「見られること」への執着 - 2024/03/06
今日も家から出なかった。
昨日、一週間ぶりくらいに少しだけ外出した。パートナーがいてくれたから、まだ落ち着いていられたけど、帽子は必須だ。
帽子を被り、足元を見て歩く。危ないと思ってはいるけど、前を向くことができない。パートナーの動きを見ながら、なんとなく安全そうなところを歩いていく。
コンビニでも、人の顔を見ないように帽子で遮る。別に見たいものがあるわけでもないのに、人を避けるために棚へ目を移したりする。
「誰かに見られている感覚」は変わらないが、人の顔を見ることなく、無事に帰宅した。
これはパートナーがいるからできることで、ひとりだと厳しい。今はひとりでレジに行くのも辛いだろう。店員さんと話すハードルが高い。
パートナーにならちゃんと話せるし、家にいれば安心できる。だから、ずっと家にいる。
ひとりで家に居ると、僕が本当に存在しているのか不思議に思えてくる。僕が今、この家にいることを知っているのはパートナーだけ。
でも、そのパートナーが出掛けていて近くにいなかったら、この家の中に僕がいることを知る人はいない。家の前を通っても、見ただけでは分からない。
そう考えると、今ここにいる僕を観測できる人がいないことになる。
客観的に存在しているかどうか分からないんだったら、僕は存在していないことと同じなのではないか。僕を客観的に見てくれる人がいるから、僕の存在があるのではないか。
そんなことを考える。
僕は、「誰かに見られている感覚」が辛くて外出できないのに、ひとりになると誰かに見ていて欲しくなるのだ。
注目されたり、凝視されることは恐ろしいけど、僕が生きてることそのものを誰かに見届けて欲しい。そういう感じなんだと思う。
見られることに執着しているのは僕の方なのか。
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