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夢を追う若者への人間賛歌:ラ・ラ・ランド in コンサート

愛して止まない映画『ラ・ラ・ランド』を「ラ・ラ・ランド in コンサート」@東京国際フォーラムにて、再々鑑賞。

スクリーンに映画本編を映しながら、それに合わせて東京フィルハーモニー交響楽団による生オーケストラが劇伴を奏でるというシネマコンサートの『ラ・ラ・ランド』版(演者の声や歌声は映画の録音が流れるので、これにぴたりと合わせるプロの技には驚嘆)。

これまで『スターウォーズ』や『ハリーポッター』シリーズ、『ティファニーで朝食を』や『ゴッドファーザー』等が、このシネマコンサートの形式で上演され、今後は『007』や『バックトゥザフューチャー』なんかが公演を控えている。

今回の『ラ・ラ・ランド』版は、劇場でのミュージカル公演らしく、往年のミュージカル映画の様に、オーバーチュア(本編開始前に流れる音楽。本編にて使用されるナンバーのメドレーであることが多い)から始まる。

映画の本編には、過去のミュージカル映画へのオマージュが多用されており、映画に夢を捧げた先達へのリスペクトが感じられるが、コンサートでのオーバーチュアを取り入れる試みからは、ミュージカルという総合芸術を築き上げた先人への感謝ととめどない愛とが読み取れる。

もうね、この序曲から涙が止まらない。

こうして、ホールに足を運ぶのはいつ振りだろうか。そうだ。わたし、劇場が好きだったんだ。と考え出したら、とめどなく涙が流れて仕方がないのだ。

というか、それ以前に、開演までの時間から一人めそめそ泣いていた。

舞台上のバックスクリーンに、映画のポスタービジュアルが映し出されていて、それを見つめているだけで物語を回想してしまい、思い出し泣きする始末。

そんなんだから、『ラ・ラ・ランド』は今まであまり観返して来なかった。だって、初っ端からラストまで泣き続けることになるんだもん。

公開当時に映画館で観た時は、私もミアと同じく女優になりたくて、でも、盲目的に夢を追う自信も持てなくて。

つまり、燻っていた。そして、それは今も変わっていない。

でも、今は、あの頃と違って女優の夢を目指しているわけではない。
じゃあ、一体何に悩んでいるのだろう。
どうして、自分の人生に踏み切れないでいるのだろう。

そんなことに取り留めもなく想いを巡らせながら、開演を迎える。

録音を流す映画と違って、生のオーケストラでは、一つ一つ楽器の音が、その豊かな響きが、耳にきちんと届けられる。

いざ本編が始まってからも、やはり涙が止まらない。マスクをしていることを良いことに、涙を拭うこともサボって垂れ流しにする。

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若さとは、有限で永遠の刹那だ。
そして、私達は、あの、夢にだけ向かうことが出来た時代にはもう戻れないことを知っている。だから、焦がれる。

「la la land」には、「叶わない夢を見る愚か者」という皮肉の意があるらしいが、その愚かさこそ、私達が手にしたいものに他ならない。

ミア(エマ・ストーン)とセブ(ライアン・ゴズリング)の若い2人は、他人頼みで誰かに幸せを求めるのではなく、自分で自らの居場所を求める。しっかりと地に足を着け、自分の力で道を切り拓くことを望む。

「Someone in cloud」では、運命の誰かの出現を待ち侘びている様に歌われるが、それは同時に、私自身を探している過程でもある。

彼らには、あっさりと夢を貫ける若さがある。夢に生きること程に、愚かで尊いものはない。

スクリーンに映し出されるのは、夢を持つ者の纏う眩しさである。それは、若者が持つ輝き、とも言い換えられる。

きっと、夢を叶えることが一番大事なのではなく、夢を追い掛ける時にしか手にすることの出来ないキラキラを纏う為に、人には夢を追う時間が必要なのではなかろうか。

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本作のテーマは、夢を追う若者、そして、若い時分の恋愛、にある。

本物の恋とは、始めようとしなくても始まってしまうもの。

きっと、好きという気持ちには翼があって、恋をすることで世界は色づき輝き出し、日常に音楽が流れ出す。そんな恋に身を浸す経験が、人生には絶対的に必要で。

セブの奏でた音楽と同じ音色を聴いて、自らの気持ちを自覚するミア。曲が流れるスピーカーを見つめる瞳が、そこにセブを見出した時の表情が、その全てを物語っている。彼氏は放っぽり出すけれど、罪悪感以上に恋の多幸感に包まれた、うっとりした顔なのだ。

他にも、映画館でセブを見付けた時(映写機からの光に当たってミア自身がスクリーンに映る映画女優のよう。)や、帰宅するとサプライズでセブにもてなして貰った時、セブが迎えに来た際のクラクションの合図が聞こえた時など、心奪われた時の、全てが満ち満ちている表情・感激に潤んだ眼差しが、もうたまらない。

エマストーンは、嬉しさや感動といったポジティブな感情表現がピカイチなのよね。

だが、ここで描かれるのは、夢追う2人だからこその惹かれ合いと噛み合わなさ、だ。

2人は、夢を持つ者同士だから惹かれ合う。互いの夢を後押しし、高め合い、インスピレーションを与え合う。彼らは、好きなものを語る人間の魅力を知っているし、自分の信ずる世界を持っている相手を愛する。

