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舞台 「掃除機」 観劇レビュー 2023/03/11


写真引用元:KAAT神奈川芸術劇場公式Twitter


公演タイトル:「掃除機」
劇場:神奈川芸術劇場 中スタジオ
劇団・企画:KAAT神奈川芸術劇場プロデュース
作:岡田利規
演出:本谷有希子
音楽監督:環ROY
出演:家納ジュンコ、栗原類、山中崇、俵木藤汰、猪股俊明、モロ師岡、環ROY
公演期間:3/4〜3/22(神奈川)
上演時間:約85分
作品キーワード:8050問題、親子、引きこもり、モダン、考えさせられる、社会問題
個人満足度:★★★★★★☆☆☆☆



「チェルフィッチュ」を主宰する岡田利規さんが書いた戯曲が2019年12月にドイツ・ミュンヘンでドイツ語として上演され、好評を博した作品を、日本語版として世界初上演ということで観劇。
演出は、岸田國士戯曲賞の受賞経験もある本谷有希子さんが担当している。

物語は、「8050問題」を題材として扱った引きこもりの娘と高齢の父親、そして息子の話である。
「8050問題」とは、長年引きこもる子供とそれを支える親などの論点から2010年代以降の日本に発生している高年齢者の引きこもりに関する社会問題(wikipediaより引用)を指す。
大学生の時に経験したことをきっかけとして、それ以来自宅にずっと引きこもるようになってしまった娘、彼女は仕切りに自分の部屋に掃除機をかけるが、その掃除機のノイズが親に対する怒りのようにも捉えられて、ずっと父親との間に心の溝があって、そんな状況を父親がラジオ番組で相談するという展開になっている。

演出は、序盤に登場する「掃除機」の視点によって描かれる構造となっている。
ラッパーの環ROYさんによるモダンな音楽と効果音によって、掃除機の効果音や生活音が舞台上に響き渡る。
舞台装置も、まるでスケートボード競技に登場するアールのようなカーブのある壁面が用意されていて、その斜面に絨毯や椅子、テレビ、ベッドなどが取り付けられた、かなりモダンでユニークな舞台美術だった。

岡田さんの戯曲らしく、作品の中に登場する台詞は非常に口語的且つ脱力感のあるゆるっとした独特な文調である。
しかし岡田さん演出ではないからか、役者がゆらゆらと独特の身体表現をするような演出はなく、役者たちは至って普通の演じ方をしていた。

ドイツでも上演されたというのもあって、舞台美術や衣装は、日本でも欧米でもありえそうなカジュアルなものだった。
オレンジをベースとした照明効果もあって非常にカラフルで綺麗なのだが、そこには現代社会の冷徹さを感じさせる。
劇中に登場する、カーシェアリングや倉庫の従業員の話もあって、「8050問題」と通じるような効率化を求められすぎた社会だからこそ、自由もなくなって貧富の差も激しくなっているという辛い現実を感じさせるものがあり、ずっと何とも形容し難い感情にさせられた。

役者陣は皆素晴らしかったが、個人的には掃除機の役だと思われる栗原類さんの空虚で単調な喋り方と、環ROYさんのラップ調で社会に対する不満をぶちまける喋り方が好みだった。

また過去作品では決して出会ったことがないような、何とも説明のし難い舞台作品に出会ってしまった。
エンタメのように決して興奮させられるような楽しい観劇体験にはならなかったのだけれど、色んなことを考えさせられるし凄く新鮮でかつ刺激的な時間を満喫出来た。
気になる方は、ぜひ劇場でこの作品が放つ魅力を堪能して欲しい。

写真引用元:ステージナタリー KAAT神奈川芸術劇場プロデュース「掃除機」より。(撮影:加藤甫)


↓戯曲『掃除機』


【鑑賞動機】

岡田利規さんが手掛けた戯曲であるということと、ドイツでも上演されている舞台作品であることに非常に興味を惹かれた。ドイツでも評価されている舞台作品とはどんなものなのだろうという興味本位である。
それから、「8050問題」を題材としているという点も、個人的に考えさせられる主題で興味を持ったのも観劇の決めて。


