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舞台 「バナナの花は食べられる」 観劇レビュー 2023/07/29


写真引用元:範宙遊泳 公式Twitter


写真引用元:範宙遊泳 公式Twitter


公演タイトル:「バナナの花は食べられる」
劇場:神奈川芸術劇場 中スタジオ
劇団・企画:範宙遊泳
作・演出:山本卓卓
出演:埜本幸良、福原冠、井神沙恵、入手杏奈、細谷貴宏、植田崇幸
期間:7/28〜8/6(神奈川)、8/26〜8/27(福島)、9/15〜9/17(兵庫)、9/22〜9/23(北海道)
上演時間:約3時間10分(途中休憩10分)
作品キーワード:ヒューマンドラマ、ラブストーリー、コロナ禍
個人満足度:★★★★★★★★☆☆


山本卓卓さんが代表を務め、脚本と演出を担当する演劇集団「範宙遊泳」の公演を観劇。
今回上演された『バナナの花は食べられる』は、2021年3月に森下スタジオCスタジオで初演され、第66回岸田國士戯曲賞を受賞した作品の再演となる。
戯曲賞受賞後、今作の初演の映像版がYouTubeで一時期無料公開されていたが、私は近々再演されることを見越して、あえて先に映像版を観ずに観劇することにした。
また、今作は2020年5月から、オンライン上で公演を行ってきたむこう側の演劇『バナナの花』を起点として制作されているのだが、『バナナの花』に関してもYouTubeにアップされているものの、こちらも未見の状態で観劇に臨んだ。
「範宙遊泳」の公演は、2021年12月に上演された『心の声など聞こえるか』に続き2度目であり、山本さんの作品はその他に『となり街の知らない踊り子』(2022年11月)を観劇している。

物語は、2018年春から始まる。彼女もおらず、アルコール中毒で且つ不潔で、個人事業主を名乗ってただ家でグダグダしている廃人状態の穴蔵の腐ったバナナ:通称穴ちゃん(埜本幸良)は、マッチングアプリの「TSUN-TSUN(ツンツン)」に大量のコメントを、しかも男性が女性になりすまして送りつけてきた人物がいることに気が付く。
穴ちゃんは、自分に131通のサクラを送ってきたことから「百三一桜」というあだ名をつけて、彼と対面で会うことになる。
百三一桜(福原冠)と穴ちゃんは、お互い30代前半の彼女もおらず、魅力のない男であることにシンパシーを感じて仲良くなっていく。
そして彼らは二人コンビで探偵ごっこを始めてレナちゃん(井神沙恵)という女性と出会うが...というもの。

そこから時間軸を前後して、2018年以前の穴ちゃんの恋愛話だったり、2020年のコロナ禍に突入していく社会情勢を踏まえて物語は展開されていく。
今まで私は、山本卓卓さんが手がける脚本に対して、世の中の鬱憤みたいなものをどストレートにぶつける点に、ちょっと痛々しく感じることが多くてあまり好きになれない部分もあった。
そのため、今作も岸田國士戯曲賞を受賞しているものの自分の好みにハマるかどうかは自信がなかった。
しかしそんな心配事は杞憂で、今作は非常に面白く感じられて3時間10分全く飽きることがなかった。

まず戯曲賞を受賞しているだけあって、脚本がとても面白かった。
もちろん、社会に対して糞食らえと思っている若者たちのどストレートな叫び声に他ならず、痛々しさはあるのだけれど、そこに不快なものを不思議と感じなくて、登場人物をたちをどんどん好きになれた。
役者の演技力の高さもあったと思うが、今目の前のことに一生懸命に生きているし、たとえ成功しなくてもそこから観ている私も沢山元気を貰えてポジティブな気持ちになれた。
そして、若い頃の恋愛も思い出して若返った気分にもなった。

また、オンラインによる出会いとオフラインによる出会いを、どちらかに優劣をつける訳ではなく、両方の良さを感じさせる脚本というのも素晴らしかった。
穴ちゃんと百三一桜は、オンライン上で初めて出会ったことで色々と誤解していた点もあったが、実際会ってみると意気投合出来たり、終盤のシーンでも「TSUN-TSUN」とリアルに出会うことによる素晴らしさと難しさを両方感じられて、色々考えさせられた。
男は皆、何か良いことをしようと躍起になるけれど、それは結局空回りして人を傷つけることも沢山あって、それは人間の面倒臭さから来る産物だよなと私も色々納得していてエモい気分にさせられた。

脚本だけでなく、演出面でも非常に素晴らしい上演であったこともポイントが高い。
アトリエのような舞台空間を縦横無尽に活用したり、映像やビデオカメラ、音声を巧みに使って飽きさせない演出も今作の見どころだった。

