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<散文詩>「前奏曲集第1巻」

 クロード・アシル・ドビュッシー作曲「前奏曲集第1巻」から,その各曲の題名と曲想をイメージした散文詩を作ってみた。これは,ドビュッシーの世界でもあり,私の世界でもある。


1.デルフィの舞姫

老夫婦は,エーゲ海の小さな島を訪れた。
デルフィという名の島だった。
二人は言葉を交わすこともなく,
島の中央に残る古代の神殿跡を目指した。

神殿跡には,
腰掛けるのにちょうどよい大理石があった。
二人はそこに腰掛けて,目を閉じ,
言葉にしなくともわかっていることを思い描いた。

二人には,昔一人の娘がいた。
その娘は,踊ることが好きだったが,
若くして死んだ。
二人には,娘以外の子供はいなかったので,
娘のことをずっと思っていた。
それだけで,二人は残りの人生を生きてきた,
いや生き延びることができた。

やがて,デルフィの島には
エーゲ海の美しい夕焼けを輝かせる,時間が訪れた。
神殿跡に暗闇が少しずつ訪れるに従って,
二人はある映像がそこに浮かんでいることに,気づいた。

古代ギリシャの衣装をまとった,巫女のような踊り子だった。
踊り子は,まるでそこにいる二人に見せるように,優雅に踊った。

「あっ」と,二人が気づいたとき,
踊り子の顔は,遠い昔に亡くした娘そのものだった。

2.ヴェール(帆)