【ストーリー・内容】(※ネタバレあり)

ストーリーに関しては、私が観劇して得た記憶なので、抜けや間違い等沢山あると思うがご容赦頂きたい。

男(栗原類)が、スケートボードにうつ伏せになって転がしながら登場する。自分は掃除機であるという。掃除機は色々なゴミを吸い取るが、意図しないものも吸ってしまう時がある。ヘアピンや小さめの靴下などがそうである。常に下を向いていて、下からものを見ているからこそ見えるものがあるという。

ベッドにずっと引きこもった女性(家納ジュンコ)は、自分のことを独白で語る。大学生のときの経験がきっかけで、それっきりずっと家に引きこもるようになったと言う。トイレの扉に貼ってあった世界地図は、ソ連の部分だけが茶色く塗られていた。きっと、ソ連の面積が他のどの国と比べても広かったから茶色く塗ったのだろう。ずっとベッドで寝たきりでいると、天井の木目がムンクの叫びのように見えてくると言う。
Yシャツを着た男性(山中崇)が立っている。彼は、おそらく会社員でこれから会社に向かう所なのだろう。Yシャツをズボンの中にシャツインしている。でも彼は、そのシャツインがどうも気に入っていないようであった。たしかにシャツインしていた方が、シャキっとしているようで印象は良いのだろうが、なぜシャツをインしなければいけないのかと独白していた。

座椅子でずっと新聞を読んでいた父親(モロ師岡)が独白する。まるで娘に語りかけるかのように、いとこが結婚式を挙げたホテルの近くの珈琲店の話をする。その店ではイチゴの風味のコーヒーを店内で飲むことが出来るのだと。その独白では、3人の父親(モロ師岡、俵木藤汰、猪股俊明)が同じ格好をして、代わる代わる演じていた。

父親は、ラジオ番組にお悩み相談を投稿する。妻とは既に死別していて、娘と息子の二人がいるが、娘はずっと自宅で引きこもっている。娘は頻繁に自分の部屋に掃除機をかけるのだが、その掃除機のノイズが娘の怒りのようにも感じられて、ずっと娘に恨まれているのではないかという相談だった。
その相談内容を父親が読み上げている時も、女性はずっと掃除機をかけていた。
その間、Yシャツ姿の息子はAmazonの箱などの配達物を手にして帰宅していた。息子がAmazonの箱をビリビリと開けるタイミングと、娘が父親に対しての怒りを顕にして攻撃するタイミングが一致するように進行した。また、息子がAmazonの袋のゴミを丸めて押しつぶすタイミングも、娘が枕で父親を窒息させようとするタイミングと一致するように進行した。これは、あくまで父親の妄想であるが。

Yシャツ姿の息子が、片手にスマホを持って録画しながら、自分の友人がサンパウロに旅行に行った時のことを話す。友人は、サンパウロにある街路樹に惹かれた。地球の反対側のブラジルにある、サンパウロの街路樹は、日本の区画整理されて舗装された道に植えられている街路樹よりも、自由に見えたと言う。
父親が登場する。父親は散歩していると、カーシェアリングの店に通りかかった。しかし、最近では車をレンタルして、その車の中で宿泊する人が増えているのだと聞く。カーシェアリングで車をレンタルして寝泊まりすれば、ネットカフェで一夜過ごすよりも安く済ませられるからである。座席を一番奥まで倒せば、車の座席はベッドのように使える。父親がこうやってカーシェアリングの店を通りかかった今も、停車しているレンタカーの中には、座席で眠っている人がいるのかもしれないと言う。