今作を観劇して、山本卓卓さんの作品に対する苦手意識が払拭された気がする、そのくらい面白かった。
まだ客席に空きがあるのが勿体無いくらいである。
岸田國士戯曲賞を受賞しているというのもあるので、なかなかお目にかかれない傑作をぜひ劇場で多くの人に堪能して頂きたい。

写真引用元:ステージナタリー 範宙遊泳「バナナの花は食べられる」より。(撮影:雨宮透貴)

↓戯曲






【鑑賞動機】

山本卓卓さんの脚本に若干苦手意識があるものの、今作は岸田國士戯曲賞を受賞しているというのがあるので観劇することにした。脚本のレベルは間違いないと思うのだが、自分の好みに合うのかどうかドキドキしながら観劇に向かった。


【ストーリー・内容】(※ネタバレあり)

ストーリーに関しては、私が観劇で得た記憶なので、抜けや間違い等沢山あると思うがご容赦頂きたい。

2018年春、穴蔵の腐ったバナナ:通称穴ちゃん(埜本幸良)は、30代前半であるが結婚もしていなくて彼女もおらず、アルコール中毒で個人事業主の元詐欺師というクズな生活を送っていた。穴ちゃんはマッチングアプリ「TSUN-TSUN(ツンツン)」に登録して出会いを求める。しかし、「ミカ」といういかにも女性になりすました男性のようなアカウントに絡まれて、挙句の果てにはアカウントを削除していなくなってしまう始末だった。
ある日穴ちゃんは、「TSUN-TSUN」で131通もメッセージが送られてきていることに気が付く。その131通どれもアカウントが異なっているが、やはり男性が女性になりすまして送ってきている内容だろうと察する。それだけでなく、きっとこれは同一人物が複数アカウントを名乗ってメッセージを送ってきている行為ではないかと穴ちゃんは悟る。穴ちゃんは送り主にすぐにメッセージで説教する。すると送り主は、その事実を認め謝罪する。穴ちゃんは、彼に対して131通のサクラを送ってきたことから「百三一桜」と名付ける。百三一桜は、自分が男性であることを言って、今度対面で会おうと申し出てくる。

2018年夏、穴ちゃんは、街中で百三一桜(福原冠)と対面する。百三一桜は最初穴ちゃんから逃げ回っていて、マンホールから地下に潜っていったりした。
穴ちゃんは、最初は百三一桜に対して「TSUN-TSUN」でやったことに対して説教をするが、穴ちゃんと百三一桜は30代前半と歳が近く、お互い未婚の彼女なしで、しかも怪しい商売をやっているというのもあって意気投合する。そして俺「ら」になって一緒に探偵ごっこを始めることになる。

とあるホテルで、穴ちゃんと百三一桜は一人の女性とベッドで話していた。その女性はレナちゃん(井神沙恵)と言って、彼女は先日別れたと思われるミツオという男性の悪口をずっと言っている。そこからロックバンドのオアシスの話になり、セルバンテスの名作『ドン・キホーテ』の話をレナちゃんがし出す。しかし、『ドン・キホーテ』のことについて詳しく知らなかった穴ちゃんと百三一桜はレナちゃんにバカにされる。さらに、穴ちゃんの人の役に立つスーパーヒーローのような存在になりたいということに対してさらにバカにする。
レナちゃんは一人になる。レナちゃんはモノローグを語る。底辺の人間が人の役に立つようなスーパーヒーローになれるのはファンタジーの世界の話だと、ここで起きていることは全てファンタジーなのだと言う。そこにツッコミを入れる自分は現実でありフィクションでありメタファーであるのだと言う。

2018年冬、百三一桜はレナちゃんを誘って遊びに出かけた。レナちゃんは遅いと言う。百三一桜は、待ち合わせ時刻に遅れてゴメンと言う。しかしレナちゃんはそうではなく、出会って誘いに出かけるのが遅いと言う。
二人は楽しく会話をしながら横断歩道を渡ったり、街中をブラブラと歩く。そして焼肉「万歳」に向かう。そしてそのまま、二人はベッドにインして服を脱いで(本当に全部脱いでいる訳ではない)イチャつく。

2019年、百三一桜とレナちゃんは婚約していた。レナちゃんは出会った当初よりも大人っぽく落ち着いていた。二人に向かってビデオ通話がかかってくる。穴ちゃんからである。
穴ちゃんは、ビデオ通話越しに誰か男がやってきて怖いと言っている。見ると穴ちゃんの後ろにはミツオ(細谷貴宏)がやってきていた。レナちゃんはミツオが元カレなのですぐに気が付く。ミツオは穴ちゃんに猿ぐつわをして縛り上げていた。一同は大騒ぎする。
ミツオは、自前の音声機器から声を出す。どうやらミツオはレナちゃんと別れた後、海岸に向かってそのまま血だらけで倒れて青ざめていたのだと言う。自分はどうやら死んでいるみたいなのだと言う。そして予言する。2020年9月30日、穴ちゃんは死んでしまうと。だから死なないようにするために、今から穴ちゃんを身動き取れないようにしていたのだと言う。
穴ちゃんも、百三一桜もレナちゃんもミツオが言っていることがあまりにも突飛すぎて信じていなかった。むしろバカにして笑っていた。
穴ちゃんは苦し紛れに、自分で猿ぐつわと縄を解く。そしてミツオを叱りつける。もし仮に2020年9月30日に自分が死ぬと分かっていたとしても、なんで今から自分を縛り上げておくのだと、計画が杜撰過ぎると。戯曲の選考だったらそう選考委員会に指摘されると言う。
この一連の騒動が原因で、百三一桜とレナちゃんも言い争って、レナちゃんが百三一桜の元から去る。

