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モヤモヤを言語化するという薬 ~『LIGHTHOUSE』をみた~

Netflixのテレビシリーズ『LIGHTHOUSE』を全話見ました。
星野源さん、若林正恭さんが悩みについて語り合うトーク番組。
詳しくはこちらを参照ください↓↓↓

※番組の内容、語られたことにこの先一部触れることになります。まぁだいたい予告で出てた発言ですが…。さらに長文です。。

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私は若林さんと同い年で、30過ぎの頃から若林さんが自身と向き合って綴るエッセイをずっと好んで読んできました。
しんどかった私自身の20代や徐々に社会と向き合えるようになってきた30代、そして現在の40代まで。
勝手に私自身をエッセイに重ね合わせて、励まされたり共感したり教わったりして生きてきました。
少し離れたところから若林さんの人生を眺めながら、勝手に並走して生きている感覚でした。(それは今も)

その道の途中で星野源さんのファンになりエッセイを読み始め、若林さんと共通するものを感じてきました。
表現の方向性は異なるけれど、このふたりの内面には同じものが流れているんじゃないか。

ふたりとも大好きで、ずっとそう思っていた私にとって、ふたりが仲良くなったのは本当に嬉しい出来事だったし、この番組なんて本当に、自分の人生と向き合ってきた私へのご褒美みたいに感じました。

同年代の私にとって、番組で語られた言葉たちはぐさぐさと刺さる内容でした。
そうそうそれ、それは私のことです!
…と声をあげたい瞬間がたくさんありました。

若林さんに星野さんが「飽きたんじゃないですか」と言い、若林さんの表情がパーッと変わっていき、「俺、飽きたんすよ」と繰り返すところは、なんだか泣けました。
星野さんがその後にした、「繰り返せる人間と繰り返せない人間がいる」という話には深く深くうなずきました。
私が完全に「繰り返せない」タイプの人間だからです。
いつもいつも、「ここではないどこかへ行きたい」と思ってきたからです。
まだまだ「こんなもんじゃねぇ」って思いたい人間だからです。

そのことで、特に若い頃は、自分を責めたこともたくさんありました。
どうしてみんなみたいに、つまらなくても普通に我慢して平然と暮らせないのだろうか?と、辛かった。
だけど、ふたりがそういうタイプの人であることを堂々と話してくれたことで、自分のこれまでの葛藤が許されたような気持ちになったのです。

「繰り返せない」話は、もしかしたら星野さんはどこかで(ラジオとかエッセイとか?)したことはあったかもしれません。
だけど、星野さんが話し若林さんがそれを真剣に聞いて話し合っている映像を見ることによって、より腹落ちしたというか実感が増したような気がします。

おふたりが、自分の中にあるモヤモヤした想いを真剣に言語化している様、心の奥にある本音を口にする姿を見て、自分の奥にある本音を意識しました。

もう完全に大人になり、いろいろなことに対して余裕がある人間、許容範囲の広い人間として振舞いたい…というか、そういう大人に見られたいという欲求が知らず知らずのうちに生まれていたのでしょう。
いつしか、なんだか聞き分けのよい、「いい人」になっていました。
(それは現在非正規雇用で働いていることも関係しているとは思う)

「いい人」なのはまぁ悪くないけれど、私は自分の奥底にある本音に薄々気付きながらも、聞こえないふりをすることが多くなっていました。
不満とかないんじゃないかって。
とても幸せなんだから贅沢言ったらだめだよって。
今ある幸せを数えなきゃって。
それはそれで幸せに生きるコツでもあるし間違ってはいないんだけど。
だけどだけど、感じていても正体をはっきり掴もうとしなければ私の本音は無視され続けてしまう。
それが、モヤモヤというものなのでしょう。

『LIGHT HOUSE』を見始めてから、なんとなく毎日この番組のことを考えて意識しています。
そして私は気づき始めた。
大変に卑近な例で恐縮だけど。
仕事で感じている不満があるってこととか。
「今年度はこの仕事全然やらせてもらえないじゃねえか、ごらぁぁぁ!!」みたいな。
あと、結婚以来、夫との生活を楽しむことを優先して生きてきたけど、内心「もう冒険できないのか」「手堅い仕事をひとまず続けないといけないのか」と実はちょっと思っているってこととか。

気付いたというか、自覚したことは、非常によいことのように感じます。
ただモヤモヤした状態よりも
「あ、私はこういうことに実は怒っていたのか」
「もっとこういうふうに自由にしたい気持ちがあるのか」
と知れることで、対処法が見えてくるから。

そもそも若林さんと星野さんがエッセイの時点からずっと言語化して見せてくれたことから私は
「そう、それです!!」と気付くことができてきた。
自分の中の本音と向き合うことができた。
内面を言語化することって、あらためて重要なことなんだなと実感したのです。
(今回の番組は、ふたりが会話する映像として見られたインパクトがすごく大きいのですけれど)

さて。
「言語化」という言葉で非常に通じるなと感じたことがありまして。
現在、当事者研究について少し学び始めているのですが。
そこで重要なキーワードとして「解釈的不正義」という言葉があるんです。

様々に社会的な困難を感じている人々が、自身の経験に見合った言葉が社会に流通していないことによってモヤモヤした苦しみを抱いていることがあるというのです。
それが「解釈的不正義」という状態なのですが、たとえて言うならば。
(まだ勉強途中なので以下説明が不完全なこと、ご容赦ください)

セクシャルハラスメントという言葉が生まれる前は、性別による嫌がらせを受けても「そういうもんだから我慢するしかない」みたいな状況で周囲は黙認し被害者本人も自分が悪いのかと我慢したり怒りやショックを飲み込み続けるしかなかった。
だけど、そういうことは嫌だと、
なぜ性別による嫌がらせを受けなければならないのかと、
こういうことに私は怒っているしショックを受けていると
言語化することでその体験や感情は共有されて、名前が与えられる。
……みたいなことです。

HSPとか、産後うつとかも、同様の事例かと思います。

このように、様々なマイノリティの経験の言語化により解釈的不正義を是正していくことが、あらゆる人が生きやすい社会モデルを実現していくことにつながる、という話なわけです。

この話を聞いたときに、非常に腑に落ちました。
私がなぜ当事者研究に興味を持ったのか。
自分の中のモヤモヤを言語化し共有することが、当事者研究なんだと知ったから。

それは『LIGHTHOUSE』に通じるし、なんなら『たりないふたり』にも通じるなって感じました。
「飲み会が嫌い」って言ってくれて、本気ですっきりしたもんなぁ。

自分の気持ちを言語化することは、自分を大切にすることにも通じるんじゃないのかな。
言語化するには、自分と向き合い自分の中に深く潜ることをちゃんとする必要があり、自分の声をしっかり聴く必要があるから。

自分の本音を大切にしながら言語化して対処法を考えて、今後も若林さん星野さんの人生に勝手に並走して生きていきたいなぁ。


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