ずっと音響卓にいたラッパー(環ROY)がステージ上にやってくる。
彼は、某大企業の巨大倉庫の従業員として働いた時のことを話す。月曜日から巨大倉庫の従業員になって4日間働いたが、誰とも話す機会なんてなく、ほとんど友人を作ることも出来なかった。熱帯雨林と呼んでいる機械から受ける司令に従って商品を探して渡し、また次の司令が来るので探して渡しの繰り返しだった。だから機械ではあるけれど、熱帯雨林と親しくなっていった感じだった。
彼の我慢の限界は、月曜から働き始めての木曜日の4日目だった。彼は、熱帯雨林をボコボコに殴って壊してしまって辞めた。4日分働いて得た給料以上の損害賠償を請求された。しかし、悔しいのはそんなことではなかった。4日間もこのクソみたいな環境で働いてしまったということの方が悔しかった。

Yシャツを着た息子は、家出した。Yシャツのシャツインを辞めて、シャツ出しして。そして空いた息子の部屋に彼の友人(環ROY)が住み着いた。
娘は、下の部屋から聞こえてくる会話に辟易した。父親と親戚のおじが、家庭環境のことについて口論しているようである。家庭環境がこうなってしまったのは、親の子供に対する育て方の問題だと。
父親の声が聞こえる。親戚が来ているから下へ降りて来なさいという命令形だった。娘はそれでもずっと布団の中にいた。父親がやってきて、カーテンを開けて布団を剥がす。娘は、「私に太陽の光なんて必要ない!」と叫ぶ。
娘は、ステージ上にある様々な家具を片付け始める。絨毯、座椅子、ゴミ箱など、しかしテレビとベッドは引っ張っても取れない。娘は壁をよじ登ろうともがく。

息子はが独白を始める。今も夢で実家が出てくるという。決して戻りたいという訳ではないけれど、ずっと記憶にこびりついている。実家の壁をピンク色(あともう一色あった記憶だが忘れた)のペンキで色を塗る夢を見たと言う。
掃除機は、息子の友人と二人でいる。息子の友人は、ずっと家の中に閉じこもってないで外に出た方が視野が広がっていいんじゃね、みたいなことを言う。
ここで上演は終了する。

掃除機が登場したり、登場人物も名前を明確に劇中で登場させる訳でもなく、父親も3人同じ格好をして少し台詞の言い方が異なる演出で登場する独特な展開。きっと両親が娘に色々と詰め込み教育をさせてしまったせいで、大学生のときに人間関係でトラウマになる何かがあって、それっきり娘は引きこもってしまったのだろう。ずっと家の中に引きこもって親を恨み続ける娘と、ずっと引きこもる娘に腹立ちながら、自分たちの育て方を省みる父親。社会という規格化、効率化された世の中に適応しなければ生きてはいけないという現実と、適応出来なければカーシェアリングのレンタカーで寝泊まりしたり、引きこもったりするように、社会問題の対象とされてしまう世知辛さが伝わってきた。
しかし、ラストの強いメッセージ性は、それでもしっかり外へ向かっていけば、視野も広がって新しい発見もあるかもしれないというポジティブな終わり方だった。
個人的には、凄く効率化された現代社会をただ批判するだけのような舞台に見えてしまってあまり好きにはなれなかった。もちろん、今の社会にも沢山欠点はあるが、それをただ社会的弱者の視点に立って批判的にメタファーを使って描いているようにしか見えなくて、そんな社会でも明るくポジティブに暮らしている人々だっているし、そういった多面的な描き方をした方が、ストーリーの幅が広がって、個人的には好きになれたような気がする。
また、それをラストの視野を広げようぜ!的なノリで結論付けてしまうのも、ちょっと短絡的過ぎてもっと慎重にテーマを扱ってほしかったと感じた。
ただ、後述するが演出的な意味でのメタファーや、劇中に登場するエピソードはとても好きだったし、そこから想像力も膨らむので演劇的な楽しさを十分満喫出来た気がした。

写真引用元:ステージナタリー KAAT神奈川芸術劇場プロデュース「掃除機」より。(撮影:加藤甫)



【世界観・演出】(※ネタバレあり)