暗転して暗くなったステージに、酒を浴びるように飲む女性が登場する。アリサ(入手杏奈)というその女性は、まるで何か心に悩み事を抱えているかのように酒に逃げて、そのまま眠ってしまう毎日を送っているようだった。
2017年、アリサと穴ちゃんが偶然会う。アリサは嬉しそうに穴ちゃんに声をかけてきて、中学時代吹奏楽部で一緒だった清水だと言う。そのまま二人は打ち解けあって、清水と名乗るアリサの紹介で穴ちゃんは一つのコミュニティに所属する。しかし、穴ちゃんがそのコミュニティで、「死にたい」という気持ちをどストレートに周囲の人間にぶつけたことによって、そのコミュニティの人間たちは穴ちゃんの元を去ってしまう。
穴ちゃんとアリサは二人でカフェに入る。しかし、カフェの店員(福原冠)の態度が穴ちゃんにとっては癪に触って苛立っていた。そして、ついにメロンソーダを運んできた時に店員に対して声を荒げてしまう。それに言い返してくる生意気なカフェの店員にアリサは水を浴びせる。二人はそのままカフェを出る。
アリサはそのまま落ち込んでしまい、それから二人は別れることになった。

こんな恋愛物語のシナリオを穴ちゃんは、2019年の時間軸で書き上げ、百三一桜とミツオに見せていた。これは、穴ちゃんの百三一桜と出会う以前の過去なのだと。
そこから恋愛の話になって、百三一桜がレナちゃんと別れたという事実を打ち明けた。当然、別れたのだから結婚もなくなったのだと。

ここで幕間に入る。

2017年冬、ミツオとレナちゃん。どちらかの自宅に二人で夜いるようである。二人は映画のマニアックな話とかしている。ミツオが突然「プレイボール」と叫んでレナちゃんが恐怖する。「プレイボール」ってどういう意味?と。あとで自然会話的にミツオが解説してレナちゃんは一応理解を示す。お風呂に入ろうと、お湯を沸かし始める。

2020年になる。ホワイトボードを使って穴ちゃんと百三一桜、ミツオ、そしてレナちゃんは作戦を立てる。それは、穴ちゃんが再びアリサに出会って告白するまでの作戦。百三一桜とレナちゃんは復縁して、再び婚約していた。あの時は一時的に別れただけだった。
アリサはコシザキアリサという偽名で福井県の空き家に一人で住んでいるのだと言う。コシザキというのは、中学時代の吹奏楽部の顧問の先生の名前。コシザキアリサはマッチングアプリ「TSUN-TSUN」をやっているので、そこでレナちゃんが警戒を解くようなコミュニケーションを取って、まずは二人で対面で会う。そこから、ライブを見に行こうとレナちゃんがアリサを連れ出して穴ちゃんたちの元へ来て、そこで穴ちゃんがアリサに思いを打ち明けるのだと言う。

アリサは、何やら墓参りをして花やお酒を墓に捧げているようである。そこへ男(植田崇幸)がやってきて酒を飲みながらアリサに絡んでくる。アリサは嫌がってそうだが、そこからなされるがままにベッドに向かってその男とやってしまう。
そんな酒を飲みすぎた次の日に、アリサはレナちゃんに会う。キャリーケースを持ったレナちゃんの優しい言葉遣いにアリサは徐々に心を開いていく。そして、レナちゃんが夜ライブが近くであるから一緒に見に行こうと誘い、アリサはOKを出す。
アリサとレナちゃんがやってきた広場には、お面を被った三人のロックバンドがいた。彼らは「三柱遊泳」と名乗って、ギターを弾きながら三人で歌っていた。彼らは七福神をモチーフにロックバンドとして活動しており、ここには毘沙門天と弁財天と大黒天がいた。
毘沙門天を名乗る彼(中身は穴ちゃん)が、今日は一曲歌いたい曲があると歌い始めたのは愛の告白のような楽曲で、仮面を取ってアリサに告白した。
アリサは、穴ちゃんとは恋人関係ではなく友達としていたいと告白を断ってしまう。穴ちゃんはそれを受け入れる。そして、実はレナちゃんは穴ちゃんの告白をアリサに聞いて欲しくて仕組んだ作戦だったことを詫びる。
百三一桜もお面を取ってアリサに挨拶し、レナちゃんと婚約していると言う。そしてミツオもお面を取るが、その顔を見るや否やアリサは発狂し初めて暴力を震ってくるようになる。レナちゃんはそれを必死で止めようとする。その後、アリサは取り押さえられ施設に預けられることになった。
結果、穴ちゃんが計画した告白作戦は、告白が受け入れられるどころか、アリサにとって逆効果になってしまった。それから世間はコロナ禍に突入し、穴ちゃんは死に、レナちゃんと百三一桜は別れ、ミツオは行方をくらませてしまった。

