ
作・演出:三谷幸喜
演奏:荻野清子
ナレーション:横田栄司
出演:柿澤勇人、宮澤エマ、迫田孝也
公演期間:1/8〜1/28(東京)、2/1〜2/12(大阪)、2/16〜2/18(福岡)、2/24〜2/25(宮城)、3/2〜3/3(愛知)
上演時間:約1時間45分(途中休憩なし)
作品キーワード:密室会話劇、ミステリー、サスペンス、コメディ、多言語、映像
個人満足度:★★★★★★☆☆☆☆


映画では、『ステキな金縛り』『記憶にございません!』などを、テレビドラマでは『真田丸』『鎌倉殿の13人』などの脚本を手がけてきた劇作家の三谷幸喜さんの新作書き下ろし舞台ということで観劇。
三谷幸喜さんの作演出舞台は『ショウ・マスト・ゴー・オン』(2022年12月)を、三谷さんが演出のみを担当していた舞台では『23階の笑い』(2020年12月)を観劇したことがある。

今作の物語は、アメリカ合衆国のテキサス州にある小さな町であるオデッサを舞台に、殺人事件の容疑で拘留された日本人旅行者と、英語しか話せない女性日系人警察官、留学中で英語も達者な日本人青年が繰り広げる密室会話劇である。
オデッサでは先日、一人の地元に住む老人が何者かによって殺害された。
その老人の息子の証言によると、日本語しか話すことの出来ないコジマカンタロウと名乗る日本人旅行者(迫田孝也)がその老人を殺害したに違いないと言い、オデッサ警察の日系人警察官のカチンスキー警部(宮澤エマ)はコジマを拘留する。
しかし二人は言語が通じないので、その通訳に留学生の青年であるスティーブ日高(柿澤勇人)を抜擢し、彼の通訳によってコジマへの尋問が始まる。
しかし、スティーブ日高はコジマが自分と同じ鹿児島出身であることを知って、彼を助けたいと行動し始めることになり...というもの。

ジャンルとしては、この殺人事件の真犯人を探すミステリー・サスペンスでもあるのだが、さすがは喜劇作家の三谷さんだけあって終始大爆笑のコメディだった。
基本的にこの会話劇は、カチンスキー警部が英語を話し、その日本語訳が映像として字幕に投影され、スティーブ日高が英語を日本語に通訳してコジマに話す。
またその逆もある。
しかし、スティーブ日高がコジマを助けたい一心で、あえて間違った翻訳を両者に伝えることで支離滅裂な会話と認識が生まれていく様が実に面白かった。
こんな二か国語を使いながらコミカルに描いた会話劇を観たことがなかったので、その新鮮な演出とワードチョイスに度々驚かされ笑わされた。

三谷さんが劇中に散りばめているコミカルさというのは、映像を駆使して言葉を面白おかしく投影することで表現したり、役者の身振り手振りで複数の解釈を発生させることによる滑稽さを生み出してて、凄く上質なコメディに感じられる点が好みだった。
また、英語と日本語を上手く使い分けて、その言語の通じない様をコミカルなシチュエーションに作り上げる手腕も見事だった。

そしてコメディとしてだけではなく、後半パートではミステリーものとして二転三転させるストーリー展開に終始釘付けで飽きさせることがなかった。
しっかりと序盤や中盤に張られた伏線を回収していきながら物語が収束していく様は凄く計算されていて物語構成としても素晴らしかった。
さらに、三人の登場人物にもしっかりとキャラクター設定があって、今までどんな背景があってここにいるのか、どんな悩みを抱えているのかといったヒューマンドラマも要所要所で描くことで、登場人物に親しみを感じられて良かった。

役者も全員が三谷さん作品にゆかりのある俳優で好きだったので大満足だった。
柿澤さんの演技は舞台でずっと見てみたいと思っていたので観劇できて良かった上、調子に乗って英語と日本語を都合が良い様に勝手に解釈してめちゃくちゃにしていく様が本当に面白かった。
カチンスキー警部を演じた宮澤さんの流暢な英語の喋りっぷりが心地よかった。こんなふうに宮澤さんの役者としての良さを引き出せてしまう三谷さんは素晴らしかった。

