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『伊達政宗五常訓』を要約・注釈に挑戦する!


まえおきのまえおき

 毎度ご拝読頂きありがとうございます!前回の「孫子兵法の注釈」はいかがだったでしょうか?まだの方はご一読願えると幸いです!

 また前回と同じくとらねこさんの共同運営マガジン「トランスミッション」にも投稿におじゃましますのでお引き立てのことよろしくお願いしますOK! my friend! m(__)m

まえおき

 みなさんは「伊達政宗五常訓」はご存じでしょうか?渡辺謙主演の大河ドラマの「独眼竜正宗」で、伊達政宗が劇中に孔子の儒教の5常の徳である「仁、義、礼、智、信」について「〇〇に過ぎれば〇〇」とのセリフで知ってる方はおられると思います(私と同じ年代↑かもですね)。

 孔子の「過ぎたるなおは及ばざるが如し」という有名な教えがありますね。「過ぎることは及ばないよりもなお悪い」という意味です。
 今回は「その過ぎたること」を要約しつつ「及ばないこと≒不足する、足らざること」という逆説として「〇〇に足らざれば〇〇」の注釈をしつつ、「徳性が喪失した足らざるところ」に着眼して現代社会などのさまざまな事案にも鋭く切り込んで挑戦したいと思います。よろしくお願いします!

「仁に過ぎれば弱くなる」

 「仁」とは「他人に対する親愛の情、優しさ」を意味しており、儒教における最重要な「五常の徳」のひとつです。他人に情愛をかけて優しくする「仁」については特に日本人は敏感な人種かなと思います。
 ただ「仁」が過ぎすぎると、他人を自分以上に親愛の情を傾倒してしまい、自分が犠牲になる=弱くなることを示しています。
 「孫子兵法」の九変編にも「将に五危あり(中略)愛民は煩わしい」とありまして、情愛は素晴らしいことだけどそれが過度だと「煩わしく脆弱になる」とあります。
 要約が済んだところで私の「足らざる仁」の注釈します。

「仁に足らざれば卑屈になる」

 これは仁が足りないと人間が元来持っている「情愛の仁」が発揮できずに喪失して拠り所が無くなり、現代においては他人を見下して侮って「卑下・卑屈」の心が芽生え、次第に自我も「卑下・卑屈」になることを示しており、現代社会に歪に反映しているのではないか?と私は思います。
 仁が過ぎて弱くなるのも問題ですが、仁が足りなくて卑屈になるのもやっぱり考え物ですね。人間は己の「弱さ」を知って互助し合い社会を形成して集団生活で生活して情愛の精神で共存共栄して現代があると思います。仁が足りない世情というのは文字通り「世知辛い」のではないでしょうか。

「義に過ぎれば固くなる」

 「義」とは正しい行いを守ることであり、人間の欲望を追求する「利」と対立する概念です。説明のとおり正しい義=正義を顕しており、貴賤や利害など問わずルールや契りや約束事などを守ろうとする心をです。
 たしかに正義に篤い、義理堅い人は信用信頼ができて人間として尊敬できますが、それが過ぎると「融通が利かない頑固者」「ルールや法などに縛られ、時代や情勢の変化に対応できない木偶の坊」など「固い、冷たい」などの悪い心象を受けます。これを私の「足らざる義」の注釈します。

「義に足らざればに脆くなる」

 これは義が足らないと人間として守るべきのルールや秩序の信用が喪失して守るべき社会の秩序などが乱れて「脆弱になる=脆くなる」ことを示します。結果人間は「義による信用信頼」よりも「不義による利得」を優先してしまい「各々が利得するだけのルール」が横行してしまい、人間としての守るべきものが軽視し喪失して人間の信用信頼が脆くなりますよね。

 現代の国際情勢をみても「共存共栄するための国際連合の是非」が問われても結束できずに機能不全に陥り、守るべき「利他的な精神」は廃れ、義に足りない国家元首が「利己的」になり、例えば宗教や領有権や大義名分などの紛争では、過誤の正義を振りかざして紛争が絶えず国際秩序は大いに乱れています。それによって見限った人間らも「利己的」に走り、義を喪失した邪な人間によって国外国内ともに凶悪で卑劣な犯罪が蔓延して社会秩序が歪んで本当に「脆くなった」と言えますね。

 「礼に過ぎれば諂(へつら)いになる」

 「礼」とは人間の「内面」である情感や行動などを、他人へ美徳のあるもとして「外面」に表すための所作・作法・言葉遣いなどをいいます。
 特に儒教においては一番の美徳である「仁」を実践して「礼」として行動に表すのに「克己復礼(こっきふくれい) 」といい、私利私欲を抑えて「礼」に従う、現代風だとTPOに合わせて立ち振る舞いをするですね。

