見出し画像

諏訪大社で戦勝祈願?:「三方ヶ原の戦い」を地形・地質的観点で見るpart4【合戦場の地形&地質vol.5-4】

歴史上の「合戦」を地形・地質の観点で考えるシリーズ。

「三方ヶ原(みかたがはら)の戦い」は、徳川家康が武田信玄に大敗した戦として有名です。

前回は武田軍本体が日本屈指の大断層である「中央構造線」に沿って行軍した可能性に触れました。

今回は古地図を見ながら、街道ルートを確認してみましょう。


古地図でルート探訪

進軍ルート≒秋葉街道?

武田軍本体の進軍ルートに関しては、ウィキペディアによれば「甲府から諏訪を迂回し青崩峠を通って遠江国へ侵攻」という情報しかありません。

そこでまず、古地図で青崩峠を探してみましょう。

信濃国絵図南端部:国立公文書館デジタルアーカイブより

青崩峠は長野県の南端部で静岡県との県境にありますから、上図の右下の「遠江国」と書いてある水色のエリアとの境目辺りを探してみます。

信濃国絵図 青崩峠周辺を拡大:国立公文書館デジタルアーカイブより

あっさり見つかりました(笑)
まさか「青崩峠」の地名そのものの記載があるとは。
それだけ有名な峠なのでしょうか。

脇には街道(赤線)記載もありますし、これを北へたどります。

信濃国絵図 青崩峠周辺を拡大②:国立公文書館デジタルアーカイブより

どうやら、街道は北の方へ続いているようです。
ところどころ街道(赤線)が途切れているんが気になりますが、これは山道で複雑なかたちだからでしょうか?もしくは崩れるたびにルートを付け替えているから?

それはさておき、街道を北の方へたどっていくと・・・

武田軍本体の想定進軍ルート
信濃国絵図(国立公文書館デジタルアーカイブより)に筆者一部加筆

概ね上図のようなルートを想定しました。
おそらくこれが秋葉(あきは)街道に一致すると思います。

なお青丸が高遠城(たかとおじょう)です。
三方ヶ原の戦い当時は武田信玄の実弟である武田信廉(のぶかど)が城主であった城で、対織田・徳川の前線基地だったようです。
当然、本軍はこの城に立ち寄ったことでしょう。

諏訪~高遠城ルート①

ではまず、諏訪から高遠へのルートをたどります。

武田軍本体の想定進軍ルート(諏訪-高遠区間)
信濃国絵図(国立公文書館デジタルアーカイブより)に筆者一部加筆

諏訪から高遠城へ至る街道は、北部は2ルートありますが、まず間違いなく西を通ったと考えられます。
と言うのも・・

武田軍本体の想定進軍ルート(諏訪-高遠区間②)
信濃国絵図(国立公文書館デジタルアーカイブより)に筆者一部加筆

赤点線で囲った範囲に、建物や木々の絵が描いてありますよね。
これまで色々な地域の古地図を見てきましたが、このような絵が描いてある場所は、由緒正しい神社を示しています。

諏訪周辺地形図:スーパー地形より抜粋

現在の地形図で見ると諏訪大社でした。
諏訪明神は武勇の神としても信仰されており、武田信玄も信仰していたようです。ここに立ち寄って戦勝祈願したと考えて間違いないでしょう。

古地図を見ると、諏訪大社の絵のすぐ北の街道上にある村は、読み辛いですが、おそらく「高部村」です。
そして現在の地形図では、諏訪大社上社本宮(上図左)と諏訪大社上社前宮(上図右下)の間(上図中央)に「高部」という地名があります。
おそらくこの谷筋を南下する街道があったと思われます。

そしてなんと!
この「高部」は、中央構造線が通っているであろうと推定されている場所です。
実は高遠より北では、中央構造線を直接確認することができません。
約100~150万年前に噴出した溶岩に覆われているためです。

「高部」付近でも露頭として直接確認されていないようですが、中央構造線を挟んだ両側の地層は確認されているので、その間を通っていると推測されています(牧本ほか1996より)。

次回は秋葉街道をたどりながら、中央構造線も追っていきます。
お読みいただきありがとうございました。

参考文献

牧本 博・高木秀雄・宮地良典・中野 俊・加藤碵一・吉岡敏(1996) 高遠地域の地質.地域地質研究報告 ( 5 万分の 1 地質図幅),地質調査所,114p.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?