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My ALL TIME BEST ① 「GO」

自分の人生を振り返るポイントととして始めます

毎年劇場で40本程度の映画を鑑賞し、ああでもないこうでもないと頭を回らせて、時にこの場所で文字に起こして整理などしてみたりしてきた。
最近、多感で大切な時期を振り返るきっかけとなる出来事があり、その後改めて自分が映画によってどう形成されてきたかを振り返りたくなったので、今回からALL TIME BESTとして10本の作品を振り返ろうと思います。
多分ホラー映画レビューのような、キャッキャした振り返りにはならないかもだけど・・・お付き合いいただければ幸いです。

自分自身の起点となる作品

「GO」は私の0地点だ。
もう数え切れないほど見直している、セリフも展開も完ぺきに頭に入っているほど。
何かに心が打ち破れそうになる時、自分のことを信じれなくなった時、不確かな人生の中で迷い道筋を見失った時、倒れることにビビって戦うことから避ける癖がついた時...
「GO」との邂逅でパッと世界が開けた18歳頃のあの感覚を、躍動する杉原のドロップキックが取り戻してくれるような、そんなタイムマシーンのような立ち位置にいる、俗世間の濁りで目詰まりしてしまったフィルターをクリアにするように。

今の自分はどこにいるんだろうか?
今の自分をどこに放り投げられるんだろうか?
「GO」はいつでも、私に挑戦状を突き付けてくるんだ。

半径2mの先にあった自分の知らない世界

いま振り返ると、私はとても安心安全な少年時代を過ごしてきたと思う。
同級生に中国or台湾国籍の女性もいたけれど、私の知る限りは人種差別的な空気感はなかった気がする。(もちろん、知り得ないところで辛い思いをしていたかもしれないから断言はしないけど)
お互い夢中にGLAYの話をしたり、いつぞやかお見舞いに行った記憶もうっすら残っている。

高校時代、アルバイト先には中国人の男性が2人働いていた。
あまり同じ時間に働くことはなかったけど、片方の人が仕事が雑だったくらいで、めちゃくちゃいい感じの人たちだった。年齢も離れていたからかも知れないけれど、すごく優しい人達だった。

そして、私は「GO」と出会った。

衝撃だった。
捺印制度外国人登録書を所持していないと罰せられるとか、教育現場での総括と自己批判も、他者に対して「血が汚い」という言葉をかけるような人間が平和に暮らしていることも。
民族、祖国、国家、単一、愛国、統合、同胞、親善、支配、抑圧、隷属、侵略、偏見、差別、排斥、排他、選民、血族、混血、純血、団結。
こんな言葉が半径2mの先にはゴロゴロ転がっていて、追い出せ、押し出せとおしくらまんじゅうをしていることを。
そして、飛行機がビルに突っ込んだ。
その10年後、私はこの国を出た。もっと広い世界を見るために。

冒頭のモノローグはセンセーショナルだった

円の外には手強いやつがいっぱいいる

私たちは多分きっと、個人という圧倒的な孤独でもっとも大切な尊厳を甘やかしたいし守りたい。
だから寄り添い合うし、わかりやすい「同じ」というものに心を許す。
そこまでは超ハッピー。
それで満足すればいいのに、わかりやすい「同じ」というだけの虚ろな仲間意識と団結を確かめ合うように、わかりやすく「同じじゃない」ものを排他する。
さらにその同じの中でも選りすぐり、「特に同じ」じゃないものを除外しようと努力を惜しまない。

なぜなら私たちは、自分の痛みにすごく敏感だ。
自分を傷つける可能性を出来る限り遠くに追いやりたい。
それはもしかしたら、俗に言う「リスクを回避する」ということに近いのかも知れないし、それが社会というか普通のことなのかも。

そりゃ自分を傷つける可能性のない人たちだけ同士、自分が傷つけない距離で寄り添って、違うやつにはみんなで石を投げて追い出し、自分たちにとって居心地のイイ世界ばかりを組み立てていれば、私たちは超ハッピーで幸福なんだろう。
自分を傷付ける可能性のない人しかいない安全圏、その王国を作ること自体が人生の意義なんじゃないか?とさえ思えてしまう。
安息の地?エデン?なんでもいいや、そんな心の乱れがない場所。

そういう生き方どう思う?
んーーーーーーーーーーーー、どっちかというとだせぇ。

居心地のいいソファを窓から投げ捨てたら

10代。
この作品に出会った時。
あの頃はもっともっと真剣に手を伸ばして、その分真剣に傷ついていたような気がする。
別にあの頃に戻りたいとかそういうノスタルジーの話をしたいんじゃない。
ただ目の前で起こるあらゆる出来事に対して、無理矢理手を伸ばしてまで自分の円に引き摺り込んでは、焦燥感に駆られたり心をときめかせたりすることから、少しずつ手を引くクセを覚えてしまったのかもしれない。
大人になるとはそういうことなのかもしれない。

