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紫がたり 令和源氏物語 第四百三十八話 幻(七)

 幻(七)
 
初夏の頃になりました。
今年の衣替えの装束は花散里の姫君が用意したもので、そっと歌が添えられているのを見た源氏はこの君ともしばらく会っておらぬ、と懐かしく感じました。いつでもほっと心を落ち着けられる女人です。
 
夏衣たちかへてける今日ばかり
    古き思ひも涼みやはせぬ
(紫の上さまを想う心中をお察し致しますが、夏衣に変わることで少しでも御心も軽くなられるようにお祈り致しておりますわ)
 
なんと優しい詠みぶり。
この君は何かにつけても紫の上と心を通わせる鷹揚なところが好もしい人であった。
長く訪れぬの恨むこともなくこちらを気遣うとはまさに得がたき人であるよ、と源氏はいつでも純真に自分を信じ待ち続けていてくれる花散里の君を愛おしく感じました。
そして世を儚く思う気持ちも受け入れてもらえるであろうか、と素直な気持ちで歌をしたためました。
 
羽衣の薄きにかはる今日よりは
    空蝉の世ぞいとど悲しき
(夏衣を纏って身軽になる今日はことさらに蝉の抜け殻のようにこの世が儚く感じられるのが物悲しいのですよ)
 
花散里の姫もこの源氏の手紙を見て、この世を儚んでおられるのを、いずれ御出家される心積りであろうと察したのでした。

源氏はこの頃から出家の為の身辺の整理を始めました。
昔交わした文の束などを取り出して処分しようというのです。
すでに彼岸へ旅立ったあの御方、仏門へ下ったあの御方、愛した女性たちからの想いの詰まった手紙ではありますが、ここに心を残しては仏道修行にも触りがありましょう。
 
人は身ひとつで生まれてくるものなれば、死ぬる時も身ひとつでよい。
 
源氏はこれらすべてを無に帰そうと決めました。
そうして重厚な蒔絵の箱から最初に取り出したのは藤壺の女院から贈られたものでした。秘められた関係からなかなかお手紙を下さらなかったあの御方の数少ないお手紙です。
源氏は手紙を開いてその懐かしい手跡に見入りました。
これはいつぞやの紅葉賀で舞った青海波を労らわれたものであるよ。
そしてこちらは冷泉院がお生まれになった時にお返しくださったもの。
書かれた歌を噛みしめるように記憶をなぞり、念仏を唱えると、その手紙を燃やしました。
藤壺の宮さま、今この手紙をあなたにお返し致します。
まるでその煙は宮にまで届くように天に昇ってゆきました。
 

次に取り出したのは古びた白扇でした。
それはあの夕顔が女童に持たせて源氏に差し上げたものです。
開くと懐かしい歌がしたためられていて、源氏はまたも昔を思い出します。
 
心あてにそれかとぞ見る白露の
    ひかりそえたる夕顔の花 
(白露が光を添えているように美しい夕顔のようなあなたは源氏の君でいらっしゃいますね)
 
短い間であったが熱烈に愛し合った夕顔よ、あなたの元にこの思い出の扇が届きますように。
源氏はまた念仏を唱えると火にくべて燃やしました。
 
そうすることで愛した方々の供養にもなろうかと、時間がかかっても丁寧にこの手紙たちをかの元へ送ろうと決めた君なのでした。

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