ドイツ・ミュンヘンで初演されたということもあり、日本でも欧米でも通じるような世界観・演出になっていた。また、舞台装置もとてもユニークで、いまだかつて観たことがないような構造になっていた。
舞台装置、舞台照明、舞台音響、その他演出の順番で見ていく。

まずは舞台装置から。
ステージ上には、下手側と上手側と中央奥に大きく3つのスケートボード競技のアールのようなカーブのある巨大な壁面がある。下手側のアールには、一番天井に近いエリアにはベッドが設置されていて、アールの壁面にくっついているので、客席からはベッドの上の天井から見下ろしているかのように見える。ベッドの中は、布団の中に入れるようになっていてアールには穴が開けられていてデハケのようになっていたようである。その横には、ゴミ箱が設置されていて、舞台終盤で撤去される。ベッドは娘のものなので、基本的には彼女がそのエリアに居候していた。
上手側のアールには、天井付近にはテレビが設置され、それより下部には絨毯と座椅子が設置されていた。絨毯と座椅子は舞台終盤で撤去されていた。座椅子には序盤は父親が座っていた。
ステージ中央奥のアールには、洋服をかけるスタンドが設置されていた。これも舞台終盤になると撤去される。このエリアには、基本的にはYシャツの息子とその友人が基本的には立っていたエリアになる。その上手側奥には、環ROYさんによる音響卓スペースがあって、そこから様々な効果音を流していた。
舞台空間全体が、スケートボードの競技のアールのような感じで、非常に西洋モダンな作りになっていた。この辺りの舞台美術も、欧米で上演されたものを踏襲しているのだろうか。あまり日本で舞台作品を観劇するときにはお目にかかれないようなテイストの舞台装置だった。
また、終盤のシーンで娘が上手側のアールをよじ登ろうとする、つまり必死で引きこもりの状態から脱出しようともがく様子を描いているのだが、たしかに他の方の感想にもあった蟻地獄のように感じた。一度陥ったら、そこから脱出するのは極めて難しいようなさま。引きこもりになってしまったら、そこから社会復帰することの難しさを蟻地獄に例えた舞台装置は、なかなか皮肉が聞いていた。

次に舞台照明について。様々な種類の照明器具が吊りこまれており、それを上手く使いこなして演出している部分に凄みを感じた。
まず、ステージを客席以外の三方に囲うように蛍光灯のような横に細長い照明を仕込んでいた。それから、ステージ真上にはサスペンションライトだけではなく、一つのオレンジ色に光る巨大な照明や、豆電球のような照明など様々見られた。
照明演出には様々に工夫があって、基本的にはオレンジ色でステージ上が照らされるシーンが多かったと記憶しているのだが、シーンによってはブルーになったり、暗転に近い状態になったりと様々だった。
それと、栗原類さんの掃除機が乗ってくるスケートボードが白く光る演出も素敵だった。モダンな演出イメージを強く受けた。
あとはラストで、黒いカーテンが開いて、日差しが劇場に差し込む演出も良かった。やっぱりずっと引きこもっていないで、外へ出て視野を広げる重要性を強調するかのような演出だった。
今作の戯曲には、「太陽」という言葉が象徴的に登場する。ずっと引きこもりっぱなしの娘にとって、「太陽」は関係のないもの。引きこもりにとって、昼間や夜間という概念は存在しない。しかし、引きこもりから復帰するには向き合わないといけない存在(昼間の太陽が昇る時間帯に働くから)である。それをオレンジの照明や、外からの日差しの差し込みまで演出に加えて、上手く明暗と娘の引きこもりをリンクさせながら上演されていたように感じた。

次に舞台音響について。
まず客入れの音楽がモダンな洋楽で好きだった。アーティストが誰かとか分からなかったけれど、舞台装置のユニークさと相まって客入れの時間は、一体舞台上でどんなことが始まるのだろう?というワクワクが高かった。こんなに客入れ時にワクワクさせてくれる演出もそうそうない。
劇中では効果音のみ登場する。「ブイーン」と非常にリアルな掃除機の音、ダイソンの掃除機かなと勘ぐってしまった(今作と親和性高そう)。あとは、外から聞こえてくる子供たちがはしゃいでいる物音、それから車が走行する日常音。
また、環ROYさんがDJとなって流しているエレクトロサウンドによる効果音たち。非常に岡田利規さんっぽい演出に思えた。以前観劇した『未練の幽霊の怪物』(2021年6月)や、木ノ下歌舞伎の『桜姫東文章』(2023年2月)に似た音響演出だった。
タイピングの音のような生活音も印象的だった。