2020年9月30日、ミツオが穴ちゃんが死ぬと予告した日。みんなで穴ちゃんをオフィスでグルグル巻きに縛り上げていた。しかし、穴ちゃんは自由でありたいという感情に逆らえず、そのまま縄を解いて自殺してしまった。みんなで穴ちゃんを埋葬した。
その後、ミツオは今度は2021年3月24日11:00という時刻をホワイトボードに書く。これはアリサの死ぬ時刻だと予言する。百三一桜は、ミツオを怒鳴りつける。なんで穴ちゃんが死ぬ前にこれを言ってくれなかったのだと。もし穴ちゃんがこれを知っていたら、穴ちゃんは自殺しなかったかもしれないじゃないかと。
レナちゃんは、その百三一桜のミツオに対する攻撃に傷ついた。なぜならミツオのことを否定するということは、以前付き合っていた自分のことを否定するようなものだから。レナちゃんは百三一桜の元を去る。ミツオも去る。
レナちゃんはその後、心理士を目指し、カウンセラーとして活躍することになる。しかし、もうそのことを別れた後の百三一桜は知らない。

2021年1月1日、百三一桜はベッドに突っ伏していると、「TSUN-TSUN」から大量のメッセージが送られてくる。それは、死んだ穴ちゃんが残していった遺書のようなメッセージだった。
穴ちゃんが登場してモノローグを語る。きっとこのメッセージが届く頃には自分は本当に死んでしまっていることだろう。葬式で自分の親や妹に会った?妹は小さい頃は可愛かったんだけど、成長して生意気な口を聞くようになったと言う。そこで百三一桜は、コロナ禍で葬式は家族のみになって自分は参列出来なかったと呟く。穴ちゃんは、メッセージなのでそんな言葉もお構いなく続ける。もし、百三一桜とレナちゃんとの間に生まれてくる子供が出来たら、「花」という名前を名付けてみるのはどうかと、シンプルだろと。男の子でも女の子でもいける名前だと。そして、一つだけアリサのことだけはずっと心配しているということだった。
それを聞いて百三一桜は、レナちゃんとも結ばれず、「花」は生まれてこないことを思う。

2021年3月24日10:30、アリサの元にレナちゃんがいる。レナちゃはアリサの身に何も起こらないように守るつもりである。そこへ百三一桜もやってくる。二人はびっくりする。
しかしその後、アリサの後ろから悪魔の格好をした男性(植田崇幸)がやってくる。彼ら三人は気がついていない。その悪魔の男性をミツオが止めに入る。さらにヤンキーのような男性(埜本幸良)も悪魔を止めにかかる。ここで上演は終了する。

全く飽きさせることなくシーンは続いていたのだが、途中休憩になかなか入らないような印象を受けて、若干「まだかな?」と心の中では思っていた。というか、入手杏奈さんが登場する直前で入っても良かったかなと思ったが、続いたので「あれ?」という感じになった。
けれど、3時間以上の芝居であるにも関わらず飽きずに楽しむことが出来て大満足だった。これはきっと、脚本の素晴らしさもそうだが、様々な工夫を凝らして見せようとする演出の腕も光っていたような気がした。
脚本に関しては、岸田國士戯曲賞を受賞した作品なので素晴らしいの一言に尽きるが、私が今まで観劇してきた山本さんの作品『心の声など聞こえるか』や『となり街の知らない踊り子』よりもシーンをイメージしやすかった気がした。山本さんの演劇は、具象的な舞台セットは使わないので、ある程度イマジネーションで補完する部分を多く感じるのだが、今作も例外なく抽象舞台であったけれど、かなりイマジネーションが湧いたのも作品を楽しめた一つの要素な気がする。
脚本の考察については考察パートで触れていきたいと思う。とにかく、今までの「範宙遊泳」らしさを残しつつ私が好きな要素が沢山詰まっていて嬉しかった。

写真引用元:ステージナタリー 範宙遊泳「バナナの花は食べられる」より。(撮影:雨宮透貴)



【世界観・演出】(※ネタバレあり)

