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家族はつらいよというお話 『靴ひも』(新潮社)レビュー

なんだか私はいま、一杯いっぱいだ。
他人の家のややこしい事情を夜通し聞かされて、もういい加減寝かせてほしいなあと思っているところに「ちょっとこれ、どう思う?」とか問いつめられているような気分。
どこの夫婦、どこの家族にも大中小の問題がひとつくらいはありそうなものだけど、ドメニコ・スタルノーネの『靴ひも』(関口英子訳、新潮社)で描かれる一家の話はなかなか濃厚だ。

”もしも忘れているなら、思い出させてあげましょう。”

この小説は妻から夫へのこんな言葉で始まる。
あなたは妻子のことを忘れているようなので私が思い出させてあげようと最初からすごんでいる。怖そうな妻だ。そう、この本に出てくる妻は怖い。

どうやら夫(34歳)は19歳の女に恋をして、妻と2人の子どもを捨て家を出てしまったらしい。ふん、大人げない、と思うけれど、あり得えない話ではない。
さきほどの台詞は妻から夫に宛てた手紙の冒頭部だ。いまならLINEとかメールとかで恨みつらみを書き送りそうだけど、時代設定が40年前なので妻が取った手段は手紙である。
非難と悲鳴と自己憐憫がうずまく手紙をペンでしたためている姿を思い浮かべただけでも、この奥さん、ちょっとまずいことになってるなあ·······と私はのっけから毒気にあてられてしまった。それが第一部。

つづく第二部はそれから40年後の現在の話。話者は夫に変わる。
夫は家に戻っている。しかも妻とヴァカンスを過ごすために仲良く(でもなさそうだけど、まあわりと平穏に)海辺に出かけてゆく。
40年前は夫のほうが好き勝手なことをしていたわけだが、いまでは妻のほうが夫に言いたい放題で、自分は昔のように都合のいい女ではないと夫に豪語している。夫のほうは波風立てないのが一番とひたすら妻の言いなりだ。これもありそうな展開ではあります。

第二部では、40年前なぜ若い女に目がくらんだのか、そしてそのあと6年間も家に戻らなかったのに、なぜまた妻のもとに戻ったのかが夫の回想独白形式で語られてゆく。

男であれ女であれ、家族をもったとたんに人生の一部を自分以外の人間のために差し出すことになるわけで、とくに子を産んだあとの女は、他者に向けることのできる視線の大半をわが子に向けることになるのだろう。で、子どもに向けている分を差し引いた残り少ないアテンションを自分と夫に配分することになるわけだけど、たいていの場合、家にいるときの妻にはもう自分以外の大人に分け与えるアテンションのストックがほとんど残っていない(ですよね?)。というのがおおかたの現状だと私は勝手に思っている。
そのことに夫がどの程度の不満を抱くかは個人差があるだろう。
最近はよくできた夫が世の中にたくさんいるようだから、この物語の夫婦のような惨事にいたることは少ないのかもしれない。この夫婦がもめていたのはいまから40年前、つまり夫が妻に面倒みてもらいたがる傾向がきわめて強かった古式ゆかしき時代の話である。日本でいうと昭和である。

夫は勝手に出奔して若い女と暮らし始め、それまでの仕事をやめ、やりたい仕事につき、自己実現をはたす。妻と小さい子ども2人を放り出して好き勝手やって、なにが自己実現だと開いた口がふさがらないのだけれど、そんな彼が久しぶりに子どもたちに会い、あるエピソードを聞いて家に戻る決心をする。

そのきっかけをつくったアイテムがタイトルになっている靴ひもだ。
親子が靴ひもについてのささいな会話をかわすシーンのところでは、ああそうだよね、そんなことを知ってしまうと帰りたくなるよね、と同じく人の親である私はほろりとなった。やっぱり子はかすがい、だよねえ。なんかこれ、いい話で終わるのかな、意外とベタな話なのかなと思ったりもして。

が、スタルノーネは手練(てだれ)の書き手なので、そんな大団円なストーリーを用意してはいない。

第三部は、両親の不和のあおりをもろに受けて成人した40年後の子どもたちが両親のことをどう見ているのかを語ってゆく。
ここにきてようやく、第二部までで把握しきれなかった妻や子どもたちの人物像が像を結び始める。妻が夫に子どもとの面会を許した理由がわかり、物語のキーとなる靴ひものエピソードが、じつは妻がさりげなく仕組んだ罠だったということもわかってくる。

子ども2人はいまや40代。兄は3度の結婚を経て4人の子持ち。両親とはまずまずうまくつき合っている。が、独身で子どもがいない(子どもを産みたくなかった)妹はちょっと難しそうな性格だ。自分は両親にかわいがられてこなかった、兄のほうが愛されてきたと思っている。父が出て行ってからさんざん辛い思いを味わったのだからと、ここにきて親にしっぺ返しじみたことをしたいと考えていたりもする。

気をつけなくてはならないのは、両親が別居していた6年間、この子たちが何歳だったかということだ。妹は5〜11歳、兄は9〜15歳くらいである。幼い妹にとってその期間の思い出といえば、ただ父親が嫌いだったとか、母親みたいになりたくなかったとか、父の不倫相手が若くて美人だったとかのシンプルな記憶の断片だけ。
だが兄はちょうど思春期で、妹のキャッチできないような情報までキャッチしている。昔を思い出して涙をこぼす兄を見て、妹はようやくそれまでの兄の我慢に気づくことになる。

”私よりも年上の分、兄には多くの記憶がある。両親の不和から生じたいざこざは、兄がいったん受けとめてから、私の身に振りかかっていたのだ。”

