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ひたすら寂しい絵が好きだった

グレーの空、去ってゆく後ろ姿の人々、そして白い壁。
モーリス・ユトリロの絵が好きです、

ユトリロは、母親の愛情に飢え、アルコールに溺れ、精神病院の入退院を繰り返しながらも多くの名作を残した巴里の画家です。 わたしが特に惹かれるのは「白の時代」と呼ばれる20代後半の作品たちの寂しさです。

一見寂しく風景のみの静かな絵であっても、大抵はひとの生活する気配や温度、 穏やかな優しさを感じたりすることが多いのものです。 

ところがユトリロの白の時代の絵は本当にひたすら寂しい、風の通り道のみを感じます。
それなのにまるで懐かしい風景でも見ているかのように、その寂しい白い街角に 引き込まれてしまうのです。

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わたしは周りが引くくらい元気な人間ですが、そういえば小さい頃からなぜか 寂しい絵しか描けませんでした。

派手な色彩や元気な雰囲気に憧れて、絵の具を一生懸命重ねても、その寂しい雰囲気 からはちっとも抜け出せなかった。絵は決して苦手ではなかったのに、教室の壁に みんなの絵と並んで貼られると、わたしの画用紙の一角はいつもそこだけとても凹んでいました。

元々、穏やかな絵が好みだったり、色彩も控えめなものが好きではあるのですが、 ユトリロの書く巴里の寂しげな街角の無機質な風景や聖堂の絵に惹かれる時、何だかそんな昔の自分の絵のことを思い出したりもするのです。

なぜ寂しい絵が好きで、寂しい絵しか描けないのか。それは私の深層心理に関係しているのか。

若い頃から、地味に気になっているテーマでした。

例えばピカソやムンクなんかを鑑賞すると、自分にはないエネルギーを感じます。絵からのエネルギーが強すぎて、拒絶されているように感じることすらあるのです。だから心理的には一歩引いたところで眺めているような気がします。でもユトリロにはその感じがない。

とすると、私自身のエネルギーの問題なのでしょうか。随分長い間、そんな風に思っていました。

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確かに人付き合いにおいても、エネルギッシュな人が苦手で、ちょっとトーンの低めな人が好きだったりします。

音楽もそう。叩くようなピアノの音は苦手で、ソフトタッチの演奏が好き。大ホールの交響曲より小編成の古楽が好き。(電気を使った音楽は殆ど聴きません。アンプは私の敵です。笑)

いやでも、ちょっと待てよ。

音楽で考えると、音が大きいこととエネルギッシュであることは等価ではないはず、と気が付きます。私は古楽マニアですが、たとえ音が小さくても、知的で精神性の高い内的なエネルギーは大編成のオーケストラを遥かに凌ぐことがあるのです。

トーン低めな人がエネルギーが少ないわけじゃない。エネルギーの方向性が内向きなだけです。

きっと絵もそうなんです。

ユトリロの絵もまた、エネルギーの方向が内的なのではないかと思います。寂しいという感情もエネルギー。あの究極の寂しさはそのエネルギーの表れなのではないかしら。

どんなものにも内向きと外向きの両方のエネルギーの方向があって、そのバランスな問題なのかもしれないです。内的な方向性のベクトルが大きいものに、私は惹かれるのです。

私みたいなタイプは、エネルギーが外向きじゃないから、リア充にはなりにくいかもしれません。そうは言っても自分に嘘もつけないですし、内向き同士が繋がって、結構楽しく生きているようにも思います。無理のないバランスをうまく保てているのかもしれません。



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