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ヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』から得た、生きる上で忘れたくないこと。

今回のnoteは私が人生で最も影響を受けた本、ヴィクトール・E・フランクルの「夜と霧」について、特に印象に残った2つのシーンについて綴ろうと思います。


ちなみにヴィクトール・E・フランクルはこんな人です。

ヴィクトール・E・フランクルは1905年に、オーストリア・ウィーンのユダヤ人一家の間に生まれる。ウィーン大学医学部を卒業後、ウィーン市立精神病院などを経て個人病院を開業した、前途洋々の心理学者、精神医学者。第二次世界大戦中の1942年9月37歳のときにナチスに連行され、強制収容所に抑留。「ホロコースト」は、第二次世界大戦においてナチスが多くのユダヤ人を虐殺した、人類にとって最大レベルの負の歴史。フランクルもまた、その被害者の一人である。

「夜と霧」は、フランクルが過ごした収容所生活のリアルな記録です。
かなりリアルな描写もあるので、読むのに心の負担が少しかかるかもしれません。私は一度は観ておきたいと思い、映画も観ましたが、少し落ち込んでしまいました。(他人より感受性が強いのもありますが….)

本の中にもいくつか印象的なシーンがあるのですが、今回は特に私が感銘を受けた2つのシーンをご紹介できたらと思います。

どんな状況でもユーモアを忘れない姿勢

フランクルがいた強制収容所の生活は想像に絶する環境です。
身体中の毛は剃られ、薄汚い服しか与えられず、ご飯もスープと1つのパンだけ。その状況で、何十時間と働かされ、耐えられずに毎日沢山の仲間が命を落としてしまう。

そんな過酷な環境の中で、フランクルは収容所で一緒に働く仲間にある提案をします。

「私は数週間も工事場で私と一緒に働いていた一人の同僚の友人を、少しずつユーモアを言うように教え込んだ。すなわち私は彼に提案して、これからは少なくとも一日に一つ愉快な話をみつけることをお互いの義務にしようではないかと言った」

『夜と霧』(V・E・フランクル[著] 霜山徳爾[訳] みすず書房)p132

フランクルは、仲間に「愉快な話」をしようと自ら提案し、収容所の監視官にされたことなどを題材にして、互いに笑いあいながら収容所の日々を送ります。


なぜ、こんなにも過酷な環境で、フランクルはユーモアを取り入れたのか。フランクルは、こんな言葉を残しています。

ユーモアもまた自己維持のための闘いにおける心の武器である。周知のようにユーモアは通常の人間の生活におけるのと同じに、たとえ既述の如く数秒でも距離をとり、環境の上に自らを置くのに役立つのである。

『夜と霧』(V・E・フランクル[著] 霜山徳爾[訳] みすず書房)p131-132

つまり、過酷な環境や辛い環境の中でのユーモアというのはその環境と数秒でも「距離」を取ることのできる行為であり、「自己維持」のために必要であるということ。

この本を読んでから、私自身も辛くなったり苦しくなった時こそ、できる限りユーモアを取り入れるように心がけています。
ちなみにこれは、組織のチームワークでもとても大事なことだと思っています。
仲間が仕事やプロジェクトで大失敗した時や、チーム内で重い空気が流れた時。
「まあ、生きてればそんなこともあるよね〜(笑)」
「これが初めてじゃないじゃん!(笑)」
「いやもう、これは歴史的快挙の失敗だね!」
なんて言ってくれる人が1人でもいると、本当に救われます。

私自身、かなりの注意欠陥なので電車の乗り間違えや、忘れ物、失くし物が本当に多いです。家に出る前は何回も確認してから出るようにしています。それでも、忘れたり、置き忘れたりしてしまいます。

今の家の鍵も入居して、1日目で失くしました。
同居人にどうしよう、怒られる…..と思って報告したら、怒るどこるか
「さすがゆかだね〜、今日も面白いネタ作ってくれるわ(笑)」なんて笑ってくれてとても救われました。

日々起こるトラブルや、大変なことも、できる限りユーモアに変換することで、周囲も自分も受け入れ易くなる。

ユーモアは、人の心を救う力があることをフランクルから学びました。

与えられた環境の中で、自分はいかに振る舞うのか。


もう一つ、フランクルの本の中で衝撃を受けたシーンがあります。
フランクルがいた環境は、充分な食糧もなければ、本当に自分のことでいっぱいいっぱいになる環境です。そんな中で、他者に思いやりの言葉をかける人、自分の生命も危うい時に、死にかけている仲間になけなしのパンを譲る人をフランクルは目にします。

どんなに悲惨な環境に置かれても、自らの尊厳を保ち続けようとする人がいることを知り、フランクルはこんな言葉を残しています。

人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない。

『夜と霧』(V・E・フランクル[著] 霜山徳爾[訳] みすず書房)

様々なものが奪われた辛苦の環境でも、「あたえられた環境でいかに振る舞うか」。
それだけは奪うことはできなかった。
それは、たとえどんな状況に置かれても、人は自分の意思で自分の人生を決めることができることを意味しているのではないかと思います。


これは、自分の日常でも当てはまることがあって、
自分のことでいっぱいいっぱいな時、余裕がない時、誰かに傷つけられた時、色々なことが上手くいかない時。

そんな時に、身近な人に八つ当たりすることもできるし、コンビニの定員さんに当たり散らすこともできるし、物をぞんざいに扱うことだってできる。

一方で、いつも隣にいてくれる人に「ありがとう」と感謝を伝えることもできるし、仕事仲間が助かることを率先して動くこともできる。

同じ「できる」ことでも、今自分が置かれている状況を悲観して、身の回りで発散するのか、今自分が置かれている状況を受け入れて、身の回りでできる自分の最善をするのか。

結局は、「自分はどう生きていきたいか」「どう在りたいか」を問われているのだろうと思います。


フランクルの本を読んでから、私は、ユーモアを忘れないことと、与えられた環境の中で自分はいかに振る舞うことができるのかという問いをを心の片隅にそっと置いています。


自分が死ぬまでに、アウシュヴィッツには必ず足を運びたいな。


それでは最後に、私が最も好きなフランクルの言葉を残して終わりにできたらと思います。

祝福しなさいその運命を。
信じなさいその意味を。



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