 外面的に所作や作法が美しい人間は「内面的にも徳性があって優れている」とされ美徳とされますが、これも礼が過ぎると「諂い(へつらい)」になり「慇懃無礼」となり「上辺だけの見かけ倒しで中身は大したことのないただのお飾り」となって、美徳ありきの礼儀の風習が「上辺の形式だけが立派であれば中身がどうでもいい」と、肝心な中身の美徳が穢され軽視されることをいいます。これを私の「足らざる礼」の注釈をします。

「礼に足らざれば粗野(野蛮)になる」

 これは礼が足らないと他人間で相手と接触する機会にて、外面的な態度が粗野になって「無礼」になってしまい、心象を悪くして礼を失する=喪失することになります。
 現代に当てはめると私も心当たりがありますが、例えば他人とすれ違う場合でも、挨拶や相槌などのコミュニケーションやアクションなどがあったほうが「袖振り合うも多生の縁」であっても安心できますが、現代人はとかく「悪い意味での個性の時代」とも言えて「外面上の他人の心象なんてどうでもいい」と、社会での挨拶や応対などで誠意が伝わらない小声かブツブツ声でする人が私も含め多くなった気がします。

 また自分を卑下する人は「外面なんてどうでもいい」と服装から不潔でダサいファッションや身だしなみでいたり、掃除も誰も見ないからいいやと放棄して、健康を軽視し不健康・不衛生な生活で底辺に甘んじている「衣食住でTPO的に粗野で野蛮でヤバイ人」っていますよね。
 昨今では自分磨きをする人は内面もですが外見も含めて「見た目も大事」にする人が多いです。私も少しでもそれができるように頑張っていますが。みなさんは「礼が足らない=粗野」になってないでしょうか。

「智に過ぎれば嘘になる」

 「智」は智恵のことで、単なる知識があるということではなくて、知識を得てかつ正しい判断が下せるような能力をいいます。
 吉田松陰によって提唱された「知行合一」がそうであり、知識を会得したらそれを行動によって実践、研究、検証などをして正しいかどうかの是非を考察することも大事とされます。

 例えば「雨が降った」とします。このとき雨で濡れるのに最適な道具は「傘」であると考えるのは「知恵(wisdom)」であり、雨で濡れない方法として軒先や店舗などで雨宿りしたり、雨が止む時間を把握するなどを「知能(intelligence)」です。

 智が過ぎるとその能力に「驕り」が出て、他人の能力不足を「愚か」などと荒さがしや侮辱を行い慢心から「自分を信じて疑いがない」と傲慢・高慢な人間になります。そうした「智」の能力があることが災いして他人の心ある忠言などが入らなくなり、他人を騙すことや嘘をつくことで「智」を使った犯罪や欺瞞や詭弁などを平気に行うようになります。
 これを私の「足らざる智」の注釈をします

「智に足らざれば『嘘』になる」

 いかがでしょうか。「過ぎたる智」同様に「嘘」になります。しかしその内容は異なった(そうでもない?)ものになります。
 みなさんの周りにあてずっぽうで「こうだと思う」「これあーなんだっけ?」など突拍子もなくエビデンス(根拠)のない曖昧な指示語だけで会話などを成立させる頭の悪そうな人はいないでしょうか?実は私の母親がそういう人で困ってます(汗)

 とにかく知恵も知能もない賢明と言えない人(私も含め)は、先入観での思い付きが先行して「あーアレやアレ」(大阪人の方ごめんなさい。大阪人はこういう方多いです。しかしアレ(A.R.E)流行語大賞おめでとうございます!)などと具体的な内容を「アレ」という指示語だけで強引に「中身が不明な会話や伝達で納得、成立させる」方いますよね(大阪人の場合、それが暗黙の了解として慣習化されているともいえますが。むしろそれで通じる大大阪人ってある意味すごいです)
  
 閑話休題。知恵も知能も無くエビデンスも乏しい、とにかく奇妙なハッタリで嘘っぽくても力説する現代人結構いますよね。若年層から今だと「経験豊富と自負する老害な高齢者」にもいます。
 「智」が過ぎる人は「知恵や知能の理解力があって『知ってて嘘をつく故意性がある(例外はある)』」のですが、「智」が足りない人は「知恵や知能が無くても『勝手に思いついたとか経験上から妄信してる嘘なので故意性が希薄(例外はありますが)』なことがあり、ベースに『智』が喪失しているので、あまり考えておらず『たとえ嘘っぽくても無意識の悪意』になることもあるから質が悪い」なことがあったりします。

 よく学童のいじめ問題で、無邪気な子供が善悪の判断が乏しくためにいじめの加害者・被害者になることがありますね。私は「8、9割のいじめは、善悪や『智』の発育の未熟さ故に無意識な悪意が『謎』になるのが問題」と考えています。
 とどのつまりは学童のいじめで「故意でしているのは、よっぽどの頭のいいサイコパスな学童でない限りは緻密な故意性は無いか低い」かなと(明らかに暴力や恐喝などの犯罪性のあるのはダメですが)。
 なので学童教育での本当の教師であるなら「未熟な子供の被害者、そして加害者の声もたくさん聞いて一緒に『謎』を解明して学童生徒みんなが安心できる教育環境を必ず作ってください」と言いたいです。

