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<短編小説>ヴィヴァルディ『四季』協奏曲第4番「冬」から

 ヴィヴァルディの『四季』と言えば、出だしのところしか知らない人が多いと思う。同様に、ベートーヴェンの第5交響曲やチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番も出だしのところはよく知られている。またCMやドラマなどにもしばしば使われる。一方、ベートーヴェンの第9交響曲は、出だしのところではなく、最後の第4楽章(特に合唱部分)が有名だ。そこが最も盛り上がるように出来ているからだ。同様に出だしが有名なベートーヴェンの第5交響曲やチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番も、実は最後の楽章が盛り上がるように作られている。もちろん、『四季』もそうだ。

 従って、他の作品同様に『四季』が最高潮になるのは、誰もが知っている第1番「春」よりも、最後の第4番「冬」だ。そこには、ヴァイオリンの超絶技巧のソロを聴かせるパートもあり、『四季』のフィナーレを飾るのに相応しいものになっている。ただ、残念なことに、出だし部分のようには知られていない。

 ところでこの『四季』の「冬」は、冬の寒さや厳しさを表現していると一般に理解されている。しかし、私にはそのようには感じられない。季節の「冬」というのではなく、もっと奥深い、季節の印象とは異なる、人の普段の生活から染み出てくるような味わい深い情感が、音符に載って心の深層に突き刺さってくるように感じる。そして、それを古代や中世の小さな物語に表現してみたいと思った。それがこの小品である。


第一章 アレグロ・ノン・モルト(快活に しかし速すぎない)

 <アポロンとキューピッドの弓矢比べ。そしてアポロンのダフネへの恋。ダフネの月桂樹への変身。>

 アポロンは、自他ともに誰もが認める弓矢の名手として、この世界で知らぬものはいなかった。他の誰と競っても、アポロンは必ず勝つ自信があった上に、実際アポロンに勝てる弓矢の使い手はいなかった。

 一方キューピッドの名は、ビーナスとともに恋愛の神としてよく知られているが、彼はまごうことなき弓矢の名手である。しかも、狙った相手を外すことはない。その弓矢の使い手としての腕前は、けっしてアポロンに負けぬと、キューピッドは日頃から自負していた。

 しかし、両者の弓矢は使い方が違っていた。アポロンの弓矢は戦いや狩猟のときに力を発揮するが、キューピッドの弓矢は恋愛のときに力を発揮する。そして、キューピッドの矢が二種類に分かれていることは意外と知られていない。キューピッドの人を恋に陥らせる鏃は金でできていた。もうひとつの鉛の鏃の方は、恋に陥ることがない心にしてしまうためのものだったのだ。そう、キューピッドは恋愛を生じさせる神であるとともに、恋愛を不毛にする神でもあった。

 ある時、アポロンとキューピッドが互いの弓矢の腕を自慢しあった。そして、優劣を決めるべく、互いの弓矢の技を競い合った。その結果、アポロンはその輝かしく美しい外見同様に、この競争に勝利した。美丈夫の青年であるアポロンに対して、子供でしかないキューピッドは、弓矢の勝負で負けたことをとても悔しがった。そして、アポロンに自らの弓矢で仕返しをしてやろうと考えたのだった。

 キューピッドは、まず金の鏃でアポロンを狙った。弓矢は見事に命中し、その瞬間からアポロンは、美しく若い乙女に激しい恋情を抱く日々が始まった。そしてキューピッドの仕返しは、これだけではなかった。美しい乙女であるダフネには、鉛の鏃を射たのだった。純情可憐な乙女であるダフネは、その瞬間から、自分に言い寄ってくる男を忌避するようになってしまった。

 そうしたある日、運命はアポロンに対して美しいダフネの姿を見せてしまった。アポロンはたちまちダフネに激しい恋情を抱き、逃げるダフネの後をひたすら追った。美青年であるアポロンは、常日頃妖精や女神たちから賛美されていたので、自分の恋情を拒む女性がいることが信じられなかった。それに加えてキューピッドの金の鏃が当たっていた。アポロンの激しい恋を止められるものは、何もなかった。

 しかし、ダフネはアポロンからひたすら逃げた。どこまでも追ってくるアポロンから、とにかく逃げることしかダフネの心にはなかった。そのうち、どうしようもなくなったとき、わが身を河に投じて、自分の父である河の神ペネウスに救いを求めた。「お父様、お父様のお力で私を他のものに変えてください」とダフネが力の限り言葉を振り絞ると、父ペネウスは愛しい娘の願いを聞き届けた。

 その瞬間、美しい乙女の姿は、一本の木に変身していた。その木は、これから月桂樹と呼ばれることになる木だった。アポロンは、河のほとりにきて、追い求めていたダフネが月桂樹に成り果ててしまったのを知った。アポロンは月桂樹を抱きかかえて、長く嘆き悲しんでいたが、乙女が元の麗人の姿に戻ることはなかった。