今作は、日本が好きなクエンティン・タランティーノ監督にぜひ見てほしい舞台作品だと感じた。テキサス州が舞台でミステリーでコメディ要素もある日本の会話劇なので、絶対クエンティン・タランティーノ監督に刺さると思う。
そのくらい、センス抜群の密室会話劇だったので、アメリカンコメディ好き、ミステリー・サスペンス好きには非常におすすめしたい傑作だった。


写真引用元:ステージナタリー 「オデッサ」より。(撮影:宮川舞子)





【鑑賞動機】

三谷幸喜さんが手がける舞台作品は、『23階の笑い』『ショウ・マスト・ゴー・オン』と観劇してきたが、どの作品も非常に満足度が高いので、また三谷さん演出作品は観たいと思っていた。丁度、2023年2月に上演されていた三谷さん作演出の密室会話劇の代表作である『笑の大学』は見逃してしまったので、三谷さん作演出の密室会話劇を新作書き下ろしという形で観られると思いチケットを確保した。


【ストーリー・内容】(※ネタバレあり)

ストーリーに関しては、私が観劇で得た記憶なので、抜けや間違い等沢山あると思うがご容赦頂きたい。

アメリカ合衆国テキサス州のオデッサという町の説明のナレーションが入る。ロシアからの移民が、この町の風景がウクライナにあるオデッサという都市と近いことからそう名付けたそう。最初は人口の少ない町だったが、石油が掘り出されてから人口は急増し盛えた。しかし。石油が枯渇すると再び寂れた町となり人口は減った。
このオデッサのダイナーには、カチンスキー警部という女性日系人警察官(宮澤エマ)と、この町に留学している青年であるスティーブ日高(柿澤勇人)がいた。スティーブという名前は、自分の日本人としての名前を少しもじったワードだが、カチンスキー警部は名付けられた名前を大事にしないとと怒られる。
カチンスキー警部は、テキサス州では17人の連続殺人事件と、オデッサで先日一人の老人が殺害された事件が起きており、カチンスキー警部は後者の一人の老人の殺人事件の犯人捜索を担当することになったという。先日、その殺人事件の容疑者として上がっている日本人旅行者が拘留された。その日本人旅行者は日本語しか話せないので、その通訳をスティーブ日高にお願いして尋問することになる。

スティーブ日高は、ダイナーに一人取り残される。そこへアルマジロがやってきて餌を与える。
ダイナーに一人の日本人旅行者が入ってくる。彼は、コジマカンタロウ(迫田孝也)と名乗る。コジマはどうやら3日間野宿していたらしい。
コジマとスティーブ日高は、お互いが鹿児島県出身で同郷であることが分かる。しかも、スティーブ日高が枕崎市でコジマは指宿市だと言う。コジマは、以前指宿市で警察官をやっていたことがあるとも言う。しかし、指宿警察では全然出世も遅くて上手くいかず、こうして放浪していたのだと。
そんなコジマの身の上話を聞いて、スティーブ日高は彼をなんとしてでも救おうと決意した。

カチンスキー警部が部屋にやってきて、いよいよスティーブ日高の通訳による、警部のコジマへの尋問が始まる。
先日殺害された老人は、オデッサに長年住んでいる地元の老人であり、彼が殺された直後その老人の息子が、すぐ近くをコジマが通り過ぎるのを見たと証言している。
コジマ日本語で、自分がその老人を殺したので有罪だと主張する。しかしスティーブ日高は、英語でわざと間違えてコジマは無罪を主張していると嘘をつく。さらにスティーブ日高は、コジマの日本語を再びわざと間違えて通訳し、彼は蕎麦屋を経営していると嘘をつく。
コジマは、その老人を殺害した時にどんな方法で殺したのかを身振りで説明する。しかし、それをスティーブ日高はコジマが蕎麦屋の店主として蕎麦の作り方を実践していると嘘を伝える。
また、コジマはポエムなんて読んでもいないのに、彼がポエムを読んでいるとしてスティーブ日高は自分で考えたポエムを英語でカチンスキー警部に伝える。カチンスキー警部はそのポエムで感動する。
コジマはトイレに行きたいというので行かせる。

