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<書評>『パウル・クレー 造形思考への道』

 『パウル・クレー 造形思考への道』 ウェルネール・ハフトマン著 西田秀穂・元木幸一訳 美術出版社 1982年(原著は1957年)

パウル・クレー 造形思考への道

 20世紀に登場した数々の前衛芸術家の中で、コンポジション(構成、造形)と称される抽象絵画を中心に活躍したクレーについての研究書。クレーはまた、まるで書家のような筆使いの、一種プリミティヴな作品も晩年に多く残している。

 本書はクレーの芸術家としての歴史を追っているが、その過程でキュビズム、未来派、バウハウス、ダダイズム、シュールレアリズムといった、20世紀初頭の芸術運動の解説を同時にしており、これが意外とわかりやすくて良い。

 ところで、クレーが音楽一家に生まれ、バイオリンの演奏で子供時代は活躍していたという経歴は、音楽と絵画との共通点を見る思いがして、非常に興味深かった。またクレーの作品には、音楽的要素があると思っていたが、まさにその通りだったことに驚いた。私は、常々線描と色彩からは、音楽が聞こえてくると思っているのだが、クレーという偉大な先達がいたことを知って、とても嬉しい。

 例えば、ギュスターブ・モローの「ムーサイ」という作品があるが、これはギリシア神話における芸術の女神たち=ムーサイ(単数はムーサ、また英語のミュージックの語源)を描いたもので、白い地紋を残しているため、ちょっと未完成に見える作品だ。しかし、私はこの絵を見るたびに、そこから美しい音楽が聞こえてくるのを感じる。白く塗りのこした地紋という余白があることで、荒々しい筆使いの色の洪水が反響しあう余地が生まれ、そこから音楽が聞こえてくるのだ。この音楽に近いのは、モーリス・ラヴェルの管弦楽(例えば「ボレロ」、「亡き王女のためのパヴァーヌ」)だろうか。

ギュスターヴ・モロー 「ムーサイ(ミューズ)」

 私は、このようにクレーの作品に自分の感受性と近いものを感じていたので、その秘密を知りたいと思い、本書を買ったのだった。そして、今読み終わったときに、もっと早くに読んでおきたかったと後悔した。時間がないといわずに、買ってすぐに読むべきだったのだ。そういうわけで、美術関係ではかなりの良書だと思う。その中で、私が関心を惹かれた部分を列記してみる。(注:下線及び太字は、私が強調するべく行ったもの)

P.72
「一つ一つの現実の地平――室内と屋外、遠近の関係、実際に見えているものと夢見ているもの――は、相互に浸透しあい、同時的にキャンバスの上に描写され、そして芸術的感情移入により融合させられて、一つの新しい統一体を形造るのである。未来派の芸術家の課題は、複合の、一つの新しい現実を構成することであり、外面的現実のもろもろの対象は、この新しい現実のために造形的な類推を提供するにとどまるのである。したがって未来主義とは、可視的なるものの絵画的な記号と、知識として知っているもの、聞こえてきたもの、感じられたもの、記憶にあるものなどの絵画的な記号を相互に混ぜ合わせ、そしてそれらの絵画的な記号全体を、対象が有するもろもろの運動傾向から引き出されるさまざまなダイナミックな力線によって動かすという方法で、現実体験の完全性を描写しようとする造形理論である。これらの理念は、クレー自身の思考にとって、もっとも好都合な裏書を提供するものであった。」

P.149
「彼(クレー)は画家に向かって、助言する『自然の創造の道程を、形態の生成過程、形態のさまざまな機能を跡づけるようにしなさい。それが最良の学校です。そのときおそらくあなたは、自然を手本に自分なりの造形行為が身について、いつの日か、あなた自身が自然となり、自然のように制作し始めることでしょう。』。」