脚本だけでなく、今作は演出面においてもかなり見事な演劇作品だったと感じた。「範宙遊泳」のアイデンティティを保ちながら、遊びやユーモアを交えながら、でも観客を混乱させることなく良い塩梅で演出されている印象を受けた。
舞台装置、映像、舞台照明、舞台音響、その他演出について見ていく。

まずは、舞台装置、というか舞台セットから。
非常に「範宙遊泳」らしさを感じさせられるセットで、パネルによってしっかりと具象的な舞台セットが立ち上がっている訳ではなく、舞台空間全体がアトリエのようで、様々なインテリアが舞台上に点々と置かれていて、それがまた舞台空間を良い意味で抽象化していて良かった。
下手側手前には、アリサなどが寝そべっていた絨毯のようなものが敷かれていた。その奥に、勉強机のようなものとデスクチェアが置かれていた。その奥には巨大な脚立が聳え立っていた。
ステージ中央奥には巨大なスクリーンが置かれていて、そこには渋谷かどこか分からないが東京のとある大都市の高層ビルと道路が水彩画として描かれていた。水彩画で描かれているので、そこに映像を投影できるようになっている。
上手手前側にはベッドが置かれていて、百三一桜とレナちゃんのベッドシーンや、男とアリサのベッドシーンに使われた。その周囲には椅子や地球儀の置かれた本棚もあったと思われる。また、ベッドの隅の方に紫色のパーティションのようなものも置かれていた。
上手側奥にはホワイトボードも置かれていて、アリサに告白する作戦会議をするシーンでは、それを中央に運んでホワイトボードとして使用していた。
また、ステージではないが、ステージの壁面にも色々装飾があって、道路標識などが飾られていてちょっとロロ『BGM』の舞台セットを想起させるファンタジーっぽさがあった。それに加えて面白かったのが、ステージ上手側の床に横断歩道のように白くテープで縞模様に貼られているエリアがあって、そこを横断歩道として活かす演出が個人的には好きだった。ちょっと歩いてみたかった。
今作の舞台セットの良い点としては、具象のインテリアを置きながら、様々なシーンを演出出来ていて、舞台上にある小道具をまるで遊びながら演技できる所。例えば、穴ちゃんがモノローグで地球儀を取り出して演技をしたりするあたりが好きだった。横断歩道のシーンもそこに該当するだろう。あとは、穴ちゃんが死んだ時に、青空のハンモックみたいなやつに包まれる演出も悲しいけれど好きだった。
あとは、個人的に印象に残ったのは、ドアの枠だけを使って、レナちゃんが部屋に入るシチュエーションを作り出したり、そこに花束を手向けることで墓参りのシーンを演出している点が凄く面白かった。

次に映像について。
山本卓卓さんの演劇作品というと、いつもスクリーンがステージ上にあって、そこに大量の文字が投影される演出が多用されるイメージがある。今作でも、スクリーンはあるし大量の文章がスクリーンに投影される演出はあった。しかし、他の山本さんの作品と比較すると少なかったように思われる。序盤シーンの、マッチングアプリ「TSUN-TSUN」で穴ちゃんがやり取りをするシーンで使われたくらいである。
しかし、今作ではそれ以外にも沢山映像演出が使われていて面白かった。例えば、穴ちゃんと百三一桜がビデオ通話でやり取りする場面で、穴ちゃんがいる下手手前側にビデオカメラらしきものがあって、そこで映し出される映像をスクリーンにリアルタイムで投影する演出が面白かった。穴ちゃんのミツオに襲われる緊迫感も伝わってきて良かったし、穴ちゃんが繰り広げる紙芝居みたいなものも、映像で映し出されるからこそ伝わった気がした。
あとは、ミツオが2020年9月30日を予言するシーンで、クラゲの映像だったり、東京の都心の映像が流れながらモノローグ(といっても音声)が展開される演出も好きだった。あの映像はどこか恐怖を煽ってくるようなインパクトがあって好きだった。そしてミツオの音声による声も相まって、機械っぽさがまた不気味に感じられた。

次に舞台照明について。
今作の舞台照明は、アリサの登場シーンで目立っていた。アリサは酒飲みなので、そのシーンにだけ照明はほとんど消灯して、下手側と上手側の壁面に一つずつ取り付けられていた、白色の光量の強い照明(おそらく月を模ったもの?)が凄く良かった。アリサがアルコール中毒になっている感じが色濃く演出に反映されていた。
あとは、天井から吊り下げられていた蛍光灯も良いインパクトを出していた。この蛍光灯たちは、規則正しく列をなしている訳ではなく、無造作に斜めっていたりしながら吊り下げらている点にアートを感じられた。