ナイルはいつでも,優雅で静かだ。
特に,そこに人が来て,生活するときには。

ナイルにいつものように,霧に包まれた朝が来た。
その日の霧は特に深く,人の姿を見分けることが難しかった。

ナイルに,いつもそうしているように,一艘の小舟がこぎ出した。
朝霧の中を,霧を裂くように,また朝霧の風を帆に受けて,
小舟は,対岸にゆっくりと進んでいく。

まるで,印象派の絵画のような光景が,
そこにはあった。

今日も,昨日と同じ一日が始まるのだろう。

3.野を渡る風

ヨルダンの南に,ワディラムという荒野がある。
地球のものとは思えない,砂と岩だけで作られた世界だ。

それでも,人は住み,泉は湧く。
ワディラムの荒野に,風が吹いた。

赤い砂が渦巻き,遠くの岩山も,人の姿も,姿を隠す。
遠い昔,アラビアのローレンスが見つけた泉がある。

人は,砂嵐が止むのを待って,その泉に向かう。
わずかばかりの水だが,
それは,人が生き延びるための,命の水だ。

ワディラムの荒野に,また砂嵐が吹き始めた。

4.夕べの大気に漂う音と香

南の島,ボルネオ。
コタキナバルの海岸沿いのレストランには,人が溢れている。

その,雑踏の音。
そして,海岸から,打ち寄せる波が漂わせる,海の香。
レストランの調理場からは,油と炎の香りが強く主張する。

さっきまで生きていた,エビや魚は,炎で調理され,
レストランの人々は,ただ楽しく生きるために,料理を食べる。

南シナ海に,夕陽が沈む。
レストランの人も,炎も,休むことは知らない。

海も街も,港も店も,すべて暗闇に包まれた中で,
人は,食べ,話し,灯りは煌々と照らされる。

その音と香が,漂うように南シナ海に溶け込んでいく。
まるで,波の音と磯の香以外は,何もなかったように。

5.アナカプリの丘

ここはスペインの南の端,マラガ。
マラガには,アナカプリと同じに,海から見える丘がある。

丘には城跡があり,そこからは地中海がきらきらと海面を反射させている。
船がある。古めかしい帆船だ。帆が,出港を待って風を受けている。

港には,遊覧船やクルーズ船が泊まり,人々が賑やかに散策している。
地中海の爽やかな太陽の下,大道芸人が音楽を奏でる。

街には,ピカソの生家がある。
そして,ピカソの銅像がベンチに座っている。
その側で,若い踊り子がマラゲーニャを踊っている。

観客は一人だけだ。
踊り子に親しげに話しかけている。
彼女も,ピカソのように有名になれるのだろうか。

公園近くにあるレストランのテラスには,オレンジの樹がやさしい木陰を作っている。
その木陰で,スペインのビールを飲んだ。

どこか遠くから,マラゲーニャのダンス音楽が,また聞こえている。
きっと,丘の上からは,既に出航した帆船の大きな帆柱が見えていることだろう。

6.雪の上の足跡

ブカレストに初雪が降った。
一晩でかなり積もった。
近くのヘラストレイ公園を散歩する。
朝の冷気に,人の姿はない。

降ったばかりの雪の上に,猫の足跡がある。
そこにも,ここにも。
秋までは,昼寝する木陰や昆虫の餌も沢山あって,
猫には最高の居場所だったのだ。

冬が来て,猫たちはどこへ行ったのだろう。
足跡を辿ってみようと思ったが,それは途中で降った雪に消されていた。

まさか,雪とは反対に,空に昇ったわけではないだろうが,
きっと,今頃は暖かい屋根の下で,ぬくぬくと休んでいるに違いない,
そう,願っている。

7.西風の見たもの

キーウェストは,US1の終点で,そして始発だ。
ニューヨークから南へ延びる道は,途中7マイルの海の上にかかる橋を抜けて,
キーウェストのゼロマイルポイントで終わる。
そこから先は,緑色したカリブ海しかない。

ヘミングウェイは,ここに家を構えて,
次々と作品を発表するとともに,奥さんも次々と代えていった。
そして,コロニアル風の家の外には,沢山の猫が住んでいた。
それが,今でも,そこにいる。

キーウェストには,カリブ海の西風が吹いている。
太陽の香りと,コンク貝の香りとともに,
ビーナスの香りを含んだ風が,猫たちの身体を撫でる。

猫は皆,気持ちよさそうにして,そこに寝ている。
まるで,ヘミングウェイの奥さんたちのように。

8.亜麻色の髪の乙女

幼稚園に入る前,同じ4畳半一間のアパートに,れいこちゃんという年下の女の子がいた。
同じ年頃の幼児ということで,一緒に遊んでいたが,何をしていたかは思い出せない。

あるとき,れいこちゃんの姿が見えなくなった。
母に聞いたら,れいこちゃんは熊本から東京に,お父さんの仕事の関係で来ていたので,また熊本に帰ったのだという。

「くまもと」というところが,そこがどこで,僕が今いる東京とどのくらい遠いのかは,まったくわからなかったが,もう会えないという寂しさは,今でも強く残っている。

その頃だろうか,TVで「さっちゃんの歌」というのが流れていた。
そして,最後の歌詞で「さっちゃんはね,とおくにいっちゃうって,ほんとだよ,だけどちっちゃいから,ぼくのことわすれてしまうだろ」というところになって,なんだかとても哀しくなった。

熊本のれいこちゃんも,遠くに行ってしまったのだと,僕はこの歌から教えてもらったのだと思う。
思えば,僕の最初の失恋だったのかも知れない。

9.途絶えたセレナード

昔,東京下町の小さな家が隣接した中にあった,もっと小さな僕の家。
隣の家には,小学生の女の子がいて,
いつも「ただいまー」と元気な声が,夕方に聞こえていた。
そして,いつも夕方から夜にかけて,練習する縦笛の音が聞こえていた。
きっと,学芸会の練習だったのだろう。毎日,必死に練習する姿が目に浮かんできた。

それから,何年経ったのだろう。
私がしばらくぶりに実家に帰ったとき,「ただいまー」の声は聞こえなかった。
その女の子は成長した後,花嫁として実家を出ていったのだ。

もう女の子の練習する縦笛の音は聞こえない。
女の子の「ただいまー」も聞こえない。

その当時は,東京下町の日常風景のひとつに過ぎなかったけれど,
今思い出すと,ちょっと暖かい気持ちになるような,
そんな笛の音が,耳の奥でずっと響いている。

10.沈める寺

ある夏の日。熊野古道に行きたくなった。
古道とはいうものの,今は観光用に整備されている。
それでも,石畳を巡るうっそうとした林の木々は,
昔からそこにあったように,生き生きとしている。