だけど、でも (←自分に対して、常にこの「だけど」「でも」を言い続けたいよね)

真っ暗な夜の森を夜が明けるまでひたすら歩き続けていた18歳の自分を忘れたくない。
あの頃の自分に時々、あの親子から声をかけて欲しい。

左腕まっすぐ伸ばしてみな、boy。
そのままぐ〜と一回転しろ。
よし。いま、オマエの拳がひいた円の大きさが、だいたいオマエという人間の大きさだ。
言ってることがわかるか、boy。
その円の真ん中に居座って、手の届く範囲のものだけに手をだしてりゃ、オマエは傷つかずに生きていける。そういう生き方をどう思う。
(だせぇ)
はは。
ボクシングとはなんぞや。その円を、己の拳で突き破って、外から何かを、奪い取ってくる行為だ。
外には手ごわい奴がいっぱいいるぞ。
そいつがオマエの円の中に入り込んでくる。
殴られるのもいてえし、殴るのもいてえってこった。
それでもやんのか? 円の中にいる方が安全だぞ。
(やる)
はじめるぞ。

ボクシングの場面より

まるであの頃の自分と今の自分が、
夜の公園で向かい合っているようだ。

父親との対決シーン
個人を尊重し合う二人の魂の会話のようだ

俺は俺なんだよ

結局のところ、向き合うのは常に自分だったりするのかもしれない。
この作品から受け取った大きなピースの一つは、その個人主義の意志になのかもしれない。
国籍だって選べるんだから、私たちはきっとどんなものにでもなれると。

本作のもっと好きなシーンは、萩原聖人演じる交番のお巡りさんとの会話シーンだ。
杉原とお巡りさんの会話は全然噛み合ってない。
自分の思ったことを言い合ってるだけ。だけど、きちんと相手の尊重を受け入れ合う姿が描かれている。二人の向かってるところと伝えたいことは同じで、そして微笑ましいくらいに優しい、人種も言葉も肌の色も超えてしまいそうなほど。

「何人だろうと寄ってくる奴は寄ってくるんじゃん?お前いい奴だからさ」

もちろん人種差別を土台にしたストーリーではあるんだけど、安に「差別は良くないよね〜」と口開く責任感のない主張ではなく、そこにちゃんと「一括りではなく、個を尊重する」という強い姿勢が受けて取れる。
いくらかマシにはなってきているんだろうけど、集団を重んじる日本の中で個を象徴しようとするのはすごく難しくて、その中でもがき苦しむ杉原にとってこのお巡りさんとのシーンは、とてもサラッとした場面でありながら、本作で最も大切な意味を持つシーンなのではないかと思う。

この映画を、「俺は俺」を象徴する意味のみで順に追っていくとすごく分かりやすい。

① 在日朝鮮人としての見られ方に違和感を持つ、俺は俺なのに
② 国籍を選択できる一歩目の自由で選択をする、俺は俺の国を選ぶ
③ 桜井と出会うけど名前は教えあわない、俺は俺だから
④ 正一の死と桜井に突きつけられる「在日」に対する閉塞感によって揺るぐ、「俺は俺として見てもらえることはないのではないか?」
⑤ お巡りさんと出会い「お前はお前じゃん」と優しく気づかれる
⑥ 父との対決によって、父がずっと長い間「俺は俺」と思いながら日本で戦いながら家族を守ってきたこと、そして杉原に対しても「お前はお前」という意思を伝え続けてきたことを思い知らされる
⑦ 最も愛する人・桜井に改めて宣言をする「俺は俺なんだよ」

もちろん「これは僕(杉原)の恋愛に関する物語なのだ」けど、ここには誇りと自由と個人主義が象徴されている。(サタニズムに繋がる個人主義
関係ないけど、あの時の柴咲コウは無敵だったよね・・・

挑戦的で可憐で自由で美人でミステリアスで素直で完璧なヒロイン
ずっと憧れの人

ラストシーン。
杉原は校庭を走り抜け、校門の柵を飛び越えようとするが躓いてしまう。
それは、「広い世界に出れば、思い通りにいかないことばかりだし躓くこともいっぱいある」ことを表しているのかもしれない。
だけど杉原は笑い飛ばす、そんなもの上等だとでも言わんばかりに。
なぜか?きっと杉原もわかっていて、見ている数%の人にも届いている。

「円の外には手強い奴がいっぱいる。ぶちやぶれ、そんなもん」

だからGOは私の道標なのだ、円の中にいる自分に捕まるないように。
走れ!!!!!!!!!!!

GO
原作 金城一紀
監督 行定勲
脚本 宮藤官九郎
出演 窪塚洋介
柴咲コウ
山崎努
大竹しのぶ

※サブスクにもあるので見ていただきたいのですが、大声では言えないけどyoutubeにも落ちてましたよ。


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