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ゆっきーの「発達障がい者だから挑戦できること」


まえおき

 こんにちわ!前作私の処女作である「自著本」の記事の内容はいかがだったでしょうか?いつも閲覧して頂きありがとうございます!スキしてくれた方は大大大感謝です!!

  今回の記事は私の自己紹介として「発達障がい者だからこそいろいろ挑戦しています!」といった私のリアルな近況+α(←ここがでかいかも)なところをゆるく紹介できればいいなと思いました。お目通し頂く未知のMy friendの皆さんにお届けできればいいのでよろしくしてくださいね~m(__)m
 まあきっかけは最近相互フォローになって頂いたドラドランドさんのこの記事から「障がい」について大変ナイスな記事だったので刺激されて私の発達障がいでよければ!と思った次第です。

障害は個性の1つ

障害の害っていう字は、
害悪とか、被害とか、マイナスの意味だ。
でも、障害がある人は、好きでなったんじゃないと思う。
きっと、先天性であれ、後天性であれ、
一度は、ちゃんとした生活がしてみたい、と思ったことがあると思う。
そんな人のことを、害だ、という人は、
その人の人格そのものを否定していると思う。
障がいがあることは、優しいとか、ゲームが好きだとかと一緒で、
その人の個性だと思う。
神様が、その人だけにくれた、素晴らしい個性。
それが不便かもしれないけど、
嫌で嫌で仕方がないかもしれないけど、
神様がくれた一つの命だから、害なんていうのはおかしいと思う。
(これから障害者を障がい者と書く。)
障がい者への心配り
障がい者といっても、いろんな人がいる。
例えば、目が見えない人とか、
耳が聞こえない人。
発達障がいなんてものもある。
そんな人たちは、他人の心配りを必要としている。
障害者への心配りは、
その人の個性を応援するってことだと思う。
ちょっと「危ないですよ〜」と声をかけたり、
「この席におかけ下さい、私は大丈夫です」と席を譲ったり。
そんなことが当たり前のようになる社会になってほしい。
この地球という一つの部屋で、
たくさんの人が、他人を助け合い、支え合って、
みんなが嬉しい社会にしたい。
大切なのは人々の意識。
大人、学生、高齢者、そして、
今この記事を見ているあなたも、この機会に、
自分ができているかどうか振り返ってほしい。

ドラドランさんの「障害」について考えるより


ゆっきーの生い立ちから発達障がい者認定までのいきさつ

 昭和50年5月22日誕生しました。今は亡き父(ゆきっちー)は男児の私が生まれたことをとても喜んでくれたと母親(ゆきまま)が言ってました。私を出産が朝方でとても安産とも言ってました。ただ少し言葉を覚えるのが少し遅かった医者に言われたと母親が述懐してました。
 私は父母の愛情を受けて成長していきました「あくまで家庭内だけで限定すれば幸せな家族像」でしょう。

 しかし幼少期から私の学生時代には「いじめ」という試練といいますか嫌な「いじめ」の連続でした。「いじめ」についての詳細な内容と考察は別の記事にてしますが。まあ私がお人好しで大人しかったので「からかっても平気な奴」と思われたのでしょうね。

 特に私にとって暗黒期だったのは中学生でした。生徒だけでなく大人である「教師という名のエセ教育労働者」にいじめ以上殴るなどの体罰や心無い嫌がらせ(国語の鬼女に、テストで故意でないのに筆圧の薄い答案を出したら「今度そんな答案したら採点しない」とか)をされてました。厳しい校則(拘束?)と落伍者は平気にエセ教育労働者が成長中の生徒をバカにする「恐怖政治」に他なりません。今なら間違いなく免職ものですね。
 部活で父親に憧れて剣道部に入部してましたが、一生懸命しすぎる私の性格が災いして、力み過ぎて私の打ち込みが痛すぎる上に下手なので周りから忌避されて、上級生、同級生、挙句の果てには剣道経験者の人間として最低なクズ下級生にも襲撃されるなどのハラスメント受けてました。
 今でも私はその中学校は「悪の枢軸なので機会と財力などがあれば滅して歴史から抹殺してやりたい」と思っていますよ😡。

 お話がちょっと過激でスミマセン。高校、大学も中学ほどじゃないですがまあいじめや思い出すと嫌なイベントはありました。
 大学は卒業生にマラソンランナーで有名な「Qちゃん」こと高橋尚子などがいる大学をなんとか卒業しましたが、学位としては「下の中」で教授も生徒などもポンコツだらけなのに「クソ高い授業料を父親が宝くじで当てた100万もつぎ込んでまで卒業する価値あるんかな」と今でも思ってます。