部屋にはスティーブ日高とカチンスキー警部の二人になる。カチンスキー警部は、コジマが謳ったポエムが物凄く素晴らしくて、そんな心の清らかな人が殺人事件を起こすはずがないと、スティーブ日高が嘘をついている無罪の訴えを信じようとしていた。スティーブ日高は、自分が作ったポエムだったので心境は複雑だった。
スティーブ日高は、英語はまずまず話せるが、まだ英語で口論が出来ないと言う。カチンスキー警部には、口論できるようになったらその言語が一人前になったと言えるという。スティーブ日高は、この前プールに行った時に、chinaとdogは立ち入り禁止と書かれていて、同じ東洋人としてショックを感じたと語る。やはり人種差別というものは存在するのだと。しかしカチンスキー警部は、その時プールの近くで陶器の展示をやっていなかったかと聞く。スティーブ日高はやっていたと答えると、カチンスキー警部は、それならchinaは中国人ではなく陶器の意味だと言う。陶器をプールに持ち込んだら割れた時危ないからだと。
カチンスキー警部は、英語が出来るからくらいの理由でオデッサにやってきて働こうとしているスティーブ日高に対して厳しいコメントをする。正直オデッサでは、5歳児だって英語を話すことが出来ると。そのままカチンスキー警部は自分が警部になった経緯を語る。母が日本人で弁護士だが、決して母のようにはなりたくなかったと。父が警部だったので父の後を継いだと。スティーブ日高は、両親は亡くなったのかと聞くが、死んでないと言い返される。

コジマが戻ってくる。カチンスキー警部はコジマの読んだポエムに感動しているので、笑顔を見せながら握手をしてくる。コジマは戸惑う。カチンスキー警部が英語で「soba」と言ってくるので、コジマはなんで「蕎麦」が出てくるのかとスティーブ日高に尋ねる。スティーブ日高は、「sova= situation of violence action」だと言い、もう一度殺害時の行動について説明してくれと言う。
コジマは、再び身振り手振りをしながら老人を殺害した時の一部始終を伝える。その大きなものを使って老人を殴る仕草や、ロープで首を締める仕草を、スティーブ日高は蕎麦の調理工程だとカチンスキー警部に伝え、カチンスキー警部は感動する。カチンスキー警部は興奮のあまりスティーブ日高を抱きしめる。コジマはその様子が意味わからず困惑する。
スティーブ日高は、殺害された老人が身につけていた衣服を調べると、そこにはレーザーがあった。しかしレーザーを身につけていたにも関わらず、拳銃が見つかっていなかった。つまり犯人は、お金だけでなく老人の拳銃まで盗み出したことが分かる。
コジマは、自分が有罪である決定的証拠があるからその証拠を取りに行くと言って部屋を出る。

スティーブ日高は、コジマが犯人でないとなると犯人は誰かという話になるが、きっと息子に違いないと言う。コジマが殺害現場近くを通ったと証言した第一発見者が怪しいと。
カチンスキー警部は、子供から電話がかかってくる。アルファベットのしりとりを始める。途中からスティーブ日高も参加して、マニアックな筋肉の英単語でしりとりを続ける。そして、アルファベット7文字で最後がxの単語で終わりにする。そういうルールなのだとカチンスキー警部はスティーブ日高に教える。
しかしコジマは部屋に拳銃を持って戻ってくる。コジマは、この拳銃を老人を殺害した時に盗んだのだと言う。拳銃には「C.A.」とイニシャルが記されており、被害者のイニシャルと一致する。
そこへカチンスキー警部の元へ、一本の電話が入る。どうやら殺害された老人の息子が自首したのだと言う。どうやらどんどん精神的に追い詰められていて、自ら供述するに至ったのだと。そのため、これによりコジマの無罪は事実上決定して一件落着だと言う。カチンスキー警部は、コジマに今日1日はここで宿泊出来るからゆっくり休んでくれと言う。
そこへ、スティーブ日高は、実は通訳に関して、ずっと嘘をつき続けてカチンスキー警部を騙していたことを明かす。カチンスキー警部にビンタされるスティーブ日高、そしてコジマにもビンタする。
スティーブ日高とコジマは鹿児島トークを始め、カチンスキー警部は再び子供から電話がかかってきて英語で対応する。カチンスキー警部は、茶色く変色したりんごは塩水につけておくと良いと言って電話を切る。
コジマはスティーブ日高とカチンスキー警部の元を去ろうとする。その時、カチンスキー警部にりんごは塩水でなく砂糖水につけた方が良いと言って去る。