自身の夢を全力で応援してくれる人がすぐ側にいたら、どんなに心強いだろう。時には、「自信を持て」と声を張り上げて叱ってくれて、実際に自信を持たせてくれる。私自身よりも私を信じてくれて、発破をかけてケツを叩いてくれる。それこそ、何にも代え難い一番の愛情だよね。

でも、だから、そんな2人には逃げ場がない。

セブは、夢を追うため、愛するミアのために、(一時的にではあるが)自らの愛する音楽を裏切る。己の信条を捨てて安定を求める。そして、それがいつしか二人を離してしまうことになる。

自分の好きな音楽じゃないことは、自分が一番分かっているし、本当はこんなことやりたくないし、でも、今は資金や知名度を手にすることも重要だし、何某かを犠牲にしないと手に入らないものもあるし。

そこには、20代後半という年齢の問題もあるし、自覚していない無言の圧力や世間一般の常識というプレッシャーを、勝手に感じ取っていた部分故のものもあるだろう。

大人になることと引き換えに、夢を手放してしまった人間は、この地球に星の数ほど溢れている。

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物語の結末は、皆さんご存知の通り(未見の方は、以下ネタバレなのでご承知おきを)。

夢ある2人にとっては、これが最良で最善でハッピーエンドなのかもしれない。きっとそうだろう。そうとは理解していながらも、それにしたって、切な過ぎる。

人生は選択の結果だし、それは間違いなく自分が選び取って来たものだし、今の人生だって十分に幸せ。それなのに、選ばなかった方の人生を考えてしまう。選択しなかった向こう側の世界に想いを馳せてしまうと、胸が締め付けられて息も出来ない。

そして、この「if」の妄想こそが、最も色彩豊かで華やかで美しいという哀しさ(予告のミスリードには誰もが面食らったに違いない)。あと少し、ほんの少し、それぞれのタイミングがずれていたなら、2人の人生は噛み合っていただろうか。

ミアとセブは別れるという結果にはなったが、彼らにとっては、2人で過ごした時間は絶対に必要な時間だった。間違いなく、必要な巡り合いだったのだ。

互いの存在が、それぞれの人生を何歩も何十歩も前に進ませた。

「あの人がいたから今の私がある」、そう思わせてくれる恋の経験を得た人間は、どこまでも強いはず。そして、それだけで幸福なはず。

2人の恋は、長い人生に於ける幾つかの恋の内の一つに過ぎないし、彼らが幸せだったのは夏の数ヶ月という一瞬。それでも、一生に一度の、本物の恋だったんだ。

最後の振り向きと頷きは、2人の間で確かに結ばれた時間があったこと、それぞれの今をしっかり生きていること、今でも相手を想い合っていること(「ずっと愛してる」って言ったもんね)を互いに確認する、秀逸なラストシーン。その一瞬で全てをわかり合えてしまう、そんな瞬間は、濃密な時間と心の深淵とを共有した者にしか出来ないものだ。

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私が未だに燻っているのは、ミアの様に、全身全霊で闘い傷付いて来なかったからかもしれない。

「Audition」での彼女の涙は、ちゃんとぶつかって、ちゃんと傷付いた者にしか流せない美しいものだった。夢見る理想とどうにもならない現実の狭間で葛藤し、自分は求められていないのではと自己否定を重ねながら、それでも歩みを止めない、そんな彼女の美しさが伝わって来る。

挑戦して挫折した人間には、だから説得力がある。自分の人生に納得して生きて来た人間であるから。そんなことから今の今まで逃げて来たという負い目が、私にはある。

公開から4年が過ぎたが、あの頃と何一つ変わっていない、むしろ、情けなさと不甲斐なさを強めた自分に、当時よりずっとずっと泣けて来る。私は、いつになったら向こう側へ行けるのだろうか。

コンサートのアンコールは「Another day of sun」。改めて聴くと、オープニングのこの曲が、この映画の全てを語っている。

夢を追う若者の群衆が、現実に対して必死に目を瞑る様に、笑顔いっぱいで全身で踊る。打ちひしがれて傷付いて、おまけに手に入るかも分からない、それでもどうしようもなく魅了されて追いかけてしまう。

夢には、人間には、そんな偉大な力がある。

何度も何度も粟立ちを覚えながらのコンサート版の鑑賞。何度観ても発見があるのが映画だなあ、と嬉しくもなる。

しかし、マスクの中では涙と鼻水が洪水を起こし、過呼吸寸前に。布マスクは水分による変色が甚だしかったが、それは自らのこの4年という時間に対する涙と色褪せでもあるかもしれなかった。

命燃やして、ちゃんと生き切りたい、な。

『ラ・ラ・ランド』を初めて観た2017年3月1日の日記を読み返してみた。TOHOシネマズスカラ座/みゆき座に、2つ前の彼氏と観に行ったらしい。

そこには、こうあった。

大切な人の為に自分を犠牲にするのではなく、大切な人の為に自分を全う出来たらなあって。
愛に生きるも夢を貫くも、愛を手放すも夢を捨てるも、ぜんぶ尊い営みだ。
私はまだまだ夢にも愛にも焦がれてる。
もう暫くは、若くあっても良いのかも。
どうして私はあそこに居ないんだろうと、いつもそこに立ち返るじゃない?
選択を恐れないこと。
それでも後悔はちょっとずつ積まれて行くだろうから。
全ての選択が必要なものだったと信じたい。
そういう生き方をしたい。

「唯はどうすんの?」そう聞いてくれた、26歳の彼と、それに答えられなかった24歳の自分とを思い出している。

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