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ハッピーエンドが好きだった少年。

先日、私の高校時代からの友人に誘ってもらい、数年ぶりに舞台演劇を観に行ってきました。


舞台のタイトルは【チョコレートドーナツ】

2014年に公開された映画が原作で、物語の舞台は1979年のウェスト・ハリウッド。ゲイの男性が育児放棄された障がいを持つ子供を育てたという実話に元づいた作品です。


友人はもともとこの映画が大好きで、今回舞台が上演されると知り、観劇が好きな私に声を掛けてくれたのです。

とはいえ私は普段あまり映画を観ないので、この作品のことを知らなかったのですが、それでも観に行きたいと思ったのはとても単純な理由でした。


それは、作品のことを全く知らなかったから。


私は普段から映画や舞台など長編の物語については、タイトルやビジュアルだけで食わず嫌いすることが多く
見に行く舞台は決まって好きな役者さんや演出家さんの舞台や、2.5次元のような原作ありきの舞台だったり、劇団四季やブロードウェイミュージカルのような言わずと知れた有名な作品ばかり。

ハッピーエンドなのかバッドエンドなのか、ミュージカルなのかストレートなお芝居なのか、それすらもわからない状態で観に行くのは初めてのことで
なんだかそれがとてもワクワクしていたのです。

私はあえて当日まであらすじ以外の情報をまったく入れずに劇場に入ることにしました。先入観を持たず、よりまっさらな気持ちでお芝居にのめり込めるようにと。


知らないということは、時に不利に働くこともありますが、舞台鑑賞においてはある意味プラスに働くことのほうが多かったように感じます。

登場人物のありのままの感情をそのまま受け取り、同じように葛藤し膝のうえで拳を握りしめ、同じように涙を流しハンカチで涙を拭う。どんどんと1979年のウェスト・ハリウッドの世界に没入していく感覚がとても心地良かったのです。

おかげさまで余韻が全く抜けず、劇場を出たあとも涙が溢れそうになりました。
帰り道もふわふわとしたままの私は、物語の主人公ルディ、ポール、そしてマルコに思い馳せながら、ふと思ったことがあります。


知らないことを恥じるよりも、知りすぎていることに驕る方が恥なのだと。


ドラァグクイーンのルディはショーパブでポールと出会い、恋に落ち、ある時ルディの隣人の家で育児放棄されたダウン症の子供マルコを助け、二人でマルコを守るため監護権をめぐって裁判を起こします。

親に捨てられた過去を持つルディはマルコを守りたかった。しかし二人は男性同士のカップルであるうえ、マルコの親戚でもありません。そして何よりマルコはダウン症の子供。
世間の目はあまりにも厳しいものでした。

これがもしも男性同士でなければ、ルディが女性の姿で夜の仕事をしていなければ、マルコがダウン症を患っていなければ、そんなことにはならなかったのでしょうか。


無慈悲なランバート弁護士は言います。


”彼らは愛に飢えているだけだ”

”偽善者ぶるな”

”同性愛は教育において悪影響だ”


彼らを異端のように扱い、あたかも自分の言っていることが正義であるかのように、正論であるかのように言葉を浴びせました。


”マルコを救うことで自分の過去を救いたいだけだ”


ならば彼らの過去を苦しめた世間を作り上げたのはいったい誰なのか。


それは紛れもなく一般常識に囚われ、凝り固まった固定概念を知りすぎた私たち人間なのです。


私は常々世間に蔓延る一般常識というものに疑問を抱くことがあります。それは時に自分を守る盾となり、時に誰かに矛を向けることなり、一般常識というものは矛盾の代名詞であると思うのです。

マルコの監護権のために起こした裁判ではこの矛盾が如実に現れました。
相手方の弁護士であるランバートは、自分の常識、すなわち正義が正しいのだと弁論をし、ルディとポールを論破していきます。


それは彼らにとって残酷なことばかりでした。
ここで争うべきはそこではないというのに。


彼らはただマルコという一人の少年を家族に迎え入れ、愛し、一緒に暮らしていきたかった。裁判で決めるべきは「マルコにとってどこにいることが幸せであるか」ということだったはず。