スティーブ日高はおや?と思う。コジマは英語を全く話せないはず。スティーブ日高はカチンスキー警部が子供と電話のやり取りをしている会話を日本語に訳していない。なのにどうして会話を理解出来たのだろうか。まさか、コジマは実は英語を理解することができ、ずっと日本語しか話せない人を演じていたということか?となると、今までの前提が大きく変わってきてしまう。英語で取っ組み合って口論も出来る。
では、なぜコジマは今回の殺人事件で自分は無罪なのに罪を被ろうとしたのだろうか。普通の人間なら、自分がやってもいない罪を被りたくないはず。これはコジマがこの殺人事件ではなく、もっと大きい罪を背負っているからに違いない。
カチンスキー警部はハッとする。テキサス州の17人の殺人事件の犯人の似顔絵とコジマが似ていることに気が付かなかった。そして、そのうちの一つの殺人事件は老人が殺された場所の近くで起きている。

コジマは再び部屋に戻ってくる。お互いに拳銃を向け合っている。コジマは実は生まれがロンドンで英語が話せたことを明かす。そして10歳のときに指宿に移り住んだのだと。しかしコジマはずっと指宿警察でバカにされてきた。鹿児島弁が変だったから。そしてコジマは、スティーブ日高に、お前の鹿児島弁も変だと言い捨てて部屋を後にする。カチンスキー警部は追いかける。
スティーブ日高は落ち込む。なんで最後に鹿児島弁を叱られないといけないのかと。今回、初めて通訳という立場で仕事をしたけれど、自分ではかなり上手くやったはずだと自画自賛していた。なのになんでこんな目に遭わないといけないのだろうかと。
その時、外から銃声が聞こえる。どちらかが撃たれたのだろうか。部屋にカチンスキー警部が入ってくる。コジマはアルマジロの尿で足を滑らせて井戸に落ちたと言う。
カチンスキー警部は最後に、どうして自分がニューヨークからオデッサに来ることになったのかというと、酒で酔っ払って拳銃とパトカーを無くしたからだと言う。パトカーまで無くしたのかとスティーブ日高は驚く。
スティーブ日高は、「poem motel logic china armadillo outsider relax」とアルファベットしりとりを一人でする。
ここで上演は終了する。

非常に論理的に作られ計算された密室会話劇で驚かされた。まさか、最後のどんでん返しでコジマが英語を話すことが出来て、17人の殺人事件の犯人だったとは思わなかった。しっかりと序盤で17人の殺人事件も起きているとさらっと述べられていたが、こうして伏線になるとは思いもしなかった。さすがは、三谷幸喜さんの脚本だと思った。
身振り手振りによって、全てが違う解釈を出来てしまうという計算されたシチュエーションはあっぱれだった。殺人のシチュエーションが蕎麦を打つシチュエーションと重なるとは見事な設定だった。
また、要所要所に登場する小ネタも面白い。chinaが中国人ではなく陶器だったというオチもなかなか考えさせられるし上手いなと思った。また、3人の登場人物のキャラクター設定も上手く描いていて、その背景にヒューマンドラマとして感情移入してしまう。スティーブ日高は、自分探しをしている青年で自分とも歳が近そうだから共感する心情は沢山あったし、カチンスキー警部も両親の存在や過去の失敗なども明かしながら自分を語っていたので、人間性が窺えて会話劇に聞き入っていた。コジマも本当は可哀想な人だったのだなと思った。

