コミュニティの平和の維持と個の可能性

インド人から直接舞踊の指導を受けています。

・出たとこ勝負。全て初見。

・初見で上手にできても全く褒められない。間違得た場合は、徹底的に、何度も、間違えなくなるまで指摘される。

・人間の身体には限界がない、という前提で進んでいく。身体が壊れたらその時考える。


日本人から他の舞踊やインドの伝統芸能の指導を受けて感じるのは、日本には常に関係性とういうクッションが人と人の間に挟まっているということです。

日本人の先生がレッスンの場で一人の生徒を明らかに褒めちぎることはあまりないように思います。一対一になったときに、(褒めることがあれば)褒めて下さるイメージです。

インド人の先生は、日本人の自主練に驚きます。そこまでしなくてよいのに、と。


日本人をはじめとした東アジア人が、留学先の欧米の大学で勉強を頑張りすぎてクラスメイトに気持ち悪がられるという話を思い出します。

私はインド舞踊の進級試験前に自主的にスタジオを借りてほぼ毎日1.5時間練習と調整を続けた結果、試験当日に脚が折れなくなりました。

日本人の先生は、日本人の生徒がそういう気違いじみた自主努力をしかねない生き物だと理解しているので、「徹底的に、何度も、間違えなくなるまで指摘」はしません。

ただ、おそらくインドでは生徒が自主努力をするかどうかという点について、先生は確信が持てないのかもしれません。その結果、徹底的に、何度も、間違えなくなるまで指摘します。

日本人は、傷つき怯え、日本人としての矜持や日本人とインド人の骨格の違いも相まって、脚を壊すのだなと、愚者は経験から学びました。


当日は、日本では考えづらいのですが、脚や背中を故障したことを前提として試験が行われました。

日本であれば、試験当日に身体をベストのコンディションに持ってこられなかったことを責められかねないので、そのあたりはインドの柔軟性というか交渉力が貴ばれるところを強く感じました。



自身で実感することはそれほどないのですが、インドは人口が多い国です。代わりはいくらでもいる、というプレッシャーが常時あります。

信号が変われば順々に車が発信していくにもかかわらず、赤信号が青信号に変わった瞬間に、全員がクラクションを鳴らします。

前の車が遅いことを非難しているわけではなく、「自分はここにいる」「自分は前に進みたい」ということを常に主張していないと後回しにされてしまうということが身体に染みついているからだと教わりました。


Sushant Sign Rajputは、自身の実力でボリウッドのトップスターになった人物として知られています。

彼が2020年6月にallegedly自殺したと報じられる前からも、彼のファンの中にはnepotism批判を公言する人がいたようです。

時を同じくして、きらびやかで美しい(だけの)ボリウッドが飽きられて、南インドの社会的メッセージ性のある映画が世界的に注目されるようになってきたのも興味深い話です。

チャンスを逃さず、大事な場面できちんと結果を残して次のチャンスをつかんでいくSSRのような心構えでいたいと思います。

少しでも共有できる思いがあったのであれば嬉しいです。 電気を届けるしごとに思いをはせる「白金プラチナ電設」もご贔屓に。