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紫がたり 令和源氏物語 第四話 桐壺(四)

桐壺 (四)

光る君にとって藤壺の宮と出会い、共に過ごした何年かがもっとも幸せな時であったことでしょう。それほどに初恋とは眩しいものなのです。少年が宮を想う心は、己を偽れないほどにじりじりと彼の胸を焦がします。
しかしいくら慕っても宮は父帝の后という遠い存在。
今のように気安く御簾の内に入れるこのままに時が止まってしまえばと願っても、初冠(ういこうぶり=成人)の儀はもう目前なのでした。

帝は愛児が成人となられることを感慨深く思い、一の皇子の時と見劣りするようでは困る、と念入りに支度を整えられました。
元服すれば一人前の男性として宮の側へは寄れなくなってしまうという煩悶と、父の思いを嬉しく感じる相対した心を抱える光る君は、年齢よりは大人びて見えたかもしれません。

成人を迎えたその日、みずらを解いて髪を削ぎ、冠をつけた光る君は源氏姓を賜りました。
皇子ではなく、ただ人として帝の臣下となったのです。
父帝は高麗人の人相読みを忘れたことはありませんでしたが、息子には帝という窮屈な身の上よりも、一人の男性として愛する人と幸せになる人生を歩んでほしいと願いました。
成人した光る君は十二歳と幼いながらも匂うように美しく、堂々と舞踏してみせる姿は立派で、かえってなまめかしく思われるようでした。
帝は亡き御息所がこの姿を見たらどんなにか喜ぶであろうと偲んでそっと涙を流されたのです。

儀式の後は別れが待ち受けているのを源氏もひしひしと感じます。
父帝の元でいつまでも皇子としていられたら。
あの輝く日の宮と笑いあい、元服などせずに後宮へ留まることができるならば、どれほど幸せであったことか。
さまざまな思いが逡巡するなか、帝は息子を側に呼びました。傍らにはまっすぐな瞳の忠臣らしい御仁が凛と背筋を伸ばして控えております。
「この日を迎え、亡き御息所も喜んでいられることであろう」
父帝のその御言葉に、源氏は臣下としてひれ伏しました。
「どうか覚えていてほしい。おまえを臣下には下したが、私たちの親子の縁が切れることはないのだ、御子よ。これからは環境も変わろう。私が信頼するこの左大臣がおまえを守り、導いてくれる。第二の父として尽くしなさい」
帝の信頼のこもった眼差しを受けて、左大臣は深く頭を垂れました。

帝は源氏の後見として左大臣を指名していました。
この大臣は見識もあり心映えも立派な人だったので、愛する息子を託すのに頼もしい人物だと考えられたのです。
左大臣も名誉のことと喜び、大切にかしずいてきた娘を源氏にさしあげることにしましたので、源氏は左大臣と共に御前を辞去しました。

ごとり、、、ごとり、、、と、牛車がゆるりと内裏を離れてゆきます。
それは源氏にとっては別離の道程。ただ人となった惜別の響き。
それと同時に未知の世界への畏れを掻き立てる音でもありました。
「源氏の君、そう身を固くされるな。これから参られる場所は鬼が棲むところではございませんぞ」
父帝の前では神妙な面持ちをしていた左大臣が、ふっと人懐こく笑む顔に源氏は安堵の溜息をつきました。左大臣という重々しい職に相応しい風格がありながら、まだまだ若々しく、力強い、頼もしい御仁です。
なるほど父帝が信頼されている御方である、と張り詰めていた糸が弛んだ気持ちでした。
「ありがとうございます。実は物心ついてから後宮より外に出たことはございません。いささか緊張しておりました」
「ほれ、あちらを。民草をご覧になるのも初めてではございませぬか?ちょうどここは朱雀大路という京の中心を分ける大路でございます。にぎわっておりますぞ」
左大臣が扇で示した御簾越しに外を覗けば、老若男女が闊歩する大通りを牛車がゆっくりと歩を進めておりました。
道の両脇には蓆の上に品々を並べて商っている農民らしき者たちがずらりと、あらゆる物が陳列されております。稗、粟、麦、葉物・根菜などの野菜や織物、竹籠いっぱいに炭を積んだ者もおります。
「大臣、彼らはどうやって品々を贖うのですか?」
「はい。銅銭という貨幣が流通しておりますが、主に物々交換ですな。米や布、鉄などを交換するのです」
「それは価格を交渉して物を交換するということですか?」
「君は好奇心が旺盛ですな。確かに交渉も致しますが、代替貨幣とされる米や布、鉄はある程度の相場というものがございます。君よ、人には生まれてそれぞれの務めというものがございます。この国の9割は農民、彼らは国から借りた田畑を耕し、税として米や作物を国に納めるのが務めです。そして我ら貴族は彼らが諸外国や紛争に巻き込まれることが無いよう国を平らに治めるのが務めでございます」
大臣は薄く笑うと先達らしく教授されました。
「話が戻りますが、交換というのは双方が欲しいと納得しなければなされないわけで、交換交渉がうまくゆかなければ成立しません。ほら、あちらの男はどうやら失敗してしまったようですね」
大臣の視線の先にはふくれ面をして地団駄を踏む男が憎々しげに言葉を吐いております。
「大抵はこの程度で事は終いですが、揉め事が大きくなりますと衛士や役人の出番となりますな」
「なるほど」
興味深そうに尋ねる君の様子が初々しくて、左大臣は目尻が綻んで仕方がありません。

