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蛇行の国へようこそ:「三方ヶ原の戦い」を地形・地質的観点で見るpart11【合戦場の地形&地質vol.5-11】

歴史上の「合戦」を地形・地質の観点で考えるシリーズ。

「三方ヶ原(みかたがはら)の戦い」は、徳川家康が武田信玄に大敗した戦として有名です。
前回は青崩峠を通過して南下した武田信玄本軍が、犬居城へ至るまでのルートは2通りあると紹介しました。

前回記事はコチラ👇

今回は秋葉山の東を通るルートを詳しく見てみましょう。


2ルートの概要

私が初めに武田本軍が天竜川沿いの南下ルートを通っと推測した理由は、ズバリ「分かりやすさ」でした。
ひたすら川を右手側に見ながらの行軍ですし、途中に通過する集落も多い。
確実に目的地へ向かうことができそうですよね。

一方、秋葉山の東をまわるルートは、しばらく何も目印のない山中を歩くことになります。

犬居城へのルート:遠江国絵図(国立公文書館デジタルアーカイブより)に筆者一部加筆

この古地図を見ても西回りのルートの方が分かりやすそうですよね。

ところが!です。
この「分かりやすさ」と言う理由は、あくまで「道を知らない場合」です。
もし武田軍が道を知っていたとすれば?
より人目につきにくい東回りを通りそうだと思いませんか?

犬居城主の裏切りはあったのか?

インターネット上で様々な資料を探すうちに、以下のサイトを見つけました。

これによれば、犬居城主である天野藤秀が青崩峠で武田軍を出迎え、道案内をしたとされています。

※歴史の信憑性について
このサイトの管理人さんは様々な史跡を訪れ、そこの説明版を読んだり、様々な書物を参考にしているそうです。
ご本人は「あくまで趣味」と仰っていますが、一定以上の信頼性があると考え、参考にさせていただきました。
日本の歴史について情報収集すると「様々な説があるのだな」と痛感します。最近見たとあるyoutube動画では、三方ヶ原の戦いに至るまでの武田軍の進軍ルートが全く異なっており、困惑してしまいました(;^_^A
私の記事でも、あくまで「1つの説」を参考にしていますので、その点ご了承ください。

さて、犬居城主の道案内があったとなれば、話は変わってきますよね。
武田軍本軍は、これまでの進軍ルートを見ても「極力、徳川方に情報が漏れないように注意を払っている」と私は考えています。

となれば、多くの集落を通過する天竜川沿いのルートよりも、東回りのルートを選びそうだと思いませんか?
しかも地形的にも、犬居城主の支配が及んでいるのは東側と推察されます。
では、東回りルートを見てみましょう。

蛇行の国:犬居

東回りのルートをもう1度見ましょう。

犬居城へのルート②:遠江国絵図(国立公文書館デジタルアーカイブより)に筆者一部加筆

上平山村から久保田村まで、ひたすら山の中を通ります。
途中に集落は一切ありません。
幸い、どちらの村も現在まで地名が残っていました。

上平山ー久保田間のルート:スーパー地形画像に筆者一部加筆

現在も登山道がありましたので、大まかになぞってみました。
ひたすら谷と尾根を通る山道です。

犬居城周辺の地形図:スーパー地形画像に筆者一部加筆

地形が分かりやすいように、地形図だけの表示にして広範囲で見てみましょう。
西をほぼ南北に流れているのが天竜川。
北東から南西へ流れているのが気田川(けたがわ)です。
黄丸が上平山、緑丸が久保田、赤丸が犬居城です。

天竜川沿いと気田川沿いでは、地形が明らかに違うのが分かるでしょうか?
天竜川は南部では蛇行してますが、北部はほぼまっすぐですよね。
一方の気田川は大きく蛇行し、かなり入り組んだ地形をしています。

犬居城周辺の地形図②:スーパー地形より抜粋

これが犬居城周辺の地形図です。
蛇行している河川は、長い年月の間に流れる場所が変わります。
現在平坦地になっている場所は、かつて川が流れており、砂や泥、礫が堆積して平坦地を形成しています。
またところどころに一段高い段丘があります。
これら平坦地はたまに洪水に遭うものの、住みやすく耕しやすいため、多くの人々が暮らし、水田を営んでいます。

上平山周辺の地形図:スーパー地形より抜粋

こちらが上平山周辺の地形図です。
犬居城周辺とは打って変わって天竜川沿いは急斜面で平坦地はありません。
東側の斜面の方が緩やかとは言え、約30度の急斜面。
そこにへばりつくように人々が暮らしています。

両者を比べると、生活様式や育てる作物の種類も違っていそうです。
統治する殿様も違うのかな?と想像できますよね。

この違いは何によって生み出されたのでしょう?
もちろん地質が原因ですが、詳しくは次回へ続きます。

お読みいただき、ありがとうございました。

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