断層が無い場所は集落はできない?:「三方ヶ原の戦い」を地形・地質的観点で見るpart5【合戦場の地形&地質vol.5-5】
歴史上の「合戦」を地形・地質の観点で考えるシリーズ。
「三方ヶ原(みかたがはら)の戦い」は、徳川家康が武田信玄に大敗した戦として有名です。
前回は信濃国の古地図から、武田軍本体の進軍ルートを想定しました。
その結果、このルートは現在で言う秋葉(あきは)街道に概ね一致するであろうと言う結論に至りました。
秋葉街道は諏訪神社の近くを通っており、武田信玄は諏訪神社で戦勝祈願をしてから進軍したと思われます。
そして神社近くの街道入り口付近は、やはり日本屈指の大断層である中央構造線が通っていることが分かりました。
今回は諏訪から南に向かい、秋葉街道と中央構造線を追っていきましょう。
諏訪~高遠区間①:集落の空白地帯
諏訪から高遠までの区間を、北から順に見ていきましょう。
諏訪神社付近の高部村(上図赤線の北側先端)より南では、しばらく集落はありません。
10kmほど南下すると集落が4つあります。
赤丸で囲っている村は、現在でも地名が残っていました。
東が「松倉新田」、真ん中が「御堂垣外」、西が「水上」です。
現在の地形図で確認しましょう。
北の青丸が高部。
南の赤丸が「松倉」、黄丸が「御堂垣外」です。
水上は実際はもう少し南にありました。
「松倉新田」が現在は「松倉」であることを考えると、古地図がつくられた当時(1800年代)に新しく開発された村だったのでしょう。
とすると、武田信玄が進軍したときには無かった村なのかも知れません。
この「集落の空白地帯」は中央構造線の分布と奇妙にも一致します。
丸で図示しているのが各集落で色は同じです。
黒線が中央構造線です。
ちょうど松倉のあたりで途切れていますよね。
これは松倉(赤丸)と高部(青丸)の間の茶色で塗られた範囲が約100~150万年前に噴出した溶岩であり、中央構造線の上を覆って隠しているためです。
逆に言えば、この地域の中央構造線は約100~150万年前から近年までは、断層運動が活発ではなかったと言えます。
つまり、地表部の溶岩(安山岩~デイサイト)が破砕されておらず、硬い地層のため耕しにくい土地だったのでしょう。
諏訪~高遠区間②:河川沿いのまっすぐ地形
松倉から南を見ていきましょう。
松倉(上図赤丸)から荒町(上図青丸)までは中央構造線は山間部を通っており、街道は西の川沿いを通ることになります。
荒町(上図青丸)から板山(上図赤丸)までは、中央構造線は川(藤沢川)沿いを通っており、概ね街道に一致します。
幅は狭いですが、まっすぐ伸びる谷地形なので歩きやすそうですよね。
古地図で見ると、やはり荒町から板山にかけて川沿いに街道が通っているのが分かります。
街道は板山(上図赤丸)の北西の「野笹村」で途切れてしまい、藤沢川もこれより下流では屈曲して南西に流れを変え、狭窄部を通っています。
中央構造線はまっすぐ南南西へ伸びていますが、藤沢川は何らかの理由で断層沿いは通らなくなり、硬い地層を無理やり通るかたちとなり、狭窄部となったのでしょう。
諏訪-高遠区間では、中央構造線が隠れていたり山間部を通っていたりと、必ずしも「中央構造線=秋葉街道」ではありませんでした。
しかし途中の荒町~板山区間を見ると、断層でつくられた狭くまっすぐな谷地形が、人々の通り道になりやすいとイメージできたかと思います。
高遠城より南では、断層地形が明瞭になっていきますので、次回以降では、いよいよ「静かなること林の如く」を実感できると思います。
なお今回は詳しく説明しませんでしたが、山間部や藤沢川沿いでは断層がつくったであろう特徴的な地形がいくつも見られます。
別の機会で詳しく紹介しますので、お楽しみに。
お読みいただき、ありがとうございました。
参考文献
牧本 博・高木秀雄・宮地良典・中野 俊・加藤碵一・吉岡敏(1996) 高遠地域の地質.地域地質研究報告 ( 5 万分の 1 地質図幅),地質調査所,114p.
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?