写真引用元:ステージナタリー 「オデッサ」より。(撮影:宮川舞子)


【世界観・演出】(※ネタバレあり)

密室会話劇なので、そこまで舞台セットの転換のような大きな仕掛けはないのだが、映像を使った未だかつて観たことのないような演出手法によって、非常に趣向の凝らされた舞台美術だったように感じた。
舞台装置、映像、舞台照明、舞台音響、その他演出の順番で見ていく。

まずは舞台装置から。
ステージは一面がダイナーの巨大な一室になっていて、いかにも古い感じの西部の屋敷の一室といった印象である。
下手側には外へと通じる扉があって、デハケとなっている。ステージ中央には巨大なダイニングテーブルが置かれ、そこにカチンスキー警部とコジマが座って尋問することになる。上手側には、一段階段を上がって、廊下へと続く扉が設けられている。
ステージの奥側に下手から上手まで一枚の巨大な壁面が仕込まれている。こちらには特に何か装飾が施されている訳ではなく、映像を映し出すためのスクリーンになっている。映像が多用されるシーンでは、この壁面は少しだけ前方に移動出来るようになっている。
個人的には、もう少し小さめの劇場でも十分成立出来る作品だと思ったし、無駄に横幅が広すぎる舞台装置になってしまったのが勿体なかったかと思った。あれだけ横幅があれば、もう少し工夫の余地もあったような気がした。
アルマジロの小道具も面白かった。丸い球体みたいなものが玄関から入ってきて、最初は一体なんだろうと思ったがアルマジロの可愛らしさは、舞台空間を良い意味で和ませてくれた。

次に映像について。
基本的には、カチンスキー警部やスティーブ日高が話す英語の日本語訳が文字として映像に投影されていた。基本的に黒字に白色の字幕だった。
字幕の出し方にも色々工夫が凝らされていて、例えば事件の概要を英語で長々と説明する時は、スターウォーズの最初のシーンのように前置きを斜めに文字が移動する感じで流していく工夫が面白かった。また、英語本文を映像に投影させることによって、観客に訳させて内容を楽しませる工夫も一部のシーンではあって、そういったバリエーションの豊富さも観客を飽きさせない工夫のように感じた。
カチンスキー警部が子供と実施している、アルファベットのしりとりを映像を使って表示させるのも上手いと思った。そこにスティーブ日高が小難しい筋肉の英単語をぶちこんでくるので、そのインパクトも映像を通じて誇張されていて良かった。
また、五七五だったり、文字のフォントを変えることによって、英語音声が出す味を視覚的に変換している点も面白かった。
一方、文字を投影する訳ではない映像も一部使用されていた。例えば、コジマが最後に井戸に転落したシーンを映像で映し出すのはインパクトあって良かった。アルマジロの尿で滑ったのを映像で表現していて面白かった。
また客だし時の映像も、あの煌々と輝く照明のような映像と「odessa」の文字がとても眩しくて好きだった。

次に舞台照明について。
密室会話劇なので、基本照明は変えなくて良いのではと最初は思っていたが、上手く遊びを入れて見栄え良くした照明演出が素晴らしかった。
例えば、コジマが殺人を犯すシーンの再現ではシリアスな感じで全体的に青く、そしてコジマに白くスポットを当てたり、カチンスキー警部とスティーブ日高が抱きしめ合うシーンで二人に白いスポットを当てたりと、印象的なシーンにはしっかりと照明演出を盛り込んでいる点に遊び心を感じた。
客だしで、こんなにカラフルな照明も仕込んでいたのだと思うくらい、紫やら黄色やらの照明を舞台装置の上部に仕込んでいて驚きだった。照明演出へのこだわりを強く感じた。

次に舞台音響について。
音響は、なんといっても荻野清子さんの生演奏。ピアノのあの感じを生で聞けるのは、それだけで作品への没入度が変わってくると思う。特に、開演時のピアノの伴奏が素敵だった。
あとは銃声だったり、電話越しの音声だったりと効果音も多かった。
またナレーションも多かった。最初の横田栄司さんによるオデッサの概要説明はとても印象に残ったし聞き入ってしまった。凄く聞き取りやすくて雰囲気も出ていてハマり役だった。