 大学卒業後ちょうどそのとき「就職氷河期」「ロスジェネ世代」と言われた時、私は大学4回生になっても単位とりに必死だったのであまり就職活動ができませんでした。当時100社面接するのが当たり前の時代に私は就職活動が分からず数社しか行かなかったので就職できずに無職でいました。

 郵便局配達員などのアルバイトをして、私が25歳のときにハローワークのススメで空調の職業訓練所を紹介されて入所して、第二種電気工事士や冷凍Ⅱ種などの資格の勉強・実技を頑張っていましたが、社会人や高卒上がりの「悪童」たちらに嫌がらせや陰口をされてましたね(その時私がリーダーに立候補したのもありますが)。
 職業訓練校を卒業して就職活動して1社だけ採用されて働きましたが、僅か3日でクビになりました。まあタバコの喫煙が常態化している職場だったので、タバコが大嫌いな私としては退職してよかったですが。

 その後積み重なった「世間の冷たさ」から人間不信なって、私はいわゆる「ひきこもり」になり自殺願望やネグレクトや私をこの世に産んだ父母を憎み家庭内暴力もしてました。当然精神も異常になって、母親が方々の心療内科や精神科のあるクリニックや病院に行く機会が増えました。

 そして私が30歳少しになって今は亡きK医師に「発達障がい」と診断されました。以前母親がある病院で「ロールシャッハーテスト」で極秘裏に私が発達障がいの兆候があると知らされてたみたいですが、当時発達障がい者は「犯罪に関わりやすいネガティブな存在」と伏せられたみたいです。多分私がそれで傷つかないための配慮なのでしょうが、私としては早く知りたかったかもですね。母親なりの私への配慮や愛情などがあったのでしょうけど。

 とりあえず私は発達障がい者として国から「精神障がい2級」の認定を受けました。

発達障がい者としての十字架から自分らしい生き方を見つけて

 私は発達障がい者として、障がい手帳・障がい年金などの恩恵をうけて安心安定の生活ができるようようになった!と思いましたが・・・。

 私の住んでいる市営の就労移行支援の支援者が私が望まない就労斡旋や職業訓練を紹介してきてそのミスマッチで私は困惑することになりました。
 子供の時から疲れやすい、運動に自信がない、人と会話は好きだけどコミュニケーションは上手くないなど、私のパーソナリティーに寄り添った支援者がほぼ皆無だったというのが私の感想です。
 なので数年して見限って自分で就職のアテを探しました。民間の就労支援や障がい者対象の事業所に行きましたが私にとって不愉快な人間がいたので辞める。そんな連続でした。
 
 6年前に母親の勧めで「柔道整復師」の専門学校をそこの理事の推薦でいきましたが・・・そこの若い世代の無能さ不作法さなどに絶望して、私は真面目に解剖学など勉強してたので成績の単位は全部取れてましたが「柔道整復師の国家試験の項目に柔道もある」というのを後になって知ったので僅か半年で中退しました。
 武道として柔道の嗜みは中学生のときに剣道もしてたのでいいかなと思いましたが、柔道が思ってた以上に怪我のリスクが非常に高く、運動で不利な私の発達障がいには不向きと思ったことと、当時私が42歳で最年長でいわゆるZ世代の連中と同級生となりましたが、奴らが目に余る無作法・無礼極まりない発言、行動などに絶句して(数人かはとてもいい人もいましたが)中退したというのが大きな動機ですね。

 それで今の私の職能であるエステシャンの学校に注目して見つけていったところ指導員のスタッフさんやマネージャーさんがとても親切丁寧で言葉遣いも所作も美しく「これぞ私の求めていたもの!」と感動して、障害年金の預金から捻出し学費を出して「エステで自立する」と決意しました。

 だけどここで私の発達障がい者としての「力み過ぎる」クセが足かせになります。相手の異性から「私の施術が力が強すぎる」などのクレームがスタッフに陰口されてたっぽいです。もちろん私は立腹してその場でキレることもあってここもドロップアウトしそうになりましたが、そこのスタッフさんがきちんと相談にのってくれて懇切丁寧に指導をしてもらえました。モデルの相手が他人の異性が怖くなったので、母親にお願いしてモデルをお願いしています。
 今ではボディーセラピー、リフレクソロジー、フェイシャル、衣服着用のまま施術できるメディカルケアも上手く「脱力」して施術できるようになりました。4年前に父親の仕事場をエステ開業にインテリアのリフォームをして開業準備をしてました。しかし・・・。

