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言葉の定義を探究する|セルフラブとワガママの違い

 


 

言葉が語るもの


 選ぶ言葉ひとつで、相手に与えるインスピレーションは大きく異なる。

 こうした実感が湧くようになったのは、文章を書くようになってからだ。

 例えば、「海」という言葉を聞くと、ほぼ自動的に海の情景が広がる。もしかしたら、海にまつわる思い出も一緒によみがえってくるかもしれない。嬉しい気持ちや悲しい気持ちも、よみがえるかもしれない。

 それは「言葉は、言葉以上のものを語る。」ということだと私は思う。

 そう考えると、言葉一つひとつに宿る意識、力について考えながら、言葉を紡いでいきたいという気持ちが湧き上がってくるのだ。

 

Self-love≠自己愛?


 私の活動のひとつに、セルフラブ探究家がある。自分で、自分を愛しきれなかったことから、数年前まで、無意識に自己否定をするような生き方だった。

 けれど、セルフラブを探究し始めたことをきっかけに、生きやすくなったことはもちろん、その奥深さに魅了されて、今も探究を続けている。「自分で、自分を愛すること」で、他者への思いやりや優しさが生まれることを知った。

 だから、セルフラブを世界に浸透させていきたい。セルフラブを深めることにより、一人ひとりが生き生きと暮らせる。気持ちよく共存できる。そんな世界が実現できると信じているのだ。

 
 セルフラブと言えば、アメリカのアーティストや若年層を筆頭に、ホットなキーワードとして取り上げられている。かたや日本にも、自己肯定感ブームの波が到来。あちこちで、セルフラブの大切さが謳われている。

 こうして、たくさんの人達に認知されつつある、「セルフラブ」という言葉。

 けれど、ここで大きな壁にぶつかった。

 それが、「セルフラブ(Self-love)」という言葉に、適切な日本語訳がないことである。


 Self-loveという英単語を、日本語ではどのように訳せるのだろうか。

 検索をかけてみると、「自己愛」という言葉がヒットする。その意味は、「自己肯定感」や「自分を愛する」になる。

 けれど、「自己愛」を翻訳しようとすると「ナルシシズム(narcissism)」となり、自己中心的な在り方を意味する内容となってしまう。

 これは一種の混乱だった。
 同じ「自己愛」という言葉であるにも関わらず、その印象が全く異なってしまうのだ。

self-love → 自己愛
自己愛 → narcissism ?

What's Self-love?



 では、自己愛とは、一体何なのだろうか。

 そもそも、この自己愛という言葉への混乱が起きたきっかけは、たまたま書店で手に取った一冊のエッセイだった。

 それは、あるインフルエンサーの方のエッセイで、そこには「セルフラブは、自己愛とは異なります。セルフラブは、ありのままの自分を受け入れ、大切にすることです。」とつづられていたのだ。

 この時の私は、著者の言わんとすることが理解できなかった。なぜなら、自己愛とセルフラブは、同義だと思っていたから。そして、ありのままの自分を受け入れることは、セルフラブであり、自己愛の在り方だと認識していたのだ。

 けれど、このフレーズをきっかけに、わかったことがあった。どうやら自己愛という言葉は、良い意味で捉えられていない場合があるということを。それも、ひとりふたりではなく、一定数いるのだと。

 そこで、自己愛という言葉の定義を調べてみることにした。知りたかったのだ。私がどう定義するかではなく、社会ではどのように扱われている言葉なのか、ということを。

 その結果、自己愛の英語訳にはふた通りあることと、自己愛は心理学の場面で使われている言葉であることがわかった。


 

 自己愛という言葉の定義において、重要な人物は2人。精神科医・精神分析学家のフロイトと、同じく精神科医・精神分析学家のコフートである。

 まずフロイトは、自己愛を「自分自身を性的な対象とみなした状態」と定義した。これがナルシシズムとほぼイコールであり、ここからネガティブで病的なイメージが連想されていたのだ。

 一方でH.コフートは、フロイトとは異なる見方をした。健全な自己愛は、人間の創造性(creativity),共感能力, 人間の有限性を思索する能力,人間の英知をももたらすのだと。

 つまり、自己愛とは、人間の力を最大限発揮していくために必要なことだと言える。そこには、自己肯定感や、他者を思いやる慈愛の精神、共感力などが含まれているのだ。

▽参考文献
H.コフートの自己愛論 ―自己心理学への展開―(中野明德 著)19-167.pdf (fukushima-u.ac.jp)

 フロイトとコフートのそれぞれが語る自己愛は、認識が大きく異なることをお分かりいただけただろうか。

 私の考える自己愛とは、どちらかと言えば、コフートの思想に共感するところである。けれど、フロイトの思想で自己愛を定義している人達もいる。そのことが、言葉の定義を探究したおかげで、歴史的背景から見えてきたのだ。


伝わりやすい言葉を選ぶ


 言葉の定義がそれぞれで異なるということ。

 それは、対話をするうえで、難しさをもたらす要因のひとつとなりうる。なぜなら、言葉の定義に共感できるということは、共通認識があるということだからだ。

 共通認識があるということで、伝え易さ、受け取り易さは格段にあがる。それが、対話し易さに繋がるのだ。

 ただし、共通認識がないからと言って、対話ができないわけではない。お互いの考えを分かち合う意識があれば、対話はできる。考えを擦り合わせ、新たな共通認識を共有できるだろう。

 
 ここで、自己愛という言葉の認識が様々あることがわかったところで、自分の認識のほうが正しいと言いたいわけではない。

 認識の違いがある言葉を取り扱っている。この意識を、自分の中に持っておくことが大切なのではないかと。認識の違いは、反感や混乱をも生じやすい。伝わりにくさ、伝えにくさという感情が、その言葉にも宿ると思う。どちらかと言えば、ネガティブな意識である。

 言葉は言葉以上のことを語る。

 それならば、「自己愛」という言葉を使わずに、「セルフラブ」というカタカナ表記のほうがよいのではないか。そのほうが万国共通で、自己肯定感や自他を思いやることが意味合いとして含まるし、言葉の共通イメージが伝わりやすい。

 「セルフラブ」に出会った頃は「自己愛」という言葉を使っていた。けれど、伝わり易さを考えて、あえて日本語に訳さない。私は、言葉の定義を探究することで、言葉の力を十分に発揮させていきたいのだ。


セルフラブを再定義する

 
 最後に、自分で自分を愛するセルフラブは、社会に無関心であり、自分さえよければいいという自己中心的な意味合いではないと、再度綴っておきたい。

 私が定義するセルフラブは、「私という素材を活かして、人生を楽しむこと」

 私という素材を活かすことも、人生を楽しむことも、一人の力だけではできないし、人任せでも実現しない。楽しむという姿勢は、受動的ではなく、あくまで能動的な姿勢をさす。

 つまりは、エンターテイメントな媒体か何かに楽しませてもらう・・・・・・・・のではなく、日々の生活を楽しむという意識をもって・・・・・・・・・・・・過ごすということだ。

 自分を自分で愛することを起点として、セルフラブの輪は、どんどん拡大していく。それは、自分も周りにいる人も、生きやすさや心地よさを常に感じている状態だ。

 生きやすい、と感じられる人たちが増えたとしたら、どれだけ生き生きとした社会になるだろう。

 I'm OK. You're OK.
(私はいい状態だし、あなたもいい状態)

 これが、セルフラブの在り方だ。



▼参考文献
・『暇と退屈の倫理学』(新潮文庫)國文巧一郎(著)
自己愛と依存の精神分析-コフートの心理学入門-(PHP新書)和田秀樹(著)




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