「実は君にお話しておかねばならぬことがございます。お主上はかねてより御身と私の娘を娶せることを所望されており、初冠の宵に娘とお引き合わせすると約束いたしました」
源氏は自分が今宵結婚するのだということに衝撃を受けました。
頭によぎるのはやはり日の宮のこと・・・。
身分の高い貴族は家同士が決めた相手と結婚するというのはよくある話で、源氏の後見に左大臣が指名された時点で想定されることではありました。
源氏は宮を裏切るような、何やら後ろ暗い気持ちで落ち着きません。
「結婚といいましても君はまだお若い。娘は君より少し年上なので、姉のように気楽に付き合うことから始められるとよかろうかと思います」
「はい。ありがとうございます」
源氏の脳裏には宮と初めてお会いした時のことが思い返されます。父帝も姉のように仲良くなさい、と宮と引き合わせてくれたのです。
もしも大臣の娘が宮のような方であれば、この胸に重く抱えた宮を慕う心も淡雪のように消えてしまうのではないか、と願わずにはいられないのです。

左大臣の姫は十六歳。源氏より四つ年上の名を葵といいました。
抜けるように色が白く、凛として、こちらが気恥ずかしくなるほどにまっすぐな瞳をした美しい姫です。
二人が並ぶとまるで一対の雛のように似合いの二人でした。

源氏はまだ幼く、妻を娶るということに現実感がありません。
縁があって結ばれた葵姫と仲よくしたいと思っていましたが、姫の方は戸惑っている様子でした。
葵姫は「后がね」として育てられた娘です。
後に帝になられる東宮へ差し上げる姫として大切に養育されてきました。
気位を高く持ち、慎ましやかに几帳の奥に引き下がるのを嗜みと教えられてきましたので、突然夫となるべく現れた年下の美しい少年にどう接してよいのかわからないのです。
恥ずかしさもあってか、葵姫は扇で顔を隠してしまい、話しかけてもか細く短い言葉を返すばかりで会話が成立しません。
源氏はそれをよそよそしく感じ、藤壺の宮であれば素直に声をたてて笑われたであろうし、もっとうちとけて下さるだろうに、と思うにつけても、落胆の色を隠しきれません。
どうしても宮と比べられてしまうのは葵姫には気の毒なことでありますが、男性にとって初恋の女性は永遠の憧れなのです。
知らずに漏らす源氏の君の溜息を葵姫がどのように聞いていたのでしょう。
葵姫は聡明な少女です。すでに他の女性が源氏の心の裡に棲んでいるのだと察し、やるせなさを覚えました。
まだ若き源氏の君には女人の細やかな心の機微と鋭い勘というものを推し量ることはできないのです。

左大臣は婿君を可愛く思い、実の息子のようにまめまめしく世話をされるので、源氏は左大臣を失望させたくない、という強い思いを持っています。
日がそれほど開かないうちに、と律儀に左大臣邸へと通うのでした。

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