 そのためアポロンは、月桂樹の葉が生い茂る枝を切り取りとると、それを曲げて冠にし、自らの豊かに波打つ髪の上に載せた。こうしてダフネがいつも近くにいることを感じたかったのである。

 アポロンは、心身健康な青年の象徴でもあったから、ギリシアの地で毎年開催される競技会の勝者には、この月桂樹の冠が贈られることになった。その背景には、このダフネとの哀しい悲恋の物語があった。

第二章 ラルゴ(ゆったりと)

 <プロメテウスが、ヘパイストスから火を盗み、人間に与えること。プロメテウスの人間への親愛とヘパイストスのプロメテウスへの親近感。>

 プロメテウスは、ティターン神族の一人だったが、オリュンポス神族との戦いに際しては、ゼウスに味方した。なぜなら、「先に語る者」という名前を持ったプロメテウスは、ティターン神族がオリュンポス神族に負けることを知っていたからだった。

 プロメテウスは、オリュンポス神族の勝利を知っていたように、人間が地上に繁栄することも知っていた。そしてそのためには「火」が必要だった。プロメテウスは、ゼウスの息子であるヘパイストスが持っている火を盗みにいった。なぜなら、火を人間に与えることをゼウスから許されていなかったため、ヘパイストスから火を譲り受けることができなかったからだ。

 こうして、ティターン神族としての大きな力を持つプロメテウスは、ヘパイストスの持っている火の一部を難なく盗み取った。しかしヘパイストスは、プロメテウスに火を盗まれたことに大いに怒り狂うことを意外にもしなかった。怒りはしなかったヘパイストスだが、忠実な息子として、プロメテウスに火を盗まれたことは、父ゼウスに報告した。ゼウスは、プロメテウスを岩に縛り付け、大鷲に肝臓を食べさせる刑罰を与えるよう、ヘパイストスに命じ、彼はこれを忠実に実行した。

 刑罰を与えるときヘパイストスは、プロメテウスに対して、「なぜこんなことをしたのだ」と改めて聞いてみた。プロメテウスは「人間たちのためだ」とだけ答えた。ヘパイストスは、さらにこの問答を続けた。

ヘパイストス「なぜ、そんなにしてまで人間を助けたいのだ」
プロメテウス「人間が好きだからだ。そして、人間はこれからこの世に満ち溢れて、我々を助けてくれるだろう」
ヘパイストス「お前にはそれがわかるのか」
プロメテウス「もちろんわかる。そして、俺が解放されるときも、またその方法も知っている」
ヘパイストス「ゼウスの世が終わるというのか」
プロメテウス「やがて、人間の時代が来る。そして、そんな人間が俺は好きなのだ」
ヘパイストス「実は、俺も人間が好きだ。あのすぐに壊れそうな弱さが、とても愛おしい」
プロメテウス「他にも好きなところが、お前にはあるはずだ」
ヘパイストス「そうだ、そしてそうした人間を助けるお前がうらやましい。俺も人間を助けたい。なぜなら、人間には互いを愛する心があるからだ。俺はそれを大切に慈しみたい」
プロメテウス「俺には、そんなことは全てわかっている。だから、人間に火を与えた。そして、この刑罰を甘んじて受けている」
ヘパイストス「そうか、お前は全てわかっているのだな。では、俺はお前の刑罰が終わるまでどこかで待つとしよう」

 ヘパイストスはこういうと、静かにプロメテウスが刑罰を受けているところを立ち去った。プロメテウスは、ヘパイストスがまた戻ってくることを知っていた。それまでは、この未来永劫に続くような刑罰を受けるだろう、だがそんなことはどうでもよかった。そう、ゼウスの世を終わらせる、ゼウスと人間との間に生まれた英雄ヘラクレスの姿を見られることが、プロメテウスにはとても楽しみだったからだ。そして、そのときにヘパイストスは、どんな顔をして自分に会いに来るのだろう。

 そう考えていると、自らの肝臓をついばむこの大鷲の姿さえ、プロメテウスにはなぜか愛しく感じるのだった。「そうだ、そうやって人間の世が来るまで、俺の身体を喰らえ。そして、人間たちに新たな力と知恵を与えるのだ」とプロメテウスは、大鷲に向かって叫んでいた。その声は、隠れて見ているヘパイストスの耳に聞こえていた上に、天に住むゼウスにも聞こえていた。

第三章 アレグロ(快活に)