その一本一本の木や草を,昔この道を苦労して通った人たちは,
今の私と同じように見ていたのだろうか。

少しばかり歩いて行くと,
そこに少し開けた場所があった。
そこには大きな木々がなく,ただ草が生い茂るままの場所だったので,
気にしなければ,なんの変哲もない風景に見えた。

でも,少し目を凝らしてみればわかるように,
そこには,柱の基礎となっていた石がところどころにあり,
その大きさからは,小屋よりは大きな建物だったと想像できる。

それは,寺の跡だった。昔の人たちが建てた寺の跡だった。
そして,その真ん中は窪んでいて,雨が降ると小さな池になった。

池の中,水の奥底には,きっと寺の遺物が埋まっている。
もしかしたら,それは,鐘。

側を通り過ぎたとき,
その池の奥から,遠く,静かに鐘の音が聞こえてきた。

その鐘の音は,夏の盛りの蝉の声のように,山の中に染み入っていく。
その鐘の音は,人々の足音のように,山の中に分け入っていく。
その鐘の音は,昔からずっと変わることなく,鳴っている。
人々の心を安らげるように,山の精霊を慰めるように。

私は,その鐘の音に向かって,
静かに合掌した。

11.パックの踊り

シンガポールは,いつでも喧噪に包まれた街だ。
同じマレー半島の,のんびりとした長閑な時間が流れる街と同じじゃない。

オーチャードロード。
銀行やデパートやレストランや高級なブランド品の店が,その栄華を競い合っている中で,
昔からの食べ物の屋台や雑多な商品を売る店が,売り子とお客の区別がつかないほど,そこにひしめきあっている,大きな通り。

おしゃれで金持ちそうな人が沢山歩いている中で,昔からそのままの,変わらない中国風の衣服を着た老人たちが,当たり前のようにいる。そこには,二重の時間が流れている。

そう,シンガポールは二重の時間を生きている場所なのだ。
第二次大戦後にマレーシアから中華系の街として独立し,異様な経済発展を遂げて,世界有数の物価が高い街として生きている時間と。
マレー系,インド系,中華系が,おのおのの文化と習慣を守って,赤道直下の太陽の下で,平和に暮らしている時間と。

だから,オーチャードの通りには,いつでもこの二重の時間を自由に行き来している,妖精がいる。
その名前は判らないが,たぶんイギリス人なら,パックと名付けることだろう。

オーチャードの喧噪をそのまま音楽とし,オーチャードの雑踏をそのまま踊り場として,
そこかしこに,パックたちが,嬌声を上げながら,人々の間をかき分けて踊っている。

パックたちの姿が,このまま踊り続けられれば良いなと,
私は,ずっと願っている。

12.ミンストレル

東京の日比谷公園には,今日も鳥の声や街の騒音,そして人々の会話がこだましている。
それは,この公園ができた頃から今も,少しも変わらない音。そして,歴史の声。

公園の外れ近くにあるカフェが好きだ。
そこの花や木がよく見える外の席で,ゆっくりとビールを飲んでいると,
東京が持っている,長く豊かな歴史が,目の前で再現されるようで,
とても好きな時間だ。

東京の歴史はまた,大道芸人がやる寸劇のようだ。
次々と三流役者が出てきて,オチのない,ドラマ性に欠けた芝居を,繰り返し演じている。
でも,役者たちも,登場人物も,それを見る観客も,皆とても必死なので,
それが架空の芝居ではないことが分かる。

世界は一つの舞台と,昔シェイクスピアは言った。
東京は,その中でも人気のある舞台なのだろう。
役者も観客も,ずっと順番待ちをしている。

私は,そうした三文芝居をただ見るだけだ。
参加することはないし,参加したいとも思わない。

歴史の傍観者,芝居小屋の外から覗き見ている不届き者。
それが,私の心地よい立ち位置なのだ。

そんなことを考えながら,次のビールを口に運んだ。
日比谷公園のいろいろな音が,さらに強く聞こえてくる。
桜の花びらが散る音が聞こえるまでは,あとどのくらい待てば良いのだろう。

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