最後にその他演出について。
なんといっても、英語と鹿児島弁が入り乱れる感じが聞いていて楽しかった。この作品を鹿児島県出身の方が見たらどう思うだろうか。やはり鹿児島弁に非常に近い発音なのだろうか。スティーブ日高が、非常に外国人が日本語を話すかのような日本語だったので、鹿児島弁というのはこんなにイントネーションが異なるものなのかと思った。
カチンスキー警部は英語しか話せない設定だが、コジマがいなくてカチンスキー警部とスティーブ日高の二人のシーンでは日本語を思いっきり話しているので、これは英語で会話をしているという体で良いのだろうか。シーンによって英語を英語のままで話していて、英語を日本語にしていると考えられるシーンもあって多少混乱した。
けれど、コジマがりんごは塩水ではなく砂糖水に入れた方がいいと言った時はすぐに変だと感じられた。周囲の観客でもざわめいていたので、皆「おやおや」と気がつけるようになっているのは凄く計算されているなと感じた。
そして、ラストにスティーブ日高は、カチンスキー警部が子供と遊んでいるアルファベットのしりとりを一人でやって上演終了する。アルファベットしりとりのルールは、最後に7文字のアルファベット且つ最後に「x」で終えるというものがあったが、スティーブ日高がラストにつぶやいたアルファベットは「relax」だった。たしかに「x」では終わっているが、7文字というルールにはなっていない。つまり、このしりとりはまだ続いているということだと思う。それに映像でも最後の「x」が赤色ではなく青文字だったことも終わっていないことを暗示しているように思う。それは、個人的にはまだこの物語には続きがあるということの暗示かなと思う。恐ろしい結末だとコジマはまだ生きていて、捕えることは叶わずまだ人殺しをし続けるという続き、もう一つはスティーブ日高とカチンスキー警部の関係もまだ終わっていないという続きかもしれない。いずれにせよ、含みのあるラストに感じられて面白かった。

写真引用元:ステージナタリー 「オデッサ」より。(撮影:宮川舞子)


【キャスト・キャラクター】(※ネタバレあり)

三人芝居でしたが、今回の出演者はテレビでは観たことがあったけれど、舞台で演技を観るのは初めての方ばかりだったので、生で観られただけでもとても感動した。さらに、皆それぞれに個性があってとてもハマり役で演技ももちろん素晴らしかった。
三人それぞれについて記載していく。

まずは、留学中の青年であるスティーブ日高役を演じた柿澤勇人さん。柿澤さんはミュージカル俳優の印象が強い一方で、三谷幸喜さん脚本の『鎌倉殿の13人』では源実朝役を演じられるなど三谷さんとも親睦が深い印象があった。
あまり柿澤さんの演技をしっかりとは観たことがなかった私にとって、こんなにも爽やかな青年なのだと改めて感じさせられた。三谷さんの脚本なので当然でもあるのだが、こんなにも人を笑わせる芝居も上手いのだなと痛感させられた。
スティーブ日高は、凄く意識高い系の大学生っぽいなと感じさせてくれる。僕が大学生時代に、特に就職活動をしていた時もこんな感じの大学生沢山いたなという印象だった。英語も日本語も流暢に話せて非常に頭が良いと思う。ましてや、コジマを助けるべくその場でひらめいて嘘の通訳が出来てしまうくらいなので、相当頭が良くないと達成できない難題をこなしている。そういった器用さ、頭の良さを凄く感じさせてくれる一面があってとてもハマっていた。
一方で、スティーブ日高は自分探し中の大学生でもある。こうなりたいみたいな夢は特に持っていなくて、自分探しのために留学している感じもある。大学生にいっぱいいそうなキャラクター設定で親近感があった。だからこそ、何か目標を持って仕事をしているカチンスキー警部のような存在に魅力を感じるのかもしれない。
早く世間から認められたいという気持ちもスティーブ日高からは十分に感じ取れた。特にラストで、一人ダイナーに取り残されたシーンで、自分は結構通訳頑張って上手くやったのに(誰も褒めてくれない)、といじけている場面があった。あの時のスティーブ日高の心境にグッときた。
そんな誰もが共感しそうな青年を上手く演じ切っていて、柿澤さんはハマり役だったし見事だと感じた。こんな演技を観てしまうと、逆にミュージカル俳優としての柿澤さんを想像できなくなってしまうので、今度はミュージカルで柿澤さんの演技を観てみたいと感じた。