次に舞台音響について。
街中の自動車が行き来する効果音や、お風呂を沸かす時のボイラーの音など、細かい効果音がとてもリアルで好きだった。
ただ一番着目したいのは、やはりミツオの音声だろう。まるでカーナビゲーションから聞こえてくるナレーションのようだったり、Siriのようでもあるような、録音された声を無理やり繋ぎ合わせて感情が全く伝わってこない感じの音声が凄くインパクトあって面白かった。ミツオってなんで自分の声で語ろうとしないのだろう。たしか、2017年のレナちゃんと付き合っていた時は自分の声で喋っていた(いきなり「プレイボール」とか言っていた)はずなので、レナちゃんと別れた時の何かがトラウマでああなってしまったのだろうか。自分を曝け出すのが怖いから、自分の感情をそのまま表現するのではなく、機械を通して表現している所に、コミュニケーションの苦手な現代人らしさが投影されていて良かった。
あとは、マイクを使った穴ちゃんの歌声とかモノローグにどこか格好良さを覚えて好きだった。「三柱遊泳」の歌は、非常にエモくて感情が素っ裸で好きだった。これは、むしろミツオとは対照的である。ここまで自分の感情を歌に出来たら気持ち良いだろうななんて感じられた。たしか同じことを舞台『心の声など聞こえるか』(2021年12月)でも思った気がする(「えっちゃん」の連呼)。また、2021年1月1日の「TSUN-TSUN」のメッセージを読み上げる穴ちゃんのボイスも、ちょっとむかつくけれど、でも非常に人間臭くて、思っていることをストレートに言っていて、だから非常に惹かれたし魅力的に感じた。マイクによる声がなおさらそれを助長させた。
その他、BGMが所々流れていたが、現代チックなユーモア溢れるBGMでどれも好きだった。

最後にその他演出について。
私は観劇しながら、今作は映画化しても成功するんじゃないかなと思って観ていた。こういうエモいヒューマンドラマとかはインディーズ映画にしても多くの人に響くんじゃないかと思った。しかし、ここだけはどうしても演劇じゃないとという演出が一点あった。それは、終盤の死んだ穴ちゃんが2021年1月1日に「TSUN-TSUN」でメッセージを送ってきた時に、それを穴ちゃんが読み上げるシーン。映画だと、死んだ穴ちゃんの声で読み上げられるだけだと思うが、そこは穴ちゃんらしさを上手く出すためにも、演劇のような演出がかなり重要なんじゃないかという気がした。死んだ登場人物がメッセージを読み上げるために生き返るってめちゃくちゃ面白いなと思った。
あとは、映像を使って今描かれている時間軸が西暦何年なのかを観客が知ることによって、今のシーンが先に進んだのか過去に戻ったのか分かりやすかった点も良かった。さらに、ミツオが2020年9月30日を予言することで、今作はコロナ禍に突入した世界線も描くのだなという伏線を張っていくのも素晴らしい展開だと感じた。コロナ禍によって、彼らに何が起きてしまうのか、とか色々先の展開を想像するので次が早く観たいと思って、どんどん引き込まれていった感覚があった。

写真引用元:ステージナタリー 範宙遊泳「バナナの花は食べられる」より。(撮影:雨宮透貴)


【キャスト・キャラクター】(※ネタバレあり)

キャスト陣はどの方も素晴らしい演技だった。脚本と演出が優れているのはもちろんそうなのだが、役者の演技の上手さがそこをさらに引き上げている感じがした。
特に注目した役者について見ていく。

まずは、穴蔵の腐ったバナナ、通称穴ちゃんを演じた埜本幸良さん。埜本さんは、以前範宙遊泳の『心の声など聞こえるか』(2021年12月)で演技を拝見しているが、脇役だったので、しっかりと演技を堪能するのは初めてかもしれない。
序盤はまるで、柿喰う客かよと思うくらいの台詞回しのスピードと台詞量があって、穴ちゃんが話すモノローグにも癖があるので、まるで音楽を聞くような感覚でそのモノローグを耳にいていた。
百三一桜と出会って、彼を叱りつけたり、スーパーヒーローのような存在になるみたいなアホなことを言っていて、物語前半はただただ痛々しい若者くらいにしか捉えられなかった。現実世界でこういう人種に出会ってしまったら面倒臭いなという感じで観ていた。しかし、後半に進むにつれてなぜかかなり感情移入出来るレベルまで、この穴ちゃんというキャラクターが好きになっていた。おそらく、個人的には「三柱遊泳」という似せロックバンドを結成して好きだという気持ちをストレートにアリサに伝えたあたりが好きだったからかもしれない。あのシーンは、なかなか小っ恥ずかしいシーンでもあるし、痛々しいシーンでもあるし、バカにしたくなる気持ちもあるんだけれど、あそこまで正直でストレートな感情ってどこか格好良いなと思えて、そこで見る目が変わったからかもしれない。あのシーンを観て、自分も何か物事に一途に頑張る素直さとピュアさを教えられた気がした。
あとは喋り方がむかつくけれど、またそこが良かった。むかつくんだけれど、嫌いになれない所か愛嬌を感じてしまう。そんな絶妙な役を演じていた埜本さんは素晴らしかった。