最後にその他演出について。
まず印象に残ったのが、父親役をモロ師岡さん、俵木藤汰さん、猪股俊明さんの3人で演じられていた点である。シーンによっては3人同時に同じ台詞を口ずさんだり、またあるシーンによってはそれぞれが演じるパートを分けていたりと面白い演出だった。基本的には父親の台詞に関しては三人称で描かれていたということは、娘、息子、掃除機の視点でそれぞれの父親を登場させていたということだろうか。ちょっと、3人で演じる意図までは掴みきれなかった。
舞台装置が抽象度の高いものなので、基本的には役者から発せられる言葉から情景を想像しながら観劇しないといけない。そのため、ちょっと台詞を聞き逃すとすぐに置いていかれてしまう点は集中力を要する舞台だったかなと思う。

写真引用元:ステージナタリー KAAT神奈川芸術劇場プロデュース「掃除機」より。(撮影:加藤甫)


【キャスト・キャラクター】(※ネタバレあり)

皆それぞれの個性を発揮させた演技が素晴らしく思えた。
印象に残った役者さんについて触れていく。

まずは、掃除機役を演じた栗原類さんが素晴らしかった。栗原さんの演技は、『未練の幽霊の怪物』(2021年6月)で一度拝見している。
栗原さんは非常に味のある独特な演技をされる。今回も、かなり空虚な感じの良い意味で棒読みな台詞の言い回しに、なんとなく掃除機という機械らしさを感じた。そして、物凄く栗原さんは声に覇気があるからしっかりと台詞が心に響いてくる。
序盤の栗原さんの掃除機としての独白を聞きながら、たしかに掃除機の視点に立って物事を考えたことがなかったなと早速新鮮な体験をした。ものをずっと下から見続けている。ヘアピンや靴下などの意図しないものも吸い込んでしまう。なぜだか全くわからないけれど、非常に印象に残る台詞だった。

次に、娘役を演じていた家納ジュンコさん。家納さんの演技を観たのは今回が初めて。
ずっと家に引きこもってきたからこその、内々に秘めた世間や親への怒りみたいなオーラを感じさせる存在感と演技が素晴らしかった。風貌もいかにもといった感じがあって、突然強い口調で怒り出す感じも、癇癪を起こす感じが凄く引きこもりの自分の中でのイメージと合っていた気がした。

息子役を演じていた山中崇さんも素晴らしかった。
シャツインした姿も凄く印象に残るし、Amazonのダンボールの箱を解体するあたりも印象に残る。
個人的には、サンパウロの街路樹のくだりの独白が好きだった。凄く想像も膨らむし、きっとサンパウロと言っただけで、観客は色々なビジュアルイメージを想像すると思っていて、そういった余白の残し方も好きだった。

今作で強力な印象を残してくれたのは、ラッパーであり俳優の環ROYさん。
前半まではずっと音響卓でDJをやっていたので、そんな立ち位置なのかと思っていたが、某大企業の巨大倉庫で働く従業員の独白からステージ上へ登場する。その倉庫の従業員の社畜のエピソードがなんとも辛辣でずっと聞き入ってしまった。それだけインパクトがあった。
ラッパーという職業を意識した独白が興味深い。ラップ調でリズムよく情景を語る感じが、非常に岡田さん調の戯曲には合っている上、環さんの発声って物凄く力がこもっていてはっきりしているから、そこから従業員の社会への鬱憤も感じられる。それが絶妙に絡み合って物凄いシーンが作り上げられていて素晴らしかった。一番集中力高く観劇していたシーンかもしれない。

