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『彼らが本気で編むときは、』を観て

まぶたが落ちたのは随分と遅い時刻だったのに、どうしてだか普段より早くに目が覚めてしまった。二度寝をしたら友人とのお昼の約束に間に合う気がしなかったから『彼らが本気で編むときは、』荻上直子監督(かもめ食堂、めがねなどの監督)、2017年公開を観た。

私は小さい頃から涙もろいタイプで、たとえば小学生の頃に地域のお年寄りから戦争体験の話を聞いた時など、クラスいち熱くて涙もろい藤原くん(仮名)と私の二人だけがその授業で涙を目にいっぱいためてしまうくらいには涙もろい(藤原くんは鼻を真っ赤にするくらい大号泣していたのでそれよりは幾分、涙を堪えることが出来るタイプではある)。あれから十年以上が経っても相変わらず、心が震えるとぼとぼと涙が零れてくる。『彼らが本気で編むときは、』も序盤から目頭が熱くなり、くしゃくしゃのティッシュペーパーの山が出来た。こんなに心が揺さぶられたら言葉にせずにはいられなくて感想を書き連ねたい。公開から日が経っているので、多少ネタバレも含むので、嫌な人はここでおしまいしてね。言ったからね、もうあとは自己責任だよ?いい?


あらすじは検索したらヒットするので暇な人は検索してください。私なりにさくっとまとめると、ネグレクトされている小学生の女の子が、トランスジェンダー(MtF)とお付き合いをしている叔父さんの家に転がりこんで3人で生活していくというお話。びっくりするような大事件が起きたり、紆余曲折を経て最後はみんなハッピーエンド!あるいはバッドエンドだったりする壮大なお話ではない。ただそこに人がいて、また別の人がいて、それぞれの人たちの関わり合いの中で毎日が、生活が過ぎていくお話。これは私の物語であると同時にすべての人の物語でもあるように感じた映画だった。(MtFとは:Male to Female、生物学的性別は男性で性自認は女性であり性別移行を求める人)

メインの3人を軸に、女の子のお母さん(=おじさんの姉)との母と娘の関係。姉・弟そして介護施設に入所している母親(=女の子の祖母)との家族の関係。女の子の同級生の男の子(セクシャリティ(自分はゲイであるかもしれない)に揺れる)との友人関係。複雑なセクシャリティを持つ子供と親との関係、とたくさんの人たちが出てくる。そのどれもに【私とは何者か】【他者とは何なのか】を考えるヒントを少しずつ与えるような形で物語が描かれていた。印象的だったのは自分の子供が自分の理解を超える存在であることを受け容れられる親と、(少なくとも映画の中の場面では)そうでない親のシーン。どちらが正しいとか正しくないだとかそういう批判めいた視点ではなくて、ただそれを映し、見る人に【あなたは物事をどう捉え、どう向き合うのか】を真っ直ぐに問うてくる映画だった。それは見ていて時に苦しく逃げたくもなるし、たまらなく愛おしく温かい心地になることもある。どうしようもなく心が締め付けられる瞬間だった。

他にもぐっとくる場面はたくさんあった。私が好きだなぁと思ったのは、女の子の祖母(おそらく認知症)が母親によく口ずさんでいた歌を、認知症になった今も諳んじることができ、また女の子も母親からの愛としてそれを口ずさむのことが出来るのを描いたシーン。トランスジェンダー女性が体の工事(胸を大きくしたり、男性器を女性器へと手術したり)は終わっても、骨ばった大きな男性的な手にコンプレックスを抱いているシーンのしばらく後に、彼女の勤め先の介護施設にいる(これまたおそらく認知症の)おじいちゃんがそんなことも知らず、手を握り『この手は心が美しい人の手だね』と優しい声で話すところとか。台詞自体は目に見えるというか、とびきりキラキラして素敵な言葉が多い訳ではなく淡々と静かに進むのだけど、それを口にする時の登場人物それぞれのまなざしが繊細で抱きしめたくなった。細かいところまで本当に、丁寧に、描こうとしているのが伝わってくる映画だった。


この映画を観終えた直後は心がぐちゃぐちゃで、気持ちを上手く言語化することが出来なかったし、今も感想を言葉にすることに困難を感じている。でも何か言葉にしたくてキーボードを鳴らす。私は一人ではとても生きていけないし、生きていく上で他者との関りは避けようがない。だからもし私の理解を超越するものに出会った時、私は誠実にそれに対峙できる人間でありたいと強く願う。私は私の思い込みで人を傷付けたり、悲しませたるすることもある未熟な人間だということを忘れないようにしたい。でもだからこそ、一つでも多くのことに丁寧に向き合いたい。

きっと生きていくことは、時に痛みを伴い、時に幸福に笑みがこぼれるような毎日の生活を送っていくことなのだ。そこにドラマティックな出来事がなくとも。


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