ではそのまま涙に濡れる物語として、しんみり終わるのかと思いきやそんなことはない。
兄妹はいきなりそのあと大人げない行動に出る。ふつうなら明るくて平凡であったはずの、失われた思春期を取り返そうとするかのように。
そして唐突に、晩秋の夕暮れみたいに、物語はすとんと終わってしまう。
なんとも乾いた、あっけらかんとした、大団円とは正反対のエンディング。

派手な筋書きで読ませようとしていないところがいい。
たとえば、第二部で夫婦の前に現れる謎めいた男女は何者か? 本書の醍醐味はそんなことを推理することにあるのではない。筋書きじたいは込み入っていない。
いやいや、筋が面白くないとだめでしょう、と言う人は多そうだけれど、私が面白いと思うのは人間そのものを徹底的に見つめたこういう物語だ。
どこにでもいそうな普通の家族に生じるほころび、破綻、修復。あるいは見せかけの修復。人間の軽さ、意地、恨み、悲しみ、優しさ。
喜怒哀楽をとことん味わうには、プロットは地味なほうがいい。

一度こわれた夫婦や家族が完全に元どおりになることはたぶんないだろう。
割れた陶器を接着剤でくっつけると一応機能は果たすものの、かたちは多少いびつに変容する。

それでもこの家族、この夫婦はこのままどうにか続いていくような気がする。
いびつさを抱えて、いびつさを別の何かで補うとか隠すとか紛らわすとかしながら、だましだまし持続していくんじゃないだろうか。
それが良いか悪いかはまた別の問題で。
ひとまず彼らはいびつさを受け止めて生きながらえる。ような気がする。

データや成果や効率やスマートさが有り難がられるご時世に「だましだまし」なんて言うと、なんて前時代的な、と笑い飛ばされそうだけど、人ってそんなにパキッと白黒つけられるものだろうか。そんなに直線的に生きていけるものだろうか。人は生(なま)もの、そのときの温度や湿度でいかようにも変化してしまう。

私はへそ曲がりなので、白黒つきすぎたもの、あまりにも明快な解にはどこか胡散(うさん)臭さを感じてしまう。

人間の心情や、人と人との微妙な関係は、濃淡さまざまなグレーからなるグラデーションだ。グラデーションの数も、その色合いも人それぞれ。こと人間に関する限り、はっきり答えの出ないことはとても多いし、別にはっきりさせなくたっていいんじゃないのと思うことはしょっちゅうだ。

妻が6年後に夫を受け容れたとき心の奥底で何を考えていたか? その企みを知ると、ああ人間はほんとに哀切で必死な生きものだなあと愛しくなりさえする。
これ以上言うとネタバレになるから伏せておくけれど、とにかく本書には、ずるい人や怖い人、わかってない人や哀しい人が出てくる。
などと言うと、ただ暗いだけの話かと思われそうだけれど、私にはむしろ人間の“小ささ”がかわいく感じられて、喜劇的でさえあると思った。

ここまで書いてきて、不意にある脚本家・作家を思い出した。向田邦子だ。
この作品のもつ哀しさは向田邦子の書いた短編にどこか似ている。
彼女もまた、うまくいかない夫婦や家族、恋人どうしを上手に料理する人だった。
向田作品が醤油とみりんで煮つけた甘辛味だとすれば、スタルノーネの作品は香り高いオリーブ油と酸味のきいたトマトソースで和えた味(イタリア人だし)。
だけど両者とも扱う素材は生々しい人間だ。家族や夫婦の一筋縄ではいかない関係は、きっと洋の東西を問わない普遍的なテーマなのだろう。
向田作品を「ああ、あの世間話してるホームドラマね」とひと言で片づけた人に会ったことがあるけれど、なんのなんの、結構ヘビーなことも書いていたりする。昭和のお惣菜風に仕立ててあるから気づきにくいというだけで。

いつだったか、平成の演出家による向田ドラマをBSで観たことがあるけれど、久世光彦演出の昭和バージョンよりもずいぶんクールな仕上がりで、醤油とみりんの味などいっさいしなかったことを憶えている。
演出家が変わっても味わいに大きな変化が出ない作品というのは、それ以外の味わいを引き出したいという気持ちを誘発しないから、要するに作品に深みと幅が不足しているからではないだろうか。

この『靴ひも』を仮に映画やTVドラマにするとしたら、演出によって愛憎劇にも喜劇にも泣けるホームドラマにもなるだろう。
さまざまな解釈を誘うもの、料理人によって何通りもの味わいが出る奥の深さのあるものが美味な作品なのだ。


noterは若い人だらけだと思うのでいちおう向田邦子の説明を。
昭和を代表する脚本家で、エッセイや短編小説の名手でもあり直木賞まで受賞したのに、飛行機事故のため51歳の若さで他界。たしか、あの是枝裕和監督が好きな脚本家に挙げていたように思う。

スタルノーネは映画やテレビの脚本家でもあるので、家族や夫婦を見つめる目の細やかさが向田邦子と似ているのかもしれない。

そういえばこういう人、いそうだな、と思わせてくれる本。
私たちの暮らす世界と地続き感のある本。
『靴ひも』はそんな作品だ。
おすすめですけど読むなら心にスペースのあるときに。一杯いっぱいになるかもしれないので。

ちなみにあとがきによると、本書の原題Lacciには、靴ひものほかに縄、リボンなどの意味もあるらしく、結びつけたり捕まえたりするものを指すことから転じて絆や罠という意味にもなるとか。

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