写真引用元:ステージナタリー KAAT神奈川芸術劇場プロデュース「掃除機」より。(撮影:加藤甫)


【舞台の考察】(※ネタバレあり)

ここでは、ドイツ・ミュンヘンでも上演されたということを考慮して、「8050問題」という社会問題に触れながら今作の考察をしていきたいと思う。

「8050問題」は日本で深刻化している社会問題だと思っていたが、ミュンヘンでも好評だったということは、きっと日本だけでなく先進国が抱える共通した課題なのだということを知った。それは当たり前かもしれない。資本主義が進んでIT化が図られ効率化が進めば、それはただただやみくもに頑張れば評価される時代ではなくなってくる。だからこそ、そんな能力主義な社会でやっていけなくなる人々もいるということなのだろう。これは、日本に限らず先進国共通であろう。だからこそ、今作が主張するテーマというものが、世界でも評価されたのだろう。

私が今作を観ていて面白いなと感じたのは、掃除機の視点から「8050問題」に陥った家族を見つめている点である。掃除機というのは、たしかに床面に吸い取る部分があるので、そちらが掃除機を擬人化したときの視点になるのであろう。そうすると、どんなものも下から上を見るようになる。これは、社会というものを社会的弱者が見つめるという点ともリンクするのかもしれない。
社会的弱者からすれば、この効率化された現代社会というものに乗っかることが出来ず、ただただ引きこもる他はない存在である。だからこそ、今作では現代社会というものをかくも批判すべき対象として描いているのかもしれない。
この社会的弱者というのは、劇中に3人、いや4人登場する。一人目は、引きこもりの娘、二人目は無職になった息子、三人目は掃除機である。掃除機も先述したように下から上をみる機械かつ、人間にこき使われる存在として社会的弱者とも今作では捉えられるであろう。そんな三人の存在から、父親がそれぞれの立場で三人称として三人の役者で描かれる。

四人目は、息子の友人の某大企業の巨大倉庫に勤めていた友人である。某大企業というのは、間違いなくAmazonのことを指していると考えられる。劇中にそれ以前のシーンで息子がAmazonの箱を持っているシーンがあったり、友人が機械のことを「熱帯雨林(=アマゾン)」と呼んでいたことからもそう断言出来る。友人もAmazonという大企業に搾取された存在ということで、社会的弱者の位置付けであろう。
ここで興味深いのが、友人はAmazonで4日間も働いてしまったことを後悔している。働かなければお金は得られない、そのお金を得たいがために大企業の下部として4日間も従事してしまった自分を恥じているのである。ここから、社会を支配するものとその社会に苦しめられる社会的弱者の対比構造が浮かび上がる。
これは、何も友人だけではなく、娘が枕で父親を窒息死させようとするというシーンでの、娘と父親の対比構造も当てはまるし、息子がAmazonの箱を潰しているシーンもその対比構造を反映していると考えられる。Amazonは、もっとも効率化された社会の頂点のような大企業である。

友人のサンパウロでのエピソードも面白い。サンパウロのようなまだ区画整理が未発達な地域では街路樹は自由に生き生きと生えている。しかし、日本のような先進国は完全に効率化、システム化されすぎてしまってそうは感じられない。それは、その国と地域に住む人間たちの自由と生きづらさにも共通するような気がする。
さらにカーシェアリングのエピソードも、レンタカーで宿泊する人々というのは、お金のない社会的弱者である。

そうやって、社会的弱者はたしかにシステム化された社会によって追い詰められ、普通の生活が出来なくなるような社会になってしまっている。しかし、友人がサンパウロの街路樹を目にして発見があったように、ずっと家に引きこもっていないで外へ出てみたら何かしら発見があるかもしれない。だから外へ目を向けようと、そんな物語に感じた。

写真引用元:ステージナタリー KAAT神奈川芸術劇場プロデュース「掃除機」より。(撮影:加藤甫)



↓岡田利規さん脚本作品


↓モロ師岡さん過去出演作品


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