裁判では弁論によって事実を擦り合わせ、正義を持って判決を下すもの。
だとするならば彼らの正義と、ランバート弁護士の正義を平等な状態にして話し合うべきではないのでしょうか。

しかしそこには世間に蔓延る暗黙の常識が邪魔をするのです。

常識とはすなわち、多数意見でしかないと私は思います。この世を生きる多くの人が生きやすいようにするために、人と人とがぶつかり合わないように決められたのが常識であると。

多数派が常識であるとするならば、それに苦しめられる少数派はこの世をどうやって生きろというのでしょうか。

いつだって私たちはこの天秤を傾けることをしないまま、隣の皿に分銅を分け与えることもしないまま、見て見ぬふりをしてきたのです。


(すみません・・・ここから盛大なネタバレです
先入観なく映画を見たい方はここで閉じてください)



最終的に裁判は可決される事はなく、マルコは施設に預けられてしまいます。
マルコは家族として受け入れてくれたルディとポールに、もう会うことができないと知り、その後施設を抜け出し彼らの元へ向かうことにしたのです。

しかし居場所のわからないマルコは凍えるような冬の寒さの中、路頭に迷い、ついに命を落としてしまうのでした。


物語の最後、ポールは彼らを苦しめた登場人物と、1979年のウェスト・ハリウッドの世界に迷い込んだ観客たちに向けて問いかけます。


「マルコが死んだのは誰が悪いのか」


きっとポールは犯人探しをしたいわけではなく
ただ知っていて欲しいのです。

マルコという少年のこと
彼を愛し守るために
世間と戦ったルディとポールのこと

そしていまだ拭い去ることのできない
偏見や世間の闇を。

この世の矛盾の天秤をフラットにすることはできないのかもしれないけれど、どちらかの分銅が少ないことに気づき、分け与えることはできるのです。

見て見ぬ振りはもうしてはならない。


そして最後に続けて、ポールは言います。


「マルコはチョコレートドーナツが大好きで、ハッピーエンドが大好きな子でした。このまま悲しい結末で終わってしまうのではなく、マルコのためにハッピーエンドでなくては。」


(すみません。ここら辺はもう泣きすぎて記憶が曖昧で、原文ままではありません。)


この物語をハッピーエンドで締めくくる。
そんなこと私にはできません。その時の私は悲しい気持ち残したまま、マルコのことを思い泣きながら笑顔で拍手を送ることしかできませんでした。


”ハッピーエンド”

私はそのことをずっと考えながら帰り道をぼんやり歩き、その答えを探したくてもう一度映画を見ることに決めました。
どこかで観られないだろうかと調べていると、日本版公開のポスターのキャッチコピーにこんな言葉を見つけたのです。


「僕たちは忘れない。
ぽっかりと空いた心の穴が愛で満たされた日々―。


私はこの言葉を見て、彼らの物語を悲観的に捉えたままだった自分を悔やみました。

マルコは育児放棄をされたダウン症の男の子で、悲しい結末を迎えた可哀想な子だったでしょうか。

そうではないのです。
彼らはほんのひと時でも本当の愛を知ることができたのだから。


マルコを心から愛したルディとポール
そして彼らを一身に愛したマルコ


それはもはや”偽善の愛”なんかじゃなく”無償の愛”


この作品は彼らの出会いと愛の物語なのです。


誰しも悲しい記憶はきっとある。それでも今を生きていられるのは、できるだけ楽しくて温かい記憶だけを心に留めて、生きる糧としているからだと思うのです。

マルコが最後に見た走馬灯はきっとそんな温かい記憶。優しい光に包まれて空へ向かっていけたと信じたい。


私が悲しい結末だと思うのは、彼らの思いに寄り添っていないからだと、そのとき気づいたのです。
ならば、やっぱりこの物語はハッピーエンドでなくてはならない。



今ここでやっと
私は心からの拍手を彼らに送ることができます。


どうか彼らに
少しでも多くの幸せが訪れますようにと
心から願いながら。


花崎 由佳

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