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本当に自由なら必要な抑制が働くもの

ウチでは文様染の、例えば友禅の仕事などの場合、配色にあたって「むやみに色数を増やさないこと」と意識して仕事をします。(3〜7色が多いです。しかし結果としては多色使いに見えるそうです)

文様染の昔の名品や、名画の多くはむしろ色数が少ないものが多いです。もちろん、昔は現代のように沢山の「色」を簡単に得ることが出来なかったという理由も大きいですが、現代の眼で観るとそれは正解だったように思います。

人間の注意力はそれほど広くあるわけではなく、一度に沢山の色や形を判別出来ないのです。だから、つくり手が思うままに沢山の色を使ってしまうと、観る側としては、感覚的には濁りに観えたり、混乱に見えたり、下品に観えたりすることがあります。

「草木染の時代の色数が抑えられたバティック」と

「化学染料が入って来てしばらく後の超絶込み入った文様のバティックにさらに多色使いになった時期のバティック」

を比べてみれば分かります。

バティック=インドネシアの超絶的ろうけつ染布 (リンク先のものは昔のもの)

昔の整理された配色のものは(しかしニュアンスは多様)超絶複雑な柄とニュアンスにも関わらず、全体としてはスッキリしてシンプルで、文様の動きも良く分ります。それに対して多色使いのバティックは全く同じ文様を使っていても仕上がりが、ただただウルサいものです。

江戸中期までの友禅染の良品も、文様や仕事は精緻でも、全体として観るとテーマが明瞭です。

しかし、それから時代が新しくなり、化学染料が使えるようになって多色使いが楽になると、やたらに多色で煩雑なものが増えます。やはりいろいろな色がほぼ自由に使えるのは作り手も、使う人も嬉しいですから、一時的にむやみな多色使いが増えるのは理解出来ます。

しかし、その時期のものは文様と色が組み合っていないものが多いのです。

化学染料によって簡単にいろいろな色が出来る喜びから、どの国、地域でも最初は沢山の色や極端な原色を使いまくる傾向があるようです。

しかし、ある程度行くと、それはちょっと違うのではないか?ということになり、また色数が整理されることが多いようです。

日本の場合は、例えば近現代の友禅染なら、挿し色の色数が多いものが豪華で手が込んでいる、という業界の売り方もあったようですし、つくり手もそれを自慢にしている傾向があります。。。未だにそれは続いているように思います。

煩雑なものは豪華なものとは違います。しかし、同じ意味にされているように思います。

「この着物は、型やプリントのような量産のものではなく、一点ものの手作り品だから、自由に好きなだけ色数を使えるのです、だから貴重なのです」というのは全く間違った解釈で、それはただのセールストークです。。。

昔の名品は少ない色数でも、色の濃淡、色の面積、隣り合う色の影響の効果によって多色に見せているわけです。それと、その作品内に色のテーマがキチンとあり「やたらと色数を増やして主題を分散させることはない」んですね。

むやみに色数が多いのは、テーマを絞りきれずに、色数を整理出来なかった、と私は考えるのです。思いつくままの多色づかいは、その情報の混乱により、むしろ平坦に観えてしまうのです。

配色にはいろいろな効果があって、例えば「回転感を強く出したい唐草文様」に多色を散らして使ってしまうと視点が分散され、回転感が弱まってしまうのです。

逆に、うまく整理した色を配置して、ポイントに効果的な色を使えば回転を加速させることも出来ます。

「文様の特質に合った配色をすること」

ウチではそのように配色について考えています。

制作する際の配色において思いつきで色を並べても良い結果にはなりません。

繰り返しになりますが

良く、友禅染の仕事などで

「これは一点ものだから沢山の色を作家さんの自由につかっているんです!」

などと言って偉いもののように説明していることが多いですが、それは自由でも感性でもなんでもなく【淀んだ味のスープみたいなもの】です。

「色を自由に使うという事は、色を無制限に使うという意味ではない」

のです。

むしろ、

【本当に自由なら自然に抑制が働くもの】

なのです。

「◯◯からの自由」というのは自由ではありません。思いつくままの気ままな行動も自由ではありません。

本当に自由なら、必要な抑制は自然について来るわけです。

多く、創作において制限なく自由に制作をしたと言われているものは

「思いつきを次々に羅列しただけ=自由で無制限」

という勘違いに過ぎず、

それは「分散」になり、作品の力は弱まります。

そこに自由はありません。

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