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カヨの話②:直面した格差と差別

定時制高校、カナダでのホームステイ、専門学校、アラスカでのインターンシップと、カヨはすべて自分で決めて、自分の力でやってきた。人生とはそういうものだと思っていたし、自分がやりたいことをするのが当たり前だった。けれど10代の子が考えることには限界もある。

そのことを突き付けられたのが就活だ。カヨの希望する職種や企業ではどこも大卒が条件だった。このときになって初めて、専門卒のカヨには希望の仕事に応募する権利すらないことに気付いたのである。ようやく面接にこぎつけても、定時制高校卒業という経歴に面接官の顔が曇る。そんな状況では大学、あるいは全日制高校に行けばよかったかという考えがよぎらないこともなかったが、過去の決断を後悔したくはなかった。

ようやく就職できたのは、大手旅行代理店の子会社だ。しかしそれは有期契約雇用だった。正社員は大卒にのみ開かれた特権だったのだ。

正社員と契約社員では内定式からして別々だ。当然業務も異なり、正社員は営業、契約社員はガイドやホテル、通訳、レストランなどの手配業務を担当する。契約社員からの正社員登用もあるにはあるが、プロパーの正社員とはまた区別され、給与体系もキャリアパスも全然違う。まるで隔離政策のようなその扱いの原点にあったのは「大卒か否か」である。どうやらその会社では「大卒でない=能力がない」と自動判定されているようで、能力があるのに大学に行かない人などいるはずもないという前提が透けて見えた。

当時カヨが担当していたのは、営業が作った企画に合う通訳ガイドの手配である。仕事は大変だけど楽しかったし、通訳者がツアー参加者からお礼の手紙をもらったと聞くと嬉しかった。けれど、その会社での未来は見えなかった。正社員になれたとしても、専門卒の自分は会社の中心業務にかかわることはない。自分がその会社で、もっと言うと日本の企業社会で成功していく姿はどうしても描けなかった。それに、周りの人が皆同じように進んでいく人生の定型パターンにも違和感があった。定時制高校時代のように、価値観の違う人に囲まれる方がずっと居心地が良かった。

そんななか、カヨは友人に会いにニュージーランドを訪れた。1週間の休暇である。そこで自分らしく生きている友人の姿を目にしたとき、カヨのなかで張り詰めていた糸がぷつっと切れた。それまでは何かを辛いと感じる余裕すらなく、ただその瞬間をがむしゃらに生き、ひたすら前に進んできた。けれど、そのときカヨは初めて自分の状況を辛いと思った。

その会社は結局3年も経たずに辞めた。大企業の系列会社を3年未満で辞めてしまうことに不安がなかったわけではない。大卒ではない自分にはその先の選択肢が限られていることも十分わかっている。けれど、何かを変えたいという思いの方が勝った。そしてカヨはワーキングホリデービザを取得して、ニュージーランドのオークランドに渡った。

ワーホリではとにかく英語を身につけることに専念した。そのための職場として選んだのは現地のレストランだ。ホールスタッフとして客と英語でコミュニケーションするのは、100%英語の環境で働いたことがないカヨにとって大きな挑戦だった。

会社勤めを経験した人が次のステップとして「ウェイトレス」などの現場仕事を選ぶことはあまりないだろう。その点カヨには変なプライドがまったくなかった。そのときに自分がいいと思うことをやる、それだけだ。幸か不幸か、周りから期待されて育ったこともなければ、褒められる体験を重ねたこともない。そんな生い立ちでは下らないプライドなど育つはずもなく、だからこそカヨは自由だった。街で気になるレストランに飛び込んでは、履歴書を手渡しして回った。目の前で捨てられたこともあるが、めげなかった。

そうして採用されたのが現地の高級レストランだ。しかし仕事が始まると思っていたよりもずっと大変だった。同じ英語でもニュージーランドのアクセントや言い回しは独特だ。レストランのようなホスピタリティ産業でコミュニケーションが出来なければ話にならない。だから必死に頑張った。

もう1つ、まったく想定していなかった苦労があった。人種差別だ。レストランのスタッフも客もほぼ白人の世界である。カヨが英語で説明しても、「中国語で言われてもわかんない」と返される。同僚と仲良くなろうと「日本人と付き合ったことある?」と聞いても「そもそもアジア人とはやらない」と言われたこともある。女だということで余計に舐められてると感じることもよくあった。

だからカヨは、実力で見返そうとした。アラスカ時代と同様、ここでも自分が努力しなければと思ったのだ。本来実力があろうとなかろうと差別などしていいはずがない。たとえ努力の結果受け入れられたとしても、「マジョリティにとって好ましい人間だけを受け入れる」というその構造自体が差別である。けれど、実際に差別されてみると、自分を守るためにできることを何でもするという意識が働くものだ。ひとり外国で働く24歳の女子が「自分が頑張って認めてもらえれば状況は変わる」と考えたのも何ら不思議ではない。

カヨはとにかく客をよく見てこまめに配慮するようにした。写真を撮りたそうな客がいたら「撮りましょうか」と声をかける。ちょっと怖そうな人が居ても、敢えてフレンドリーに話しかけた。そうしてよく気が付くスタッフとして立ち回ったことが評価され、時給も上がった。それに伴い、同僚からの差別発言も収まった。

ワーホリの後半はクイーンズタウンに移った。会社員時代に休暇で訪れた街である。ここでも現地のレストランで働いたが、同じ時期に入った白人のカナダ人ばかりがシフトに入り、カヨは全然入れてもらえない。クイーンズタウンはオークランド以上に白人の街だったのだ。カヨの経済状況はギリギリで、肉を食べたくても買えない生活が続いた。アパートに帰ると8人の中国人ルームメイトたちがいつも中国語で賑やかに話している。仕事もお金もなく、日本語も話せない。自分はこんなところまで来て一体何をやっているのだろうという思いだけがどんどん大きくなっていく。毎日泣いて過ごした。

ひもじく辛いクイーンズタウン生活には結局1か月半で見切りをつけ、オークランドに戻った。日本での辛い社会人生活の束の間に訪れたクイーンズタウンはとても魅力あふれる街だった。しかし観光で訪れるのと住むのはまったく違う。カヨにとって、そこは生きるのに辛すぎる街だった。せっかく行ったけれど、ダメだった。悔しかった。

Photo by mona Masoumi on Unsplash

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