 余計な注釈が多くて混線させたかもですが、「智」に関しては「嘘から出た誠」などのことわざにもあるように、「智」は人類がその編纂に「嘘」の仮説からも研鑽検証などの積み重ねを数多くして確証した「知識、常識など」のものから、架空の小説、アニメなどの「創作物」も人類にとって「好印象で人気のあるものがたとえナンセンスでも娯楽として有益」で後世や現代にも通用するものは無数にありますよね。

 そうです「智」はその徳性の良し悪しに関係なく「人類が考える創造する特殊な動物故に、無数の真実と嘘が蔓延るもの」なのです。なので「智」は真実もですが「嘘」もまた「智」と言えるかもしれません。なので「嘘」も含めた「智」の興味は尽きないかなですね。
 でも人を不利益・不愉快にさせる悪い「智」「嘘」当然ダメですよ

「信が過ぎれば損をする」の要約・注釈は難しい

 儒教において「信」は、五常(仁義礼智信)の一徳目であり、友情に厚く、人を欺かず誠実なことで、 孔子は「民、信なければ立たず」(人間は信がなければ生きていくことができない)と「信」の重要性を指摘してます。

 論語にも(国の基になるのは「信」と「糧秣(食べ物)」と「軍事」。その中で満たないので無くすならどれか?)との問答がありますよね。
 徳川家康が今川家の人質時代の時にに禅僧の太原雪斎が問答をしたことが小説にも書いてることもありますね(家康は食べ物と答えてましたが)。

 「民、信なければ立たず」の言葉どおり「信」がなければ知識や貨幣などの財産の価値などが成立せず根本からぐちゃぐちゃになり、人間にとっての拠り所の存在が不明になります。そのため昔から現代まで名君も暗君も知者も愚者も、どう信用を貴賤身分に関係なく周知させるか苦慮してきました。

 信用で私も含めみなさんが真っ先に思いつくのは「お金」ですよね。硬貨も紙幣も、大きな機関である国家が製造・鋳造して資産価値などを度量衡で評価して、多数の国民が信用して使用・流通することで「信」を得ますが、その信用が喪失すると、硬貨は金属、紙幣は紙の「現物」になります。

 「信」が第一の徳と言えども上記の他の5常に比べてもっとも不安定なものです「信」は人間の思考・環境・価値観・時代歴史背景などによって、世界の一人一人が同質とも異質ともが混在して変化不変のものであり、意思統一することが最も困難・ムリゲーなものだからです。

 なので国の為政者は「せめて資産価値の評価等は国が管理し、国民に信用信頼を得て経済を流動的に流通してもらうために合理的に統一したほうがいい」とそうした数多くの思想家らによって「お金」の技術が発展して、国が国民からの信用を得て「お金」は使用・流通などされてます。

 ちょっと本筋から外れたので戻りますが「信」というのは観念的にいえば一番不安定なものであっても「信じるしかない」ものなのです。硬貨と紙幣がただの金属と紙ですが、それに「信じる」限り私も皆さんも「お金」として「信じて」疑いことなく使用・流通・貯蓄などしますので。「民、信なければ立たず」ですよね。

 私は趣味で「競馬」をしますけど、初めは「これで当てるだろう!」と「信じて」疑わず予想した結果、ハズレてしまって凹むのですが、でも結果が出る前は「信じるしかない」私がいるわけでして・・・

 なので私にとっては「信」についてあれこれ要約したり注釈するのは野暮かなと思いました。「信」に過ぎて「損得」することも、対象者がどんな人格で「損得」しようと「信じた」対象者の結果でなので。
 まあ「信じた」ことで人生の運命が流転することは多々あっても「信じた」当人がどう自分の人生の進退を決めるかは結局各々が「信じた」心です。徳性の質や価値などに関係なく(特に自由民主教が最低最悪の政治しようとも)

 なんか押し問答みたいになりましたね(汗)。ただ「誰がどこで何をして『信じた』モノに『損得』があろうとも『お金』や『時間』は無常に過ぎるもの」なので、過ぎても足らざれども、「信」の是非は「人次第」という曖昧で無責任ですがこれを最も的確だと思って締めくくりとしますm(__)m。

おわりに

 今までで一番長くなりましたがここまでご閲覧頂きありがとうございますm(__)mいやーどれも要約・注釈するのに後にいくほど「詰みそう感」がいっぱいで、結局「信」だけは勢いでテキトーにした感はありました。
 まあ『伊達政宗五常訓』を要約・注釈に挑戦する!(けど伊達政宗ははじめにしかない(汗))は楽しかったですし、私の考察の一定量は投稿できる創作物として一作品出来たのではないでしょうか。
 
 私もこれを作るのに丸一日晩御飯時を過ぎて作ってたので(汗)まあそれだけ夢中になれることはnoteしてて冥利に尽きるのではないでしょうか。
 また別の記事にてよろしくお願いします!それじまた!OK! my friend!


 
 

 
 



 


 

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