次に、カチンスキー警部役を演じた宮澤エマさん。宮澤さんも『鎌倉殿の13人』で北条政子の妹である実衣役で出演されていたことから、三谷さんとゆかりのある俳優というイメージだった。
カチンスキー警部は、もちろん英語しか話せない警部なのだが、それ以外にもしっかりと人間性を丁寧に描いているから面白かった。母親が日本人で弁護士をしており、父親がアメリカ人で警部をしていたというカチンスキーは、日本人の母親とは険悪の関係だった。だからこそ、弁護士になるという選択肢も取りたくないし、日本で仕事をするという選択肢も取りたくなかった。父親を尊敬しているように感じて、カチンスキー警部が警部であるのも父親の後を継いだからというのがあった。それくらい父親とアメリカ、そして警部という職種を愛しているように感じた。そういう点でもスティーブ日高は、自分とは正反対で夢と目標を持っているカチンスキーに惹かれたとだと思う。
しかし、私は物語が進んでいくうちに気がついたのだが、カチンスキー警部は全く仕事の出来ない警部だなとも感じた。ニューヨークで最初勤務していたが、酔っ払ってパトカーと拳銃を無くしてしまったり、17人連続殺人の指名手配犯の似顔絵を見ているはずなのに、ずっとコジマがその犯人とよく似ていることに気がつかなかったり、とにかく抜けている所が多い。だからオデッサという小さな町の警部に左遷されてしまった訳だが。また、なんでも器用にこなすスティーブ日高のことも自分と正反対で嫉妬の対象だったのかもしれない。そんなキャラクター性が凄く好きだった。
劇中、唐突にスティーブ日高とラブストーリーのように惹かれあっていく点にはちょっと違和感を感じた。たしかに正反対の二人だけれど、抱き合ったりするのかなとは思ってびっくりした。
しかし、宮澤さんが発する流暢な英語がこれでもかというくらい劇場に響き渡っていて素敵だった。日本語の劇で、あそこまで英語を英語として劇中で展開させた演劇に出会ったことがなかったので、非常にインターナショナルな舞台演劇だと思ったし、新規性のある演出と演技で非常に良かった。

そして、コジマカンタロウ役を演じた迫田孝也さんも素晴らしかった。迫田さんも『鎌倉殿の13人』に源範頼役で出演されていて、やはり三谷さんとゆかりのある俳優であることに加え、TBSドラマ『VIVANT』にも出演されていて今人気のある俳優の一人なんじゃないかと思う。
迫田さんは割と面白い役を演じてくれる俳優のイメージだったが、今作では犯人役として不気味さ、怖さのある味のある演技が印象的だった。
コジマもキャラクター設定的に恵まれない人生を辿っている人物である。ロンドンに生まれて、鹿児島の指宿で警察官として働くも、イギリスで生まれ育ったということがあって苦労し、それで出世出来なかったりして鹿児島への恨みはあったと思う。だからこそ、スティーブ日高の鹿児島弁も気に入らなかったのかもしれない。自分だったらもっと上手く話せるぞと。
世間的に報われない人生を送ってきたから連続殺人犯になってしまったというのは、どこか映画『ジョーカー』を想起させるし、だからこそずっと不気味な胸糞悪さをコジマには感じさせられるのかもしれない。
そんな悪人的なキャラクター設定ももちろんハマっていたが、今度迫田さんの演技を観るときはもっと笑えるコメディよりな芝居も期待したいなと感じた。

写真引用元:ステージナタリー 「オデッサ」より。(撮影:宮川舞子)


【舞台の考察】(※ネタバレあり)