次に、百三一桜役を演じた福原冠さん。福原さんの演技は、ロロ『BGM』(2023年5月)でBBQ役を観たばかり。
百三一桜は、序盤はマッチングアプリ「TSUN-TSUN」でしょうもないことをやっているクズだったが、レナちゃんと出会ってから、徐々に落ち着いた男性になっていくあたりが凄く良かった。そこの演じ分けが凄く良かった。
あとは正義感が強くて、穴ちゃんとも喧嘩してしまったり、ミツオとも喧嘩してしまうあたりも穴ちゃんやミツオとは全く違うタイプで好感がもてた。
それと福原さんは改めてボイスが良いなと思った。

そして、今作で一番良いなと個人的に感じていたのは、レナちゃん役を演じた井神沙恵さん。井神さんも『心の声など聞こえるか』で演技を拝見している。
井神さんが演じるレナちゃんは、本当に付き合っている男性やその時の状況によって、オーラを全く変えてくるから凄いなと思う。実際に女性ってそんな印象を持っているが、この3時間10分という短時間で、あそこまで雰囲気を変えて一人の女性を演じていて凄かった。
最初に登場した、ミツオと別れたあとで百三一桜と付き合う前のレナちゃんは、どこか腐女子っぽかったというか、遊んでいそうで言葉遣いもよくなくて、気の強い感じの女性だった。そんなレナちゃんも良かったのだが、そこから百三一桜と付き合い始めて、徐々に落ち着いた大人の女性になっていって、さりげなく百三一桜を頼る感じのレナちゃんがまた良かった。あのギャップを違和感なくシームレスに演じれるって凄いと思った。そして、幕間後のミツオと付き合っていた頃のシーンで、めちゃくちゃ甘えてばっかりのような女性に変身しているのも凄かった。女性って付き合う男性によってこんなにも変わるものなのかなとも思った。
最後に百三一桜と別れてから心理士を目指し始めるのも、後々思い返したら納得だった。アリサにやっていることはたしかにカウンセラーに近いことだと感じたから。そうやって、失恋して強い女性になって仕事で生きていく感じが溢れていてこの変わりっぷりが良かった。

あとは、ミツオを演じた細谷崇宏さんのミステリアス感も良かったし、アリサ役の入手杏奈さんのちょっと天然ですぐにダメな男性のされるがままになりそうな感じの女性像も良かった。

写真引用元:ステージナタリー 範宙遊泳「バナナの花は食べられる」より。(撮影:雨宮透貴)


【舞台の考察】(※ネタバレあり)

冒頭で書いた通り、山本卓卓さんの脚本には苦手意識があったが、今作でだいぶ払拭された気がしていた。というか、単純に今作が山本さんの作品の中でも代表作に入るだろうから、シンプルに素晴らしい作品を観たからかもしれない。
今作で私が一番感じたことである「人と人との繋がりと人間臭さ」、それについて、オンライン/オフラインの人との出会い、恋愛について、そして現実とフィクションについての3本立てでレビューを書いていこうと思う。

今作を観てまず思ったのが、どうしても演劇作品というのは、対面での出会いというものを重視して物語を描きがちだが、そうではなくオンラインとオフラインの両方の長所、短所を劇中に織り交ぜることで、人が出会うということについて踏み込んでいる点に興味深さがあったということである。
そこには、コロナ禍というものが大きく影響しているものと考えられる。それまでは、基本的には「会う」といったら対面を意味することがほとんどだった。しかし、コロナ禍に入って人と人とがリアルで接することを制限された世界において、その常識は覆された。
コロナ禍に入るまで、もちろんオンラインによる「会う」というもの自体は存在していた。今作に登場するマッチングアプリもそうである。しかし、オンラインの出会いというのは、やはり実物がそこにある訳ではないので、どうしても信憑性に乏しくなる。百三一桜も、最初は複数のアカウントで女性を名乗っていた。オンラインではいくらでも嘘を付けてしまう、だから騙されて誤った出会い方をしてしまうというのが大きな欠点である。
その誤った認識は、お互いが対面で出会うことによって解消される。対面で会うことによって、穴ちゃんは百三一桜が自分と年齢が近くて、彼女もいなくて、同じような詐欺みたいな仕事をしていると共通項を発見できて意気投合したのである。これはオフラインという対面の出会いによるポジティブな側面である。
だが、忘れてはいけないのが、この対面での「会う」を成立させたのはマッチングアプリというオンラインによるものであるので、一概にオンラインの出会いを否定している訳ではないことである。