 <「聖母の軽業師」の物語。軽業師の姿を見た修道院長が驚く。>

 その軽業師は、老齢のため人前で軽業を見せることができなくなり、引退していた。しかし、隠居する先も家族もいないため、村の修道院に入れてもらうことにした。

 この修道院には、同じように社会での役割を終えた老人が多くいたが、皆それぞれが、社会で活躍していた頃の職業をもとに修道院で活躍していた。例えば、大工は家具などの修理、左官屋は壁の修理、料理人は毎日の食事の手伝い、お針子は衣服の繕いもの、農夫は畑仕事、木こりは薪集めなど、様々なことで聖母マリアのために役にたっていた。そして、そうやって役に立っていることを、皆誇りにしていた。修道院長も、そうした人々に対して「マリア様もお喜びになっています」と、大いに称えていた。

 ところが、軽業師には軽業以外なにもできることはなかった。大工仕事や壁の修理はできない。農作業も木の伐採もできない。料理もだめ、裁縫もだめ、とにかく役に立つことは何ひとつもできなかった。

軽業師は、修道院長や修道院に入れてもらった他の者たちに、日頃の生活を世話してもらっていたが、そのお返しをすることすらできなかった。ただ、皆からの世話と聖母マリアの慈悲に甘えるだけの生活を送っていた。

 軽業師は、そんな自分自身がとても情けなくなってしまい、せめて何か聖母マリアのためにだけでも自分にできるものはないかと、毎日思い悩んでいた。そうしたある晩、自分にできることはこれしかないと思いつき、深夜にこっそりと部屋を抜け出して、誰もいない聖母マリアのいる聖堂に入って行った。

 そして軽業師は、聖母マリアの前で一礼すると、「おれには、これしか献身できません」と小さな声でつぶやいた後、若いころから身体中に染みついてる軽業を次々と披露していった。ある時はバック転して、逆立ちし、またある時は足で玉を転がし、沢山のお手玉を投げ分ける技を披露した。若いころに比べると、技のキレは衰え、テンポも遅くなったが、それでも失敗することもなく、軽業を見せることができた。むしろ、誰も見ているものがいないという安心感が、軽業師の気持ちを軽くしていたのかも知れない。

 こうして軽業師は、毎晩聖母マリアに向かって、必死に軽業を見せ続けた。そして、なぜかこうして軽業を見せているときだけ、自分が何もできないという後ろめたさが消えていた。自分が何かをしている、できているという安心に似た気持ちが強くなっていた。だから、たとえ疲れていても、病気でも、この聖母マリアに捧げる軽業を休むことなど、考えもしなかった。

 それから幾晩か経ったころ、修道院長の耳に「あの、なまけものの軽業師が、毎晩こっそりと聖堂に入って、しばらく出てきません。きっと、何かよからぬことをしているにちがいありません」という告げ口が入ってきた。修道院長は、普段から軽業師が何もしないでいることに不満を持っていたので、悪行の動かぬ証拠をこの目で見つけて、ひどく懲らしめてやろうと思い、ある晩、聖堂の大きなドアに一人でそっと近づいていった。

 修道院長が聖堂に近づくにつれて、普段は静かな聖堂の中から、どうやら軽業師が何かをやっている音が聞こえてくる。また、軽業師の激しい息遣いも聞こえる。「これは益々怪しい、きっと聖母マリアによからぬことでもしているに違いない。まったくとんだ不信の輩だ」と、益々憤慨しつつ、聖堂の大きなドアの隙間から、そっと中を覗いてみることにした。

 すると、そこには、聖母マリアの前で必死に軽業をしている軽業師の姿が見えた。もう老齢であるため、とても人前で見せられるような立派なものではない。修道院長の目から見れば、これではお金を稼げないだろうと思われるような失敗をする姿も見えた。しかし、軽業師が心を込めて一所懸命にやっていることは、遠いドア越しにも強く伝わってきた。そして、軽業を続けるうちに軽業師の額に汗がにじみ出ているのが見える。それを見た修道院長は、「そうか、奴は聖母マリアに軽業を見せていたのか。それにしてもおかしなことをするものだ」とつぶやいたが、その直後に修道院長は、思わず自分の身体が硬直してしまっていることに気づいた。

 聖母マリアが、聖堂の奥にある台座から、ゆっくりと軽業師のいるところに降りていき、自らの清らかな衣の裾を持ち上げて、軽業師の額の汗を、やさしく拭っていたのだ。聖母マリアからの至上の愛を受け取った軽業師は、その瞬間に身体中の力が抜けていき、聖堂の床に倒れこんでいった。よほどうれしかったのに違いない。軽業師の顔には、大きな微笑みが浮かんでいるのが良く見えた。そうして、聖母マリアが見守るそのそばで、軽業師の身体から、何か光り輝くものがゆっくりと昇天していくのを、修道院長は見た。

 修道院長は、深夜の聖堂の大きなドアの前でひざまずき、必死に震える両手を合わせて祈り続けていた。やがて、修道院の中には暖かな日差しが入ってきた。まるで、聖母マリアの慈愛のような暖かさだった。



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