 ちょうどその時、世界が「コロナパニック」に襲われました。
 エステはほぼ接触での施術によるサービスなので、コロナパニックによる非接触型の生活に様変わりしたため、開業は見送ることになりました。
 そしてそんな私に追い打ちしてアクシデントが発生しました。
 最愛の父親がその時に倒れ、精密検査の結果「神経膠芽腫」という特殊な脳の悪性脳腫瘍(グレードⅣ)だと判明しました。
 私は父親よりも母親寄りに成長してきましたし、私は父親のことを「自分勝手でぶっきらぼうで口の悪い人」の印象が強かったですが、私がひきこもりのときに私をなんとか立ち直させようと、父親が自営業廃業後に宅配便のバイトの補助として私に働く機会をさせるなどいろいろしてくれた人でした。それと私がエステで開業することを一番喜んでいたのは父親でした。

 父親との闘病生活は別のブログ(アメログ)に書いていたのをnoteにも寄稿予定にしますが膨大すぎるので割愛します。
 父親は今できうる最善の治療と私たち母子のサポートをしてきましたが、今から二年前の2021年9月26日永眠しました。厳しい治療に痛みに耐えながらも動画の中で「笑顔が一番」と言い続ける動画は私の中で一生の父親からの遺訓となりました。
 治療継続を断念して誤嚥性肺炎になりながらも、私が描いた父親と母親のデッサン絵を見せた時に、命の尽きる瞬間までその眼に焼き付けた父親の最後の姿は私の記憶に永遠に刻まれました。多分「私が最強になっても絶対勝てない人」になるでしょうね。

 コロナ規制が解禁された今年2023年。私は「2025年に必ずエステ開業させる」と父親の仏前に誓いました。もちろん母親も一緒です。
 今では生活習慣を変えるために10月に入ってから某動画を見てから「老後は杖なしで健康にいたいし、エステシャンになるなら肥満じゃダメだな」と一念発起して健康について食事・清掃・運動・所作などいろいろ革める(だからゆっきーのレヴォリューションと)ことを始めました。今では体重が84kgから75kg台になりました。今後も健康は一生のテーマとして追及していきたいし、もし発信できることがあればnoteなどでしていきたいですね。

 さすがに行き過ぎるところがあって、特に食事については完全無添加食品にしようとしたときに母親とケンカしたこともありましたが、今ではキチンと話あって上手くやることにしました。やっぱり家族でもコミュニケーションと報連相は大事だし難しいものだと自覚してなるべく上手くやれるように、そして「発達障がいを言い訳にしない。だけど発達障がいでも補完できるところは無理をせず最大限利用する」とか「自分らしく発達障がいも共存して上手く自立していく」のも私のこれからの人生の命題になりました。

私にとっての発達障がいとは?そして・・・マイドリーム

 私にとって「発達障がいとは?」はあらゆる意味で「自分の内面を色んな時系列のイベントを通じて良いことも悪いことも探求できるきっかけ」にもなりましたし「発達障がいな自分でもこれからやれることがいっぱい見つける見つかるチャンスは必ずある!」きっかけにもなりましたね。

 私の生い立ちの学童教育のところで私にとって「悪」としてきた人々も「一概のその人を悪と決めつけていいのか」とか「私にもどこか間違っていることはなかったか」と考察して「決して過去の時間を変えることはできないけど、ただ心象などの評価は変えることはできて、過去のいじめなどの嫌な思い出にも思いがけない発見や考えることできて現在や未来を変えるきっかけになるかも」と考えれるようにはなりました。

 今世間では「いじめやハラスメントなどは起因になった加害者側が悪」という先入観が根強くありますが(明らかに犯罪になることはダメですが)、私は「被害者側にもそれを誘発する起因・要因などはありえる」とだけ提唱しておきます。(またこれも記事にできますねワクワク)

 今年48歳4回目の年男を迎えて「エステシャンになる」ことと「自分の経験・思想などをnoteを通じて発信する」など「マイドリーム」が膨らむのに好奇心が収まりませよ。ただ多くの人に伝播しなければ路傍の花に終わるので、私も「発信の拡散活動を止めるな!」の精神で挑戦していきます!
 「創造する楽しさ」って有限の財産以上に「無限の楽しみ・お宝がある」ものだなと思います。みなさんのマイドリームについて各々のnoteを通じてお聞かせくださいね。

 今回も私の思い付きのマイエピソードを拝読頂きありがとうございます。みなさんにとって何か大小に関係なく「得した!」「ハッピーだ!」など感じたことも、もしくは対案としての意見も発見してもらえたら幸いです。
 また次の記事にてよろしくです!OK!My friend!





おわりに












ゆっきーの逆襲はここから開始する!
(これが言いたかっただけで見てくれてアリガトウ!)



 
 
 


 

 
 

 私の投稿記事でよければよろしくお願いします!m(__)m  私次第ではありますがお礼のサポートするかもなので。  世界中に平和と多幸あれ!OK! my friend!