また、穴ちゃんがアリサと復縁したいという時も、レナちゃんがアリサに近づけたのはマッチングアプリの効果が大きかった。そしてそれは、レナちゃん自身が正体をバラさずに出会うことが出来たから叶ったことでもあるのである。ここでも、オンラインによる出会いというものが決して悪いものではないことを裏付けている。
さらに、オンライン/オフラインの出会いの区別だけでなく、直接的/間接的のコミュニケーションの区別も、それぞれに良し悪しがあることをこの作品から感じ取った。ミツオはレナちゃんと別れてからずっと音声機器で会話をしているが、そうやって実際の自分の声でコミュニケーションを取るのではなく、他の媒体を頼ることで素直に会話が出来るという点でも、必ずしも直接的なコミュニケーションだけが正しいコミュニケーションなのではなくて、人それぞれによってコミュニケーションの取りやすさというのは存在するのだということを表しているように思える。
ミツオがアリサの目の前で仮面を外すことで直接的に出会ったが、するとアリサは発狂してしまった。ミツオとアリサの間に何があったのか、作品中では言及されていないが、こうやって直接的に人と出会うことで、本来繋がれていた人と繋がれなくなってしまうこともある、つまり必ずしも対面で「会う」ことが絶対なのではないことを描いているように思えた。

オンラインかオフラインか、直接的か間接的かでコミュニケーションが上手く行ったり、行かなかったりするのは、人間のどうしようもない感情部分が影響しているのだろうなと感じた。直接会ったり、会話したりするのが苦手という人間らしさを持つ人だったらオンラインや間接的にコミュニケーションをすれば良いし、穴ちゃんみたいにどストレートに正直に生きていたいという人間らしさを持つ人だったら、対面でそして直接的にコミュニケーションを取れば良いのである。
そういった人間の人間らしい面倒臭さがあるから、コミュニケーションにも様々な方法があるんだと、今作を観て改めて感じられた。

人間らしさで一番厄介なのが、恋愛感情である。人は恋愛することによって傷ついたり、相手を傷つけたりしてしまう。
作品中でも、様々なベクトルの恋愛感情が動きぶつかる。でもこの作品で描かれる恋愛感情というのはポジティブなものが多いように感じられた。例えば一番良い例が、百三一桜とレナちゃんの関係。二人が出会ってから、お互い変わっていった。百三一桜は、それまではマッチングアプリで金稼ぎするクズだったが、レナちゃんと付き合ってから、会社を穴ちゃんと経営して頑張っていた。レナちゃんに接する態度も落ち着いて頼もしく感じられた。レナちゃんも、それまでは文句ばかり垂れていたが、百三一桜に出会って大人の落ち着いた女性になった。
穴ちゃんも、アリサが好きだという感情でずっと頑張っていた。なかなかスーパーヒーローのような人を助けられる大きな存在になれなくて、「死にたい」と思っていたが、アリサに告白するまでは頑張っていた。
ミツオもきっと、レナちゃんのことが忘れられないから、そうやってずっと彼女の周囲に付き纏っていたのだと思う。
人を好きになるということは、その人のために頑張ろうという気持ちになれることでもある。そんなことが作中から感じ取れて、自分も結婚する前の恋愛を思い出して懐かしくなったりしていた。好きな人がいれば、頑張ろうと思える。

そんな面倒臭い人間たちを、今作では物語、つまりフィクションとして描いている。
劇中のレナちゃんのモノローグで、この世界は全てファンタジー、そして私は現実でありフィクションでありメタファーなどと言っていた。これは何を意味するのか。このメッセージ性に野田秀樹さんの脚本らしさを感じたのは私だけだろうか。
もちろん、演劇で上演されることはフィクションである。作り話の中での物語である。しかし、そこに観客が共感するのは、現実世界で起きていることと通じる箇所が演劇作品内で描かれているからであろう。
スーパーヒーローみたいな存在に憧れる穴ちゃんは、たしかに非現実的かもしれないし、バカにしたくなる。けれど、そこに共感が集まるのは、きっと自分たちだってそういう存在にどこか憧れるからなのかもしれない。どこかに希望を見出したいからなのかもしれない。
現実世界は、自分の人生が主人公になるようには出来ていないから、そう思い通りにはならないし、自分中心に回っていない。けれど、スーパーヒーローのように役に立ちたいというエゴは、きっと多くの人にとってどこかにあって、それをフィクションという形で演劇などで体験することで、心に良い刺激が与えられて現実世界でも頑張ろうと思えるのかもしれない。
だから現実とフィクションは密接に繋がっていて、その構造はオンラインとオフライン、直接的と間接的のリンクとも近いのかもしれない。

あまり今作の魅力を噛み砕けなかった気がするが、とにかく現実や嘘、オンラインとオフライン、全てを引っくるめて許容してくれる作品だったのでとても私は好みだったし、戯曲もあとでじっくり読んでみたいと思った。

写真引用元:ステージナタリー 範宙遊泳「バナナの花は食べられる」より。(撮影:雨宮透貴)


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