見出し画像

音楽で人は救えるのか?



こんにちは、JC HOPPER Jr.のクワバラです。

今回は前回に引き続き、後輩から頂戴したテーマ「音楽で人は救えるのか?」について、自分なりの意見を述べようと思う。

よくアーティストの楽曲を聴いて、自身の心の中の景色や感情にそれをあてはめ、救われた気分になることがあるだろう。それは音楽を聴く一つの正当な方法であり、筆者である僕も音楽に救われた、と感じる場面がしばしば存在する。

ただここで一つの疑問が生じる。つまり音楽という代物が産声をあげた時、それはリスナーを救うために作られたものだろうか?というものだ。

思うにリスナーが思い描く「人を救う」楽曲というものをアーティストが作るにあたっては、決して聴き手であるリスナーのことを意識したわけではない。殆どの場合が、自分にとって半径5メートル以内の世界や、自身に対して、または大きな命題(この場合は平和や反戦といった抽象的なテーマ)に対して楽曲を製作している。

非常に厳しい物言いをするならば、つまりその曲を聴いたリスナーを救う目的で作られたものではなく、勝手にリスナーが「これは私のための曲だ!」と解釈をしているに過ぎないというわけだ。楽曲というものは結果的に人を救うが、それは結局のところ聴いた人の心の持ちように過ぎない。

ただここで強調しておきたいのは、決してそれを否定しているわけではない。私も楽曲の作り手として曲を披露して、聴いてくれた人が涙を流した様子をライブ等で見ると、互いの疵をかばい合っているような、リスナーと対話をしているような気分になり、非常に救われた気分になる。これもある種エゴを孕んだ音楽との向き合い方といっていい。

また楽曲というものは、その時の思い出や感情というものを、製作した時点で時を止め、半永久的に固定化させるものだ。リスナーは勿論のこと、ソングライター自身も時間の流れの中で歩みを進める中、楽曲はその当時の想いや形を残し続ける。

尾崎豊の楽曲の中に「卒業」という楽曲がある。その中の歌詞にて「ピンボールのハイスコア競い合った」という一文が出てくるが、現在の若者たちにとってピンボールなんて単語を聴いてもいまいちピンとこないだろう。当時の流行りや存在していた情景も、10年20年と時を隔てれば、時代の流れから隔絶される。

これをより深く説明するため、一つ例を提示しよう。例えば中学生の頃に聴いていた好きな曲を聴いてみると、現在の好みとは当てはまらず、しっくりこないといった経験をしたことはないだろうか?

それは偏にソングライターが閉じ込めた当時の彼らの価値観と、中学、高校と様々な社会の中で生活を送り経験を積み、やがて醸成された現在の貴方の価値観に齟齬が生じてしまったことに由来する。

そんなわけで、移ろいゆく価値観から楽曲の好みが変わっていくのはもはや宿命であるといえる。それは音楽を聴くという行為の中では当たり前に行われるし、だからこそ1年前に聞いていたら恐らく流し聴きをしてしまっていたであろう音楽に深く共感し、救われるかもしれないし、しばらく聴いていなかった昔共感していた曲も、久しぶりに聴いたら再び救いを得ることもあるかもしれない。

つまり音楽で救いを得るというプロセスは、不変的な曲の形に併せて、水物の時間と我々リスナーの価値観が都度歩み寄りを試みて、その形がパズルのように合致して初めて救いという感情を得ているのだ。

楽曲というものは「宿」といっても等しい。そこから動くことができず、ただその場で人を待ち続ける。貴方は旅人として、時々その宿に寄って、疲れや痛みを癒して、そして疵を癒してそこに留まる必要がなくなれば、そこから再び旅に足を繰り出す。

そしてしばらく旅を続けていれば、再び同じことで悩んだり、苦しんだりすることもあるかもしれない。その時は再びその宿に立ち寄って傷を癒せばいいのだ。楽曲は貴方が最後に見たその姿のまま、貴方のことを温かく迎えてくれるはずだから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?