透明を満たすために
第45週 2月9日〜2月15日 の記憶。 それを探る試みです。
一年間のルドルフ・シュタイナー超訳に挑戦中です。
今週は、とても寒いですが、マインドフル熱?が感じられる
一節なのかもしれないという気づきがありました。
雪の降り、なにか浄化されたような気分とともに
読み込んでゆきたいと思います。
では、いってみましょう。
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完全な透明性のために
感覚のノイズを静め
すべての始まりの宙において
思念は一体をなす。
心が満ちるとき
大いなるものと一つになり
感覚として
想到への光を受けいれよ。
*
マインドフルネスなんじゃね。
シュタイナーの「こよみ」を読み込んでゆくと、それって「マインドフルネスなんじゃね」といいたくなる箇所が、たびたびでてくるんです。
シュタイナーの時代には、今のようにマインドフルネスは身近ではなく、まだ敷居が高い瞑想修行の時代だったのではないかと憶測できます。そこを翻訳の中で、簡単に時代を飛び越えてもいいものなのかどうか、とても悩ましいんです。
でも、今週はその圧をはねのけ、
マインドフルネス視点で読み込んでみました。
*
マインドフルネスという言葉も10年前ぐらい前は、なにそれ?状態だったと記憶しています。2007年からGoogleがマインドフルネスを企業研修として導入し、そのあと世界的に大きな話題になり、会社の部長さんや課長にも一般常識として「そんなの知っているよ!」という感じになってきたのですね。
2000年代に入る直前の頃ですが、アメリカで2ヶ月間アートイン・レジデンス(アーティストがある地域に滞在し、芸術活動を行うこと)の機会をいただけたときに、その施設では、メディテーション・スタジオというものがあり、気の向いたときに瞑想会が開かれていました。
でも、アーティストに中には、60年代ぐらいから続くヒッピームーブメントというか、なんかドラッグでの体験を健康的にやるというのか、ラブ&ピースというか、サイケデリックというか、ビートルズがインドに行っちゃたんです。なんかそのようなものと同一視される人がいたり。
中には、過激なカルト宗教のイメージを持たれていたりして、厳しい修行のもと悟りをえなければいけないというような、一般社会生活とは一線を引いたところで行われる秘密儀式のようなものを頭に描いてしまう人も多く。
かくいう、私もその一人だったのでした。
でも、ただ、座って呼吸を穏やかにして「今、ここ…」という感覚。
なんか、トリップして別次元の体験ができるんじゃなかったんだ…。
少し拍子抜けはするものの、なんか制作の集中力があがったような…。
それがここ数年でこれほど普及したのは人類の進化なのでしょうかね?
先週も書いたのですが、シュタイナーの「こよみ」には、自然の呼吸とシンクロして自己成長をうながすような箇所が多くでてきます。これも一種のマインドフルネス。
先週から今週にかけて、先人たちの翻訳にはでてこない「透明」という言葉を意図的にいれてみています。
さて、みなさま。
この季節の「透明」というと何を思い浮かべますでしょうか?
そう「水」や「空気」とか「光」ですかね。
Zur vollen Klarheit auf.(完全に透明にするために)
自分の中に流れている美しき何かを、水が純粋に透明になってゆくように、自然に満たされゆったりとしたな完全な透明のイメージを心に描きなさい。
それは、水が氷に凍ってゆく速度感。宙に舞うの無数の光るチリが一つの大きな光へと収斂してゆくような。そんな光景を心象風景として感じてみなさいともいわれています。
それって、マインドフルネスなんじゃね。って思うのです。
冬の冷たい朝に、大自然の中で心象風景を持って、
静かに、心のノイズのボリュームをできる限り下げて、
ただ、座ってみなされ。
*
すべてのものが、一つになりましたかぁ?
しかるべき結論に想到するだろ。
答えは出すものではなく、在るものだ、
すべての結果に意味があるだろ?
ハイ。師匠!
たしかに、そんな気分になってまいりました。
無理矢理、言ってないか?
バレました…。
でも、それでよいのじゃ。
それは、脳みその訓練だから続けるのだよ!
先日、ご紹介した、ジル・ボルト・テイラー氏のWHOLE BRAIN(ホール・ブレイン) を読むと、どうやら人間の脳にはその機能が備わっているのに間違いなさそうなんです。
こういわれれば、どうでしょうか?
意識的に新しい回路を作ればいいだけ。なのです。
マインドフルネスを、まだ、スピリチュアル系のものと訝しがってみられている方も、脳の仕組みの話として理解しほしいのです。
で、シュタイナーはまだこんな時代じゃないときに、自らの研究と体験によってこれらをまとめいるのですから、その偉大さに感服しちゃうのです。
*
*
昨日、数年に一度であろう大雪が降りました。
雪があたりまえの地域の人からすれば、なにを大騒ぎしているんだよー。ということだと思うのですが、ひとたび公園に行けば、まだ踏み跡がついていない小さな雪原に進入し、まるで白銀の世界をひとりで堪能している冒険家かのごとく、ギシッギッシという音を聴き、庭を駆けまわる犬のように、この貴重な雪を味わいたい!という人種なのであります。
そんな、散歩途中に池にも雪が積もっているところと中途半端に凍り付いているところがありました。おそらく、氷の上に雪がつもり、そのあと雨がふったので、変な風に跡がつき不思議な表情をみせていました。
なんか、「水は記憶する可能性がある」という話を聴いたことがあります。ただ科学的な根拠もうすく、さも立証されているかのごとくの情報もでたらめじゃねーか。という評価に屈していました。
ただ、先週今週と「心に透明を満たす」という言葉をみていると水や氷が記憶装置であるという仮説もホントかもしれんなぁ。などと勝手に妄想してしまうんですよね。
水は、蒸気になったり、霧や雲や雪になったり、氷になったり、表情や輝きや流れを観察していると、癒やされますよねー。
そこに、生命的な記憶が宿されているという可能性に
信憑性ありませんかね?
なんかまた怪しい話になってきてしまいましたが、
ただ、それが美しいと感じられるだけで充分な価値があるんでしょうね。
自然から気づきをえられるって
素晴らしいですよね。
生き方や制作にヒントになります。
*
シュタイナーさん
ありがとう
では、また
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