ここでは、今作で扱っている「言語」に着目して考察していきたいと思う。

個人的には、私はこの作品は一つのミステリー・サスペンスとして万人ウケしやすい作品だと感じて面白いと思ったのだが、公演パンフレットを読んだ限り、三谷幸喜さんの意図としては、ただのミステリー作品として仕上げるのではなく、テーマは「言語」についてだと述べられていた。
当初は、太平洋戦争の戦時中に中国の山村で、戦争を避けるために日本語と中国語を話せる通訳者が嘘をつくという設定で構想があったそうで、それが紆余曲折あって今回のような日本語と英語の通訳の会話劇で着地したのだそうである。そのくらい、今作を描こうという根幹は、決してミステリーがメインではなく「言語」の壁とヒューマンドラマであったことが窺える。

今作は、決して物語を駆動する大きな要素ではないけれど人種差別に関連する描写が登場する。例えば、コジマは元々ロンドン生まれで鹿児島指宿にやってきて警官として働くも、生まれ育った言語の違いで出世出来なかったりと苦しい思いをさせられる。スティーブ日高は、プールで見かけた看板を「china」と「dog」は侵入禁止と書いてあって中国人はプールに入れないと勘違いした。さらに、字幕で表示される文章の一つに「one day」から始まるものがあって、キング牧師のスピーチを想起させるものがあったりした。
人種差別というのは、もちろん肌の色によって差別されるというのもあるかもしれないが、言語の違いによって生じる差別もあると思う。もちろん、差別する側は差別しているつもりはなくても、その言語を話せない、分からないというディスコミュニケーションが両者の関係を悪化させて差別に発展することもあると思う。

今作でヒューマンドラマとして登場する人種差別というのは、むしろそういう言語の違いによって生じる人種差別だと思った。多くの人は人種差別というと、肌の色で差別をしたりするものを指しているイメージがあって日本人には無縁なのではないと感じてしまうかもしれないが、実際はそうではなくもっとわかりにくい部分、というかもっと日常的にひっそりと眠っているからこそ気が付きにくいと思うし、差別しているという自覚がない所から芽生えるものなのかもしれないなと感じた。
例えば、日本国内の集団で、一人外国人がいたとして、その外国人がちょっとした文化の違いや言語の違いで日本人にとって「おやおや」と感じる仕草をした時に、それを他の日本人たちがどう振る舞うかによって、その外国人が今後も日本人の集団に居続けることができるかできないかが決まってくると思う。もし、その時の日本人の振る舞いによっては、外国人を傷つけてしまい、その集団にはいづらいと感じさせてしまったら、それは小さな人種差別になるのかもしれない。

そういった言語の壁によって肩身が狭く感じる経験は、世界中至る所に眠っていると思う。私は今作を観劇しながらそんなことを感じた。
今作でも明確な酷い人種差別が描かれている訳ではない、人の肌の色で判断するような描写は特段出てこない。しかし、それでもコジマやカチンスキー警部のように言語の壁や複数の国を渡り歩いてきたが故の悩みや葛藤が垣間見られる。でもそういったヒューマンドラマにこそ、小さな人種差別が眠っていてそこを深く理解していくことが今後は重要なのではないかと感じた。

しかし今作で描かれるのは、言語の違いによる負だけでなく、言語が違うからこそ楽しめる一面もあることを字幕を使って教えられたような気がした。たとえば、日本語でいえば短歌や俳句といった言葉遊び、英語でいえばアルファベットでの言葉遊びである。言語が違っても、そういったコミュニケーションで距離を縮めることができることを教えてくれたような気がした。

一つの密室会話劇として、ミステリー・サスペンスとして面白い舞台だったが、あとで公演パンフレットを読みながら色々振り返ってみると、また違った面白さが作品には眠っていたので、深く味わえる舞台作品としても面白く、これぞ舞台観劇の醍醐味だなと思った。

写真引用元:ステージナタリー 「オデッサ」より。(撮影:宮川舞子)


↓三谷幸喜さん作演出作品


↓三谷幸喜さん演出作品


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