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エーリッヒ・フロム「愛するということ」を読んで気づいた自己肯定感について

自己肯定感という言葉が蔓延する現代。
果たして自分は自己肯定感があるのか、ないのか、どうなの?
そもそも自己肯定感って結局何だろう?

「感」だから「感覚」であり、その感覚を説明する言葉はネットの海に溢れていて、どれも同じように聞こえる。

自己肯定感のある人の行動は〇〇です、と言われても、自分の中の自己肯定感という感覚に気づかないと語れやしないよな……。

そんなこんなで考えているとき、ふとその感覚に気づく出来事があった。

そして、今回読んだ「愛するということ」は、それの答え合わせになる本だった。



私の中の「自己肯定感」に気づいた瞬間

ものすごく落ち込んだとき。
哀しみや寂しさに感情を支配されているとき。
不安で仕方ないとき。

どん底のメンタルであっても、なんだかんだいつも自分の中に、落ち込む姿を見守りときに慰めて鼓舞してくれる感情がある。
これって何かに似てる。

ん?
これもしかして、私の親っぽくないか??

これに気づいたとき、「これが私の自己肯定感ってやつか!」とスッと腑に落ちた。

私の家族は、色々な事情で「上手くいっている」とは言えない家族の形だったけど、両親の愛は昔も今も変わらず感じていて、親は何があろうと私の味方でいてくれる、という根拠なき自信?はある。

辛いときに「まあまあよしよし、強く生きろよ」と頭ナデナデ背中バシッとしてくれる私の中の私は、両親の愛の分身なのかもしれない。


エーリッヒ・フロム著 「愛するということ」

1956年、第二次世界大戦後、ドイツ人の社会心理学者フロムによって書かれた本。
この本の内容については、また別に記事を書きたい。

読むまで心理学についてほぼ知らなかったけど、これをきっかけにフロムの本を複数読んだことで、学んだことは数多い。

本作「愛するということ」では、愛は能動的なものというテーマが一貫して書かれている。

資本主義社会の中で、「自由」の水面下ではびこる「孤独」との闘いの中で、いかにして自分の中の愛を育てていくか。
そしてどうやって世界と繋がっていくか。

読んだことのない人はぜひ読んでほしい。
ちょっと難しいけど、読んだら見える世界が変わるはず。

「母性原理」と「父性原理」について

フロムは、親子の関係の中で、母性と父性の役割をそれぞれ論じている。

母性・・・無条件の愛。多くの人が求めてきたもの。宗教も女神から始まった。
父性・・・条件付きの愛。子どもを教育し、世界へと繋げる。父の期待に応えることで、愛を受ける。

更には、この母性と父性の原理は個人的な体験に限らず、宗教や社会の変遷にも通じている、といった内容が綴られている。
人間という生き物はいつの時代も、母と父という概念から逃れることはできないんだろう。

フロムが言うには、成熟とは、父母の愛を受けて、自分自身が自分の母であり父である状態に達することだ、と述べている。

自分自身の愛する能力によって、母親的良心を築き、理性と判断によって父親的良心を築き上げる。
父親的良心だけを保持しようとしたら残虐で非人間的になり、母親的良心だけを保持しようとしたら、判断力を失い、自分の発達も他人の発達も妨げるようになる。

エーリッヒ・フロム著 愛するということ

なんだか、上記の文に、この世に蔓延るモラハラやらメンヘラやらの全てが詰まっている気がするのは私だけ?
(……というのはまた是非、別の機会に記事にしてみたい。)

ともかく、ここで言う成熟の意味は、ある時気付いた「自己肯定感」の感覚ととても似ている。

「自己肯定感」というのは、親からのギフトかもしれない

自己肯定感が、結局「ある方」なのか「ない方」なのかは分からない。

けれど胸の中では、親が授けてくれた愛があって、しんどいときの逃げ場になっていることは確かだ。

確実に脅威から守ってくれるようなものではないけれど、どん底だと思った瞬間でも、上を見上げて、なーんだ、光あるじゃんって気づかせてくれるものだ。

もし、自分の中でそんなものは見つからないよって人がいれば、貴方自身が貴方をわが子だと思って、こんな風に愛されたいって気持ちを込めて、愛してみる練習をしてみてはどうだろうか。

実の親ありのままを想像しなくたっていい、貴方が愛されたいと思う、親の姿でいい。

そして自分を深く見つめ直したいと思ったときは、ぜひ「愛するということ」読んでみてほしい。


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