P.154
「特殊な器官をもってすれば実証することも可能な、全体への完全なる帰属性というクレーの思想は、地上的なもののうちに、人生と自然において、しだいに確率と公算とを増してゆく。多くの点で、それは真直ぐに、すでにノヴァーリスが考えていたつぎの思想に通じる。人間はもしかすると絶対に孤立した生き物ではなく、世界と呼ばれる別の、より大きな一つの生き物の小部分か器官、乃至は寄生動物にしかすぎないのではないか。・・・自然のきわめて些細な細部のうちに、やはり全体の立法と符合するさまざまな法則が繰り返されている事実、その結果、全体の、宇宙全体の秘密がわれわれをも貫いているということ、いやむしろ、われわれ自身によって、われわれ自身の裡にこそ見出されうるものだということを。ここでは、矢は下の方を目標にしている、が、その下の方からもまた、われわれにねらいをつけている何かが存在するのである。」

P.158
「(ハイデガーの芸術理論に続けて)クレーの全努力は、神の創造行為を自分の内部で繰り返すことに向けられている。そうした行為を通じて全体を理解する一方、この知識にもとづいて、新たに創出された物として全体の環におさまり、また付け加えるところがある造形物を制作するために。だからクレーは、自然を、模写再現するなど金輪際できぬことなのである。自然は、彼の裡に存在し、彼自身が自然なのだ。自然は彼の掌中にある。自然は彼の全身に浸透する。だから自然は、運動や所作として、身体感覚として、或いは舞踏家が描き出す運動のアラベスクのように、ときには抽象化された形で、リズミックに現れることも起こるのである。」

P.176
「ところで、人間の精神は、常に、一切のものを自分に同化しようと努めるので、表象能力が活動し始めて、それは、しみ、裂け目、凝塊から、対象的なものへの方向をとりがちな一つの解釈を考え出す。すると突如、壁から絵が姿を現して、われわれをじっと見つめる。しかもこれらの絵は、われわれと何らかの関係を持っているのだ。なぜなら、われわれの想像力はそのつど、われわれの心情の状態、われわれの気分――要するに、われわれの無意識なるものの状態――を反映するからである。これこそ、今日広く知られている近代心理学の試験法。しかしながら、このことは、画家たちにはずっと古くから知られているのである。・・・例えば、弟子たちに、雲のさまざまな造形を観察し、そこに対象的なるものを識別しようとするように勧めたレオナルド。フィレンツェの居酒屋で唾をはきかけられた壁に、素晴らしい絵を見たピエロ・ディ・コジモ。或いは、竹の小屋の黴がしみついた壁から、風景画を考案することを勧めている、十一世紀のあの有名な中国の画家、宋迪。宋迪の言によれば、そのとき、その結果は『地上のものではなく、天上のもの』となる、と。」

P.181
「この(神秘学などの)標章は、簡略化し、また濃縮化した形で、その背後に横たわっているものを引き合いに出す、いわば、意味の秘密を見つけ出す地点を指す道標である。しかし、発生時にあっては、その標章は、個々の同時的な知覚、理念、感情のきわめて濃密な総体である。今日では、あらゆるものが、眼に見えるようになって、秘境的な狂信から解放されている。クレーやグリスの対象的な発見物、それらは、あの標章と同じ呼び寄せの力をもっている。それらは、現実世界では直接対応するものの何ひとつない新しい客体として生じ、まったく自動的な造形行為が無意識に向かう総体であり、窮極の記号なのである。その呼びかけは、われわれ観察者に鍵を与えて、われわれに、絵の生成の全道程、絵の誕生の歴史を跡づけ、そして芸術的感動の出発点に到達する能力を与えるのだ。われわれは、その形成物を『理解する』。すなわち、その伝達を受け取るのである。」

 私の協調した部分を並べていくと、そこにはユング心理学的な解釈が前提にあることがわかるだろう。そう、クレーの作品は、ユングの述べる集団的無意識を可視化したものであり、それはまた古代から、魔術あるいは錬金術として行われていたこと(マクロコスモス⦅大宇宙=自然⦆とミクロコスモス⦅小宇宙=人間⦆との関係を強化する)と同様なのである。そして、それらが目的としていること(つまり、錬金術でいうところの「哲学の卵」を得ること)は、仏教の大悟と同じ「無心」となること、すなわち「自然」と